味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

民は惟れ邦の本なり。本固ければ邦寧し。

2015-11-08 08:50:45 | ブログ
第2507号 27.11.08(日)
.
民は惟(こ)れ邦(くに)の本なり。本固ければ邦寧(やす)し。『書経』
.
 人民こそは国の根本であり、その根本を固くしていけば、国は安らかに治まる。民をうとんじてはならない。200
.
 【コメント】人こそが邦の本であり、企業の本であり、家族の本であると思います。その中で、年齢、地位の上下はあっても、お互いが理解しあうことが大切でもありましょう。
.
 昨夜の本部空手道の御稽古も賑わいました。『南洲翁遺訓』第25章、「誓いのことば」は二項、「人とのつきあいには、自分のさいこうの誠(親切心)を尽くします。」を覚えるため、集中的に唱えました。
.
 『南洲翁遺訓』を子供たちが理解しやすく教え、そして非違行為につながることのないよう、導かねばならないと思います。
 昨日も、現職警察官が女性警察官の仮眠室に、隠し撮り用のカメラみたいなものを於いていて発覚したとの報道がありました。男が女性に興味を持つのは当然ですが、刑法に停職するようなことをしてはならないと思います。依願退職をした男は後悔していないのでしょうか。
 これらは幼い時に徹底して教えなければならないと思う次第です。

-------------------
『臥牛菅実秀』(第45回)
.
 -----実秀には実秀としての考えがあったのである。
「自分は青年時代、しようのない暴れ者といわれたのは決して偶然ではない。人情として人に誉められることは気持ちのいいものだし、人から悪くいわれることは避けて、気持ちのいい方に走りやすいのもまた人情だ。しかし自分は、人に誉められることを喜ぶようになっては、もうおしまいだ。芯止まりになってしまうと思った。それでわざとでも、あっちにぶつかり、こっちに噛みついて、四方八方から叩きつけられていたのだ。」
と述懐している。
 実秀はこうして四方八方から叩かれていた。叩かれるたびに真剣に自分を考えた。どうしても、納得のいかないことは、あくまでも抗論した。そして自分をより不屈なものに鍛えようとしていたのである。

-----------------
『論語』(第440)
.
 仏キツ(ひっきつ)召ぶ。子往かんと欲す。子路曰はく、「昔者、由や諸を夫子に聞く。曰はく、「親(みずか)ら其の身に於いて不善を為す者は、君子は入らず」と。仏キツ中牟(ちゅうぼう)を以て畔(そむ)く。子の往くや之を如何。」子曰はく、「然り、是の言あり。堅きを曰はずや、「磨すれども磷せず」と。白きを曰はずや「涅すれどもしせず」と。吾豈匏瓜(ひさご)ならんや。焉んぞ能く繋りて食はざらん。」
.
 晋の大夫趙簡子の家老の仏きつが謀叛を起し、孔子を招いたので往く気になられた。すると子路が、「以前に由は先生から、「其人自身不善を行ふような者の仲間入りを君子はせぬものぞ。」と伺ったことがあります。然るに預かりの代官所中牟を押領して主にそむいた仏きつの所へ行こうとされるのは、いかがなものでしょうか。お言葉に矛盾するように存じます。」と諌めた。
 孔子がいうには、「なるほどそういうことを言ったこともあるが、それは修養中の者についての話で、道を天下に行はんとする者の志は又違う。そしてともかくもわしほどになれば、不善の人の中に投じても、かれらを感化指導こそすれ、まさか不善に化せられることはあるまい。諺にも、堅い物のことを、いくら磨いても薄くならないといい、白い物のことを、いくら塗っても黒くならぬと言うではないか。わしは食用にもならずにブラリとさがっている苦瓜にはなりたくないぞ。」

-----------------
『農士道』(第322回)
.
 更に之を分っていへば、「産(む)す」は「産む」であり、(「苔の産すまで」といふが如く)「霊」はそれを本体的に見たる霊毘なる力をいふのである。かくて産れた子女を、「産す子」「産す女」といい、又之を比子、比女(霊子、霊女の意)というなどに徴しても明らかであらう。かくて本居翁も「されば産霊とは凡そ物を生成することの霊毘なる御霊を申すなり」といってゐるが如く、一切万物の生命の根源を「ひ」といふのである。
--------------