のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)※写真」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。
「後醍醐天皇」の笠置山、続いて「楠木正成」の赤坂城も大軍の幕府勢によって陥落。
山中をさ迷った「後醍醐」は捕えられ、正成も城と運命を共にしたかと思われたんですが…落城間際で脱出していた彼は付近に潜伏。
一方、「後醍醐」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」は各地の武士らに令旨を発して決起を促し、自身もまた吉野山にて挙兵したのでした。
さあ、ここから反撃です!
元弘二年(1332)二月。
突如再起した正成勢は、幕府方「湯浅成仏」という者が守備していた赤坂城をあっさり奪還。
(※後に守備していた「湯浅成仏」は正成の家臣になっています)
正成は奪還した赤坂城に半年という時間をかけて大修復を加えたほか、千早城までに十七という砦を築いていったのです。
前回はさぞ無念だったことでしょう。
そのため今度は、考えられる万全な態勢に仕上げ、手ぐすね引いて幕府軍を待ち構えるのです。
またその一方で、十二月頃には積極的に兵を出しており、大和、和泉、河内といった付近の諸勢力を討伐しております。
和泉を制圧した正成勢は、摂津天王寺に陣していた幕府勢を、真っ向勝負で撃破。
この頃は兵力も五千を超え、まさに破竹の勢いで進軍していたようなのです。
この華々しい戦勝は「護良親王」が各地にばらまいていた令旨にも効果を発揮し、全国的にくすぶっていた幕府への不満は各地武士の決起を促していったのでした。
正成の勝利が最後の背中ひと押しとなったんですね。
当然、こうした事態を幕府が黙って見過ごす訳にはいきません。
「隅田次郎左衛門」、「高橋又四郎」に七千という兵を与え、京都を出発させたのでした。
これが天王寺合戦。
淀川を挟んで対峙した両軍。
少数であった渡辺橋の守備隊を攻撃した幕府勢に対し、すぐさま撤退に移りました。
勢いに乗じた幕府勢は、ここぞとばかりに天王寺へ向かって突撃。
雪崩のように殺到し、まだ陣を整えていなかったその刹那、本隊を三分割していた正成勢が三方より猛攻を加えるのでした。。
ちょうど戦国時代の島津家が得意とする、”釣り野伏せ”と同じような形になったんですね。
普段は兵を大事にする正成でしたが、この時は犠牲をいとわず果敢に挑み、結果討伐で進軍してきた幕府勢に大打撃を与えたのです。
これが元弘三年(1333)一月のこと。
存在感を発揮した正成は、こうして赤坂城へと籠ったのでした。
なお、予想外の大敗に驚いた幕府勢が直ちに送った武勇の将「宇都宮公綱(うつのみや・きんつな)」
彼には正成も慎重で、直接対決を避けて”松火の計略”をもって、追撃を断念させたそうなのです。
…この計略がどんなものだか、いまいち正確に分からなかったんですが…両軍勢は直接戦っていないので、松火(しょうか:たいまつのことね)によって兵数を惑わしたのかなぁ。
⇒ つづく。
次回は「信濃源氏・村上親子の奮戦」 (8/16)
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※そんな訳で、城を見に行きましょう!
…まぁ、城址のが断然風情あるんですけどねー。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)※写真」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。
「後醍醐天皇」の笠置山、続いて「楠木正成」の赤坂城も大軍の幕府勢によって陥落。
山中をさ迷った「後醍醐」は捕えられ、正成も城と運命を共にしたかと思われたんですが…落城間際で脱出していた彼は付近に潜伏。
一方、「後醍醐」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」は各地の武士らに令旨を発して決起を促し、自身もまた吉野山にて挙兵したのでした。
さあ、ここから反撃です!
元弘二年(1332)二月。
突如再起した正成勢は、幕府方「湯浅成仏」という者が守備していた赤坂城をあっさり奪還。
(※後に守備していた「湯浅成仏」は正成の家臣になっています)
正成は奪還した赤坂城に半年という時間をかけて大修復を加えたほか、千早城までに十七という砦を築いていったのです。
前回はさぞ無念だったことでしょう。
そのため今度は、考えられる万全な態勢に仕上げ、手ぐすね引いて幕府軍を待ち構えるのです。
またその一方で、十二月頃には積極的に兵を出しており、大和、和泉、河内といった付近の諸勢力を討伐しております。
和泉を制圧した正成勢は、摂津天王寺に陣していた幕府勢を、真っ向勝負で撃破。
この頃は兵力も五千を超え、まさに破竹の勢いで進軍していたようなのです。
この華々しい戦勝は「護良親王」が各地にばらまいていた令旨にも効果を発揮し、全国的にくすぶっていた幕府への不満は各地武士の決起を促していったのでした。
正成の勝利が最後の背中ひと押しとなったんですね。
当然、こうした事態を幕府が黙って見過ごす訳にはいきません。
「隅田次郎左衛門」、「高橋又四郎」に七千という兵を与え、京都を出発させたのでした。
これが天王寺合戦。
淀川を挟んで対峙した両軍。
少数であった渡辺橋の守備隊を攻撃した幕府勢に対し、すぐさま撤退に移りました。
勢いに乗じた幕府勢は、ここぞとばかりに天王寺へ向かって突撃。
雪崩のように殺到し、まだ陣を整えていなかったその刹那、本隊を三分割していた正成勢が三方より猛攻を加えるのでした。。
ちょうど戦国時代の島津家が得意とする、”釣り野伏せ”と同じような形になったんですね。
普段は兵を大事にする正成でしたが、この時は犠牲をいとわず果敢に挑み、結果討伐で進軍してきた幕府勢に大打撃を与えたのです。
これが元弘三年(1333)一月のこと。
存在感を発揮した正成は、こうして赤坂城へと籠ったのでした。
なお、予想外の大敗に驚いた幕府勢が直ちに送った武勇の将「宇都宮公綱(うつのみや・きんつな)」
彼には正成も慎重で、直接対決を避けて”松火の計略”をもって、追撃を断念させたそうなのです。
…この計略がどんなものだか、いまいち正確に分からなかったんですが…両軍勢は直接戦っていないので、松火(しょうか:たいまつのことね)によって兵数を惑わしたのかなぁ。
⇒ つづく。
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※そんな訳で、城を見に行きましょう!
…まぁ、城址のが断然風情あるんですけどねー。