お寺さんぽ Ver.03

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護良親王・吉野山に挙兵 (楠木正成)6

2010年01月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

遂に笠置山にて挙兵した「後醍醐天皇」
しかし、幕府勢の猛攻を受けて一カ月ほどで陥落し、山中をさ迷った「後醍醐」は捕えられてしまったのです。
その予想以上に早い陥落から、不完全なまま赤坂城にて幕府の大軍勢を受けた「楠木正成」
得意とする奇策によって一週間ほど粘ったものの、こちらも陥落してしまうのでした。


十月に落城してしまった赤坂城。
この際にも、実に正成らしいエピソードがありました。
当初から脱出を考えていたらしい彼は戦死者を一カ所に集めて焼き、”あたかも全員が自害したように見せかけた”というのです。
その焼死体を見た老人(下男?)に、わざわざ死体にとりすがって泣かせるという、細かい芸まで披露していたんですねー。

こうして、すっかり幕府騙した正成。
落城はもともと予期していたことであり、実は陥落より先にとっとと姿を消していたのです。
正成はその身を隠すのでした。
 
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ちょっと時間を戻して、九月のこと。
笠置山で捕えられた「後醍醐天皇」は神器を譲り、持明院統の「光厳天皇(量仁親王)」が即位。
謀反人とされた「後醍醐」は、元弘二年(1332)の三月に隠岐島へと流されたのでした。
戦後処理は終わり、若干懸念材料は残っているものの、とりあえず一安心だったかもしれませんが…。

元弘二年(1332)
吉野・熊野あたりに潜伏していたという、「後醍醐天皇」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)※写真」
京都に潜入しているとの情報もあった彼は、ここで各地の武士らに令旨(※命令書ですね)を発し続けていたと言われています。
六月頃には、その指揮下にあった吉野山の門徒らが伊勢の守護代を襲うなど、不穏な情勢であったのです。

こうして、遂に吉野山に姿を見せた「護良親王」
こちらにある金峯山寺も、数百といわれる堂塔・僧坊が群立するという大寺院でした。
”吉野大衆”と呼ばれる僧兵を有し、かなりの勢力でブイブイ言わせていたのです。
後には南朝方の拠点となっていますが、天嶮の要塞という大寺院はそのまま強力な山城でもあったのでした。

さらに、赤坂城にて一度は死んだはずの男「楠木正成」
彼も再び歴史の表舞台へゆっくりと姿を見せるのでした…。

⇒ つづく。
  次回は「大打撃を与えた天王寺合戦」 (7/16)

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※効果てきめん、っぽい雰囲気のあるストラップですね。
 やっぱり正成さまはいいなぁ。


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