お寺さんぽ Ver.03

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絶望した武士・尊氏を頼る (楠木正成)12

2010年01月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

笠置山、続いて吉野山を陥落させた幕府勢。
しかし、我らが「楠木正成」の守る千早城は落ちることなく耐え続け、倒幕の機運が盛り上がると各地の武士らが決起。
援軍であった「足利尊氏」が寝返り、逆に六波羅探題を攻略してしまったのです。
一方、関東でも彼の嫡男「足利義詮(千寿王)」ほか「新田義貞(※写真)」らが鎌倉を陥落させたのでした。
こうして「後醍醐天皇」は念願だった天皇親政を開始。
しかし、論功行賞では最大の功労者であった武士は無視され、公家や皇族にばかり地位や権力を与えたほか、政治もトンデモなものだったのです…。


そんな訳で、武士から公家にまで嫌われた新政府。
恩賞方、記録所の寄人となり、”雑訴決断所(ざつそけつだんしょ)”の奉行となっていた「楠木正成」
ここには、九州から奥州に至る武士の訴えが続いていたようです。
早くも政府に絶望した武士たちは、河内源氏の血統で人望・実力のある「足利尊氏」の元へと集まりつつありました。
倒幕に戦功のあった播磨「赤松円心(則村)」も、新政府を見捨てて尊氏勢についております。
(※彼は播磨守護を没されているので、それも当然のこと)

こうした状況もあり、政権下で”征夷大将軍”となっていた「後醍醐」の嫡男「護良親王」は、足利兄弟を大いに警戒しておりました。
しかし、これも尊氏の讒訴がため次第に父と反目するようになり、結果一年のうちに征夷大将軍の任を解かれ、捕えられてしまったのです。
しかも、なんと尊氏の弟「足利直義」に預けられてしまうのですよー、これが。
ああ…オバカさん。
幽閉された「護良親王」は、後に暗殺されることとなるのです。

こうした状況で、目をつけられたのが「新田義貞」でした。
本来は直系筋ながら、アピール不足もあって鎌倉幕府ではすっかり無視されていた彼。
”千載一遇というこの機会に家名を挽回せん”と意気込んでいた義貞を尊氏と競わせることによって、両者を抑えようと考えていたようなのです。
(※詳しくは「武士の棟梁「足利尊氏」の秘密 (北畠顕家)」を参照のこと http://blog.goo.ne.jp/hideru_a/e/d9f36793aa48c40f53208a475f711543)

建武二年(1335) 七月
北条氏の残党が遺児「北条時行」を擁立して挙兵。
「中先代の乱」を起こしました。
建武新政府は関東でもすこぶる人気は無く、各地で守護を破っていった北条勢は鎌倉から出撃した尊氏の弟「足利直義」をも撃破。
鎌倉の地を奪回・支配してしまったのです。

こうした緊急の情勢に、尊氏は北条勢討伐のため”征夷大将軍”へ任ぜられるよう要望しましたが、「後醍醐」はこれを認めません。
しかも、八月には「成良親王」を征夷大将軍にしてしまったのでした。
尊氏の期待はここでも裏切られてしまったんですね。

⇒ つづく。
  次回は「顕家出撃・最大の危機を回避」 (13/16)
  

[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     


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※名前は格好良いんですが…イマイチさえないなぁ。
 何が原因なのか、また調べてみましょうか。