味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

君たるの道は、必ず須く先づ百姓を存すべし。

2015-11-25 10:37:21 | ブログ
第2524号 27.11.25(水)
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君たるの道は、必ず須(すべから)く先づ百姓を存すべし。『貞観政要』
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 君主としての道は、必ずぜひとも人民たちをあわれみ、恩恵を施さなければならない。
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 【コメント】何と美しい言葉でしょう。これは『貞観政要』の「君道第一・第一章」の言葉ですが、上に立つ人、君主が苛斂誅求で人々を苦しめて疲弊させるということは、結果的に自分の足の肉を食って満腹するようなことにもなりかねないので、下々の百姓を助けてあげなければならないと訓戒しているのだと思います。
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 そうは言っても、そういう境地に達するということは、日々に学問道にとりくみ、修養を積み、身を修めた人にのみできることでしょう。
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 日本列島を改造しようとして、人々が想像もしないようなことをして財を貯え、子孫にのみ残すというようなことは、天が承知する筈がないでありましょう。
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 それと比較し『名君忠徳公』の采配はお見事というほかないでありましょう。権力をもっている人が、学問と修養により、自らを制御し自覚をもって事に処す、まさしく名君と称される存在であったということでしょう。
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 それらを熟知していた菅臥牛翁であったからこそ、西郷南洲翁の人物を見抜き、その精神こそが「大和」の國「ひの本」精神であり、これを基調として『南洲翁遺訓』を刊行したのだと思います。
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 そこには人物を見抜く人も見抜かれる人も、品性に於いて透徹した次元であったということなのでしょうか。
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 そこにきて、『南洲翁遺訓』を改竄するという御仁は、「権力」という魔物にとりつかれ、陰性の横暴を振るうとした自覚なき権力の未遂事件でもあったということでしょう。だがこれは全面解決をみていないと私は視ています。

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『臥牛菅実秀』(第62回)
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 必死になれば過ちもあり、傷もでるのが当然なれば、志ある者は、決して清鉋はかけぬものなり。菅実秀
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   江戸における活躍
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   (一)
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 文久三年という年は、王政復古の大号令の出た慶応三年(一八六七)のわづか四年前であるが、この大きな転換の時代を『臥牛先生行状』には、つぎのように描き出されている。
  此の頃、徳川氏祖宗の威徳漸く衰え、奢侈浮薄の風、海内に蔓延し、十二、三世の将軍(徳川家慶、家定)在職長からず、執政其の人を得ざ  れば弊政のみ多かりき。しかのみならず西洋各国、百般器械の構造、年を追うて開け行く中にも、船舶の結構、最も精を尽し、航海の容易  なりしより、辺海を横行して隙を窺い、東洋の利を獲得せんとして、或は長崎に来り交易を請い、或は箱館(現函館)に至り威嚇するも、執政、優柔不断にして征夷府の重任を挙ぐる能わず、関西の大藩、皆、尊王攘夷の論を主張し、京都に集まり、親王公卿に結託し、皇威を借りて幕府に迫り、征夷府の責任を挙行せしめんとす。

