味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

官に常貴なく、民に終賤なし。

2015-11-09 10:02:06 | ブログ
第2508号 27.11.09(月)
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官に常貴(じょうき)なく、民に終賤(しゅうせん)なし。『墨子』
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 役人は、賢才をいい位置につけるがよい。それも特定の人間が永久に貴い位置にあることはよくない。また民にあっては、努力する人間が富み栄えるべきもので、いつまでも同じ人が賤しい位置にあるということは望ましい政治ではない。378
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 【コメント】たしかに解説のとおりではあると思いますが、〈富み栄える人〉も自分だけという了見の狭いものではよくないでしょう。〈同じ人間が賤しい位置〉というのは与えられた所で仕事が十分できればそれていいのではないかと思います。役職的なことにこだわる必要はないでしょう。
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 最終的な人間の評価は、清廉にして、情熱的に、諦めることなく、世の人々と共に意義ある人生を邁進することではないでしょうか。その人がいなくなっても、後々人々が人格を惜しむ存在でありたいものです。
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 昨日は、来年四月に行われる市議会議員選挙に立候補される方の事務所開きがあり出席しました。実は、『南洲翁遺訓』改竄事件では、この方がいたから、市議会での質問ができ、行政当局の答弁を引き出すことが出来たのでした。
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 同じ空手道師範という立場で、40年間おつきあいしている方でございます。『南洲翁遺訓』改竄事件が完全に収束するまでは、この方に議員として残って戴き、監視をして貰いたいと思っている次第です。
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 万一、『南洲翁遺訓』が改竄されたら、西郷南洲翁ファンの方々が一番困るであろうし、南洲翁、臥牛翁があの世で悲しまれることになるでしょう。
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 口では西郷隆盛を語るけれども、『南洲翁遺訓』改竄等に対する危機感がないというのは、表面だけ南洲翁を慕っていることになるのでしょうか。
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 然し私は、40年間子供たちに『南洲翁遺訓』を教え続けているので絶対あきらめるわけにいかないのでございます。

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『臥牛菅実秀』(第46回)
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 松平権右エ門は、
「どうも若い連中が゜困ったことをやり出したと思って見ていると、その中に秀三郎はんが加わっていないことはない。」
と苦笑しながらも、実秀のたのもしい気骨を愛していたし、実秀もまたこの人から多くの薫陶を受けたのであった。
 藩主忠発の側用人山口三郎兵衛将順も、周囲のいろんな批判にもかかわらず、早くから実秀に目を注いでいた一人であった。

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 側用人。藩主の側にあって政務の取り次ぎをなすものであるが、藩政の枢機に参与する重要な役目であったので、歴代その選任には意を用いた。-----鶴岡市史・上-----
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『論語』(第441)
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 子曰はく「由や、女六言(なんじろくげん)の六蔽(へい)を聞けりや。」対えて曰はく「未だし。」「居れ、吾女(われなんじ)に語(つ)げん。仁を好んで学を好まざれば、其の蔽や愚。知を好んで学を好まざれば、其の蔽や蕩(とう)。信を好んで学を好まざれば、其の蔽や賊。直を好んで学を好まざれば、其の蔽や絞。勇を好んで学を好まざれば、其の蔽や乱。剛を飲んで学を好まざれば、其の蔽や狂。」
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 孔子が子路の名を呼んでこれに告げて言うには、「由、おまえは六言の美徳に六蔽のあることを聞いたか。」子路が起って対えて曰うには「まだ承りません。」孔子「まあ坐れ。わしが話して聞かせよう。美徳は必ず学によって成就する。
 仁を好んでも学を好んでその理を明らかにしなければ、心が蔽われて仁の全体を見ることがではきないから、陥れられたり罔<fontsize="1">(くら)
まされたりする。これを愚という。
 知を好んでも学を好んでその理を明らかにしなければ、心が蔽われて知の全体を見ることができないから、心を無用の処に用いて窮むべからざることをも窮めようとする。これを蕩という。
 信を好んでも学を好んでその理を明らかにしなければ、心が蔽われて信の全体を見ることができないから、小信を固守して利害を顧みず、人を害し己を害するに至る。これを賊という。
 直を好んでも学を好んでその理を明らかにしなければ、心が蔽われて直の全体を見ることが出来ないから、あまりきびしすぎて人情に外れるようになる。これを絞という。
 勇を好んでも学を好んでその理を明らかにしなければ、心が蔽われて勇の全体を見ることができないから、徒に血気の勇を恃んで上を犯し人を凌ぐようなことをする。これを乱という。
 剛を好んでも学を好んでその理を明らかにしなければ、心が蔽われて剛の全体を見ることが出来ないから、わが意に任せて軽挙妄動するようになる。これを狂という。」
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『農士道』(第323回)
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 天に於ける「日」、地に於ける「火」、を「ひ」と呼ぶのも、古人が之を一切生命の根源と考えたからであろう。天日(太陽)が一才活動の根源たることは、今日の進歩せる科学の教ふる處を以てするも、一切の勢力の根原は太陽より発するとされている。太陽を呼ぶに「ひ」を以てするは当然の真理である。次に地上の「火」を「ひ」と呼ぶも亦意味あることで、人間でも動物でもすべて血の気のあるものは、生きてゐるといふことは、温気のあること、随って冷くなったといふことは生命が絶えたといふことになる。
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