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『論語』(第455)
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 子路曰はく「君子は勇を尚(たっと)ぶか。」子曰はく「君子は義を以て上と為す。君子勇ありて義なければ乱を為す。小人勇ありて義なければ盗を為す。」
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 子路「君子は勇を尚びますか。」孔子「君子はただ義を上(とうと)ぶ。義に於いて為すべきことは憤然として必ず行うが、義に於いて為すべからざることは断然思い止まる。勇は君子の尚ぶ所ではない。有位の君子が勇だけあって義がなければ、その勇にまかせて道に逆らい分を犯して乱を為す。無位の小人が勇だけあって義がなければ、その勇にまかせて欲を縦にし妄行して盗を為す。」
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『農士道』(第339号)
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 吾等日本人は、實に此の感激を以て没我奉仕する「ひの本」民族である。其の心を最も端的に把握するならば「仕」の一字に帰する。仕---つかへる----此の仕の一念を以て大君の為に奉仕すれば、是れ即ち忠であり、此の一念を以て親の為に奉仕すれば、是れ即ち孝である。苟も日本人が日本人的感激を以て、最も純粋に行動する時、其処におのづからに此の「仕」の一念----没我奉仕の「ひの本」精神が発露してゐる。此の一念に立って、職業的活動にいそしむを、此れを是れ「仕事」といふのである。
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只今午後3時40分でございます。「第20次西郷先生の遺徳を訪ねる旅」(平成14年2月21日~)で味園道場(23日)をご訪問してくださった際、ビデオ集録をした映像を観ております。
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 小野寺先生が、元気なお顔で道場に入ってきてくださいました。先生方の御顔は、1.剱持 昭(敬称を略させて戴きます。)2.剱持圭子 3.犬飼隆一 4.小川章 5.佐藤徹 6.佐藤元也 7.佐藤源徳 8.奥山篤弘 9.富樫幸逸 10.渡会順一 11.斎藤要 12.小野寺昭治 13.阿彦誠 14.佐藤昭八 15.高橋儀順 16.東山昭子 17.本間英治 18.佐藤昭夫 19.松井清 20山崎武男 21.小野寺時雄 22.遠田士郎 23.菊池恵 24.佐藤穎 25.岡部均---の皆様でございます。
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 今年は平成27年ですので、13年前でございます。荘内南洲会の先生方のお懐かしいお顔を久しぶりに拝見でき、感慨ひとしおでございます。『南洲翁遺訓』との出会いのお蔭で、荘内の先生方を存じあげ、円心会・味園道場は生きかえりました。小野寺先生も黄泉路でお慶び戴いていることとと存じます。(小野寺先生の最後のご挨拶が大変素晴らしいでした。)
 荘内南洲会の先生方、本当に有り難う存じます。

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 この頃阿曾先生はどこにおられたのでしょうか。荘内南洲会会館にあるテープを御覧頂き、小野寺先生のご挨拶を聞いてくださいませ。

交わり絶ちても悪声を出ださず。

2015-11-24 09:31:20 | ブログ
第2523号 27.11.24(火)
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交わり絶ちても悪声を出ださず。『史記』 
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 君子は絶交したからといって、相手の悪口は言わない。644
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 【コメント】昨日は終日多忙でした。とにかく身体を動かし、頭を使うことが元気の秘訣だと思います。有難いことに小学生たちがやる気充分でありますので、道を踏み外すことのないよう、指導して参りたいと考えています。
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『臥牛菅実秀』(第61回)
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 ところが新徴組の中には無頼の徒も多くまじっており、幕府の考えとは逆に、攘夷の資金と称して富豪を脅迫したり、幕府役人の弱腰をあなどって勝手な行動に出るありさまで、その統制に手を焼いた幕府は、この年の四月、荘内藩に新徴組百六十九人の取扱いを委任した。
 荘内藩では、松平権右エ門の嫡子、権十郎親懐を江戸に急派して、新徴組を取り扱わせることにした。
 このとき松平権右エ門は二十六才の気鋭の青年、菅秀三郎は三十四才の壮年、山口三郎兵衛は五十才の長老であった。
 老公忠発は、この三人を主軸として、この混乱の時代を乗りきろうと考えたのであった。

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『論語』(第454)
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 子曰はく、飽食終日心を用ふる所なくば、難いかな。博奕なる者あらずや。之を為すは猶已むに賢(まさ)れり。
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 孔子が言うには、終日たらふく食べて、一日中、何も心を用いることもなく、ぼんやりしていては、全く困ったものだ。世間には双六とか囲碁などというものがあるではないか。これらは必ずしも好ましい遊戯ではないが、そんな暇つぶしの勝負事でもした方が、何もしないよりかなおましだ。
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『農士道』(第338回)
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 日本国民と雖も、勿論其間に幾つかの勢力があり、幾つかの集団もあらう。然しそれら一切は、一たび天皇のゐます「やまと」に対する時、融然渾然として「大和」に帰するのである。「各性命を正しうして、太和に保合す」とふ易経の哲理は、粛然たる事実として此処に實現したのである。
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  ああ、吾等は「大和」の國の、「大和」の民ぞ!
かくて吾等は、「大和」の原理に立って、「大和」の生活に生くべきである。
  然かも、何たる醜態ぞ、国民間に分列、対立、排他、闘争の修羅場的状態の存せしとは。「ひの本」国民も、遂にあはれ「ひの末」の民と堕せんとせしか。
  醒めよ!
 今こそ、「ひの本」の國の国民が、「大和」心に醒むる秋ではないか。

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身を立て道を行ない、名を後世に揚げて、

2015-11-23 09:30:26 | ブログ
第2522号 27.11.23(月)
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身を立て道を行ない、名を後世に揚げて、以て父母を顕わすは孝の終わりなり。『孝経』
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 一身の独立を保持し、道を行ない、名をのちの世にまで揚げて、父母の名を世に顕わす。これは親孝行の終わりというべきだ。287
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 【コメント】『孝経』を思い出すと荘内南洲会前理事長・小野寺先生を思い出します。数々戴いたお便りを拝読すると、『孝経』の匂いがするような、そんな感じが致します。お手紙とはこのように書くものだということを言外に教えてくれているのかも知れません。
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『臥牛菅実秀』(第60回)
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 こうしたあわただしい動きの中で、亂を好む浪士たちは江戸を横行していた。
 幕府では浪士を手なづけて、その統制をはかりながら江戸の警備に当らせようとして、浪士を募集した。これが新徴組と名づけた幕府の特別警備隊であった。

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『論語』(第453-3)
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 子曰はく「予の不仁なるや、子生れて三年、然る後父母の懐を免る。夫れ三年の喪は天下の通喪なり。予や其の父母に三年の愛有るか。」
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 宰我が退出すると、孔子は彼が真に安しとしてこれを遂行することを恐れて「予(宰我の名)は不仁で親を愛する心の薄いことだ。人の子は生まれてから三年たって初めて父母の懐を離れるものであるから、喪は必ず三年にして僅かに父母の労に報いるのである。三年の喪というものは上は天子より下は一平民に至るまで天下の人の子に通じて行われる喪である。予も人の子である。かつて父母から三年の愛を受けたことがあるか。三年の愛を受ければ、どうしても三年の喪を止めることができよう。」と曰って宰我にこれを聞かせて反省させてその本心を得させようとした。
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『農士道』(第337回)
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 「大和」の漢字をどう訓んでも「やまと」と讀むは無理であらうのに、吾等の祖先は敢えて此の文字を当てたのは、抑も如何なる理由であったのか。思うに日本民族は、前述の如く、「ひの本」民族である。決して「ひの末」原理によって分裂排他せんとする国民に非ずして、飽くまでも「ひの本」原理に従って没我奉仕せんとする民族である。この民族性が「ひの本」國家の「本」にまします天皇のゐます處に向って翕然(きゅうぜん)として没我奉仕して「大和」せんとしたのである。随って其の帝都たる「やまと」の國を、吾等の「大和」すべき中心の地としたのである。
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午前10時半に自宅を出て枕崎までお墓詣りに行ってきました。そして半世紀前、空手を一緒にしていた、元警察官の森山様宅の実家を訪ねて行きましたが、家が分らず帰ってきた次第でした。
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 この方の実家が誰も住んでいない為、家が傷んでいるとのことを伺いましたので、どの程度の傷みであるか見に行った次第でした。私と大坪師範は素人大工一級の腕前ですので、ボランティアで修理をしてあげたいと思って事前調査に行った次第でした。
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 半世紀前一緒に空手道をしていた崎向師範の家もすぐ近くでしたが、現在は撤去され、空き地になっていました。アメリカへ亘り二年前に死去したということを聞いていましたので、合掌礼拝をしてきました。

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勢いを択んで従うは則ち悪の大なる者なり。

2015-11-22 10:23:02 | ブログ
第2521号 27.11.22(日)
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勢いを択んで従うは則ち悪の大なる者なり。『近思録』 
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 権勢の人を選んで、その人に従いこびていくことはきわめて悪いことだ。(易困卦の程伝)300
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 【コメント】人間ややもすると、何かしようと思った時、権勢のある者を頼ってこび諂い、ついて行くことがあるとは古今の歴史が教えています。頼って行こうとする権勢ある者が、本当に正しいかどうか、胡散臭い人間もいるので、冷静に観察する事が要諦でしょう。
 そして自らは只管、初歩から学び自ら開拓して行くことが肝要でしょう。自らは邪心を懐くことなく明鏡止水でなければならないと考えます。
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 私は過去何回となく、いろいろな団体に誘われましたが、一回もついて行くことはありませんでした。その内に変な団体は長続きせず、解体して行きました。ひたすら『南洲翁遺訓』を学ぶことこそが肝要だと思います。
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 今朝はNHK報道で、パリで銃撃事件を起したISについての討論が行われました。見識ある方々の議論であったため、とても感じよく視聴することができました。
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 こういったテロ集団は無数にあるとのことです。平和ボケしている我々日本人も、万一に備え、緊張感を持ちたいものです。
 昨日も朝から多忙を極めました。老人だとてボオーッとしている訳に行かないから、元気が持続しているのだと感謝しています。
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 新しいお弟子さんの中に、知的には優れているが、一時もじっとしていない子供がいます。手はモジモジ、眼はキョロキョロ、とそれこそ二秒間もじっとしていません。それに比べたら、森永礼弥君は大したものです。
 座している時から、「修行者」のツラガマエなのです。これが小学二年生なのです。本人は菅臥牛先生みたいになりたいと申していますので、中学生になりましたら、月に一回程度、徹夜で漢籍の勉強をしたいと思っています。
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 そのキョロキョロ君に対して、ホッペタをパッチンしました。ところが、見違えるように変わりました。可愛ければ可愛いほど、優しく厳しくしなければならないと思います。
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 そしてもう一人の特別支援学級で学んでいる優くんが、はっきりした用語をつかうようになりました。今はたどたどしいですが、成長するにつけ、よくなって行くと思います。16年間育てて立派になった青年がいますので、手本にしたいと思います。
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 とにかく無制限に甘やかせることが行けないのです。児童クラブの子供たちはその点、可哀想だと思います。これらは戦後教育が生み出したものなのだという人がいますが、本当なのでしょうか。しかし私の所で修行する子供たちは立派だと思い、保護者の方々に感謝の念、一入です。
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 人物像の指標は、荘内南洲会前理事長・小野寺先生が紹介してくれた、そして竹下一雄先生も師事したいとしていた菅原兵治先生に学ぶことだと思います。

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『臥牛菅実秀』(第59回)
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 同じ文久三年の春の江戸は、ひどく騒然としていた。
 前年の八月、横浜に近い街道で、島津久光の行列に行きあったイギリスの商人が、薩摩藩士によって殺傷された。いわゆる生麦事件が突発したために、日英間の関係は極度に悪化し、この年の二月には江戸湾にイギリスの東洋艦隊が結集した。
 幕府では万一の際の江戸の混乱を恐れて、祖法である大名の参勤交代制を中止し、江戸滞在を規定づけていた大名の夫人家族を、それぞれの国もとに帰すことにした。

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『論語』(第453-2)
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 子曰はく「夫の稲を食ひ、夫の錦を衣(き)る。女(なんじ)に於いて安きか。」曰はく「安し。」「女安くば則ち之を為せ。夫れ君子の喪に居る、旨きを食へども甘からず、楽を聞けども楽しからず、居処安からず。故に為さざるなり。今女安くば則ち之を為せ。」宰我出づ。
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 孔子「三年の喪中は粗食を食い粗衣を衣るのが礼であるが、汝は三年の喪を一年で止めてしまって、一年たつと直にあの旨い稲を食い、あの美しい錦を衣ても、汝の心に不安はないか。」宰我「不安はございません。」
 孔子「汝はそれで心に不安がないならば、そうするがよい。君子が親の喪にいる時は、哀しみのあまり、旨い物を食べても甘くなく、音楽を聞いても楽しくなく、どんな処にいても心が安んぜず、心に忍びない所があるから、一年で止めないで三年の喪に服するのである。今汝は親が死んで一年の後に直ちに稲を食い錦を衣て心に感じないならばそうするがよい。」

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『農士道』(第336回)
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      四、「大和」の深義
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 我々日本人は實にこの純粋至高の感激を以て大君に奉仕する大和民族である。「やまと」の國名に「大和」の文字を当用した吾等日本人の祖先の深き哲学に想到すれば、真に驚嘆なきを得ないではないか。一体「やまと」とは今の奈良一体の土地の名称であったのである。
 神武天皇が此の國の畝傍山に即位の大体を挙げ、日本国家統治の大任に即かせられたのであるが、以後此の「やまと」の地は、日本国家の「ひの本」たる至尊の在ます處となり、国民は当にこの「やまと」を中心にして「各性命を正しうして、太和に保合---易経---」せんとしたのである。

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天行は健なり。君子以て自彊して息まず。

2015-11-21 07:36:43 | ブログ
第2520号 27.11.21(土)
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天行は健(すこやか)なり。君子以て自彊(じきょう)して息(や)まず。『易経』
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 天の運行は健やかで、一刻も休むことがない。君子もそれに則って、つとめてやむことのない努力をしなければならない。221
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  【コメント】今朝の学問館は大人だけ三名で学修しました。
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 「暁の学問館」教材は、
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 1.人学ばざれば道を知らず
 2.極める
 3.上に立つ者の人間学
 4.八甲田山雪中行軍に学ぶ
 5.微を見て以てして明を知る
 6.過去が咲いている今 未来の蕾で一杯な今
 7.『易経』に学ぶ----等々でした。
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 2.極める、は2005年の月刊誌であり、10年前のものです。当時100歳の地さんの各世代に贈る言葉があります。特に70代以降の人へのメッセージには次のようにあります。
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 70代----屈してはならない
 80代----駄目だと思ったら駄目になる
 90代----今からでも遅くはない
 100代---Go ahead! 前進せよ
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 我々初老も訓戒の言葉として、前進したいと思います。先ほど家内に地さんのことを聞いたら、お亡くなりになったとのことでした。
  謹んで哀悼の意を表したいと存じます。
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 ブログは午前11時半から書き始めます。
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 今日(こんにち)の小学生児童たちで発達障害の子供が多いらしく、その実態と症状を聞いてただただ唖然とする次第でした。そういう子供さんがおられる方で、私の話に耳を傾けて下されば、参考になると思うのですが。為政者も、学校の先生方も真剣に考えて貰いたいものだと思う次第です。
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 76年間生きて来た私たちが出来る手助けはしたいものだと、大変有意義な話し合いをした次第でした。

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『臥牛菅実秀』(第58回)
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 文久三年三月十六日、実秀は郡奉行を命ぜられ同時に藩政の顧問として枢機に参画することになった。郡奉行の職にあって藩政に参与するということに全く異例の任命である。
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 ※番頭。四百石以上の家中より選ばれ、城内の取締りに当った。----鶴岡市史---
 ※※郡奉行。郡代、郡奉行、代官の三役は郷村の民政を司る職で、郡奉行は、土地・人民・普請・山林治水を司る外、郷村の公事訴訟、罪人の取り締まりなどを担当した。郡奉行には禄百石以上の家中から選任された。----同 上---
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『論語』(第453-1)
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宰我(さいが)問ふ。「三年の喪は期已に久し。君子三年礼を為さざれば、礼必ず壊(やぶ)れん。三年楽を為さざれば、楽必ず崩れん。旧穀既に没(つ)きて新穀既に升(みの)る。燧を鑚(き)り、て火を改む。期にして已むべし。
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 宰我が孔子に問う。「古の礼に、人の子は父母の喪に三年いることになっていますが、私の考えでは、一年にしても長すぎると思います。何故かと申しますと、礼楽は君子のしばらくも身を去ることのできないものでありますが、君子が三年喪にいて礼を行わなければ礼が必ず壊れてしまうでしょう。三年喪にいて楽を奏さなければ楽が必ず崩れてしまうでしょう。三年喪にいることはこのように人事に妨げがあります。旧穀が既に尽き新穀が既に登って穀物が変るのも一年であり、燧(ひうちいし)を鑚って火を取り四時の火を改めてしまうのも一年でありますから、人の子の喪も一年でよいと思います。
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『農士道』(第335回)
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 大伴家持の作たる
      海行かばみづく屍、山行かば草むす屍、大君の、邊にこそ死なめ、かへりみはせじ
の歌も、實に此の日本国民の大君に対し奉って「ひの本」する----没我奉仕する----義勇奉公する----身を殺して仁を成す尊王の盡忠を歌ひしものであって、本居翁の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の歌を、更に端的に實行的なる感激を以て高唱せしものに外ならないであらう。

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