JAZZを聴きながら ふたたび

恥も顧みないで再々開、よろしければお付き合いを

チャンスを招くのは実力

2007年12月13日 | y-その他

今日は久しぶりの雨模様(午前中いっぱいでしたけど)、乾燥しきってましたので良いお湿りになったでしょう。

「福留 4年53億円 カブス入り」
ヒェ~~~ 凄いですねぇ、年13億ウン千万、月収に換算すると1億以上、日に・・・・・・
ついついそんな計算をしてしまうのは、悲しい庶民の性でしょうか。
それにしても、夢の3億を期待し、神棚に年末ジャンボ宝くじを奉る姿が、悲しくも思えてしまうのは私だけではないと思います。
野球だけでなく多方面で才能の海外流失は拡がっているようですが、この金額を聞けば納得せざるを得ません。「田舎じゃ生きていけないから東京に出て一旗揚げる」てなこととはわけが違いますよね。
「うちのバカ息子もそのぐらいの大物になってくれていれば・・・・・」
『鳶が鷹を生む』てなことまず無いわけで、親の顔みりゃ期待することじたい無理があります。(笑)

アメリカ進出といえば、ブログ仲間のウフフマンさんけいさんも取り上げておられましたが、ニューヨークのアポロシアターで日本の18才シンガー清水翔太君が絶賛されたとか。
日本人ダンサーがアポロシアターを席捲しつつあるとの噂は聞いていたものの、シンガーとなるとやはり無理もあるだろうと勝手に思い込んでいた私は、完全に時代遅れなんですね。
黒人の聖地に乗り込んいく若者の挑戦心と勇気にも感心しましたし、賞賛を受けたというニュースは、なんとも誇らしくも思えました。(もちろん、ソニー・ミュージックの後押しがあればこそでしょうけど)

アポロシアターでの様子や、来年2月に発売される翔太君の「HOME」という曲の一部を彼のオフィシャルHPで試聴出来ますので、興味のある方は覗いてみて下さい。
野球の世界の野茂のように、彼もその世界のパイオニアとなられることを期待したいと思います。

それにしても、小学生の頃「世界地図を移動時間で表すとこんな地図になります。」みたいなこと習いませんでしたか?
あの頃は交通手段・時間だけを考えた地図でしたが、これを現代の情報網もふまえた地図にしたらどんなになっているのか。
極端に狭くなった世界は、そこで生き抜く難しさも増大させているようですけど、同時に大きなチャンスも作り出しているわけで、若者はいかにそのチャンスを捕まえるか・・・・・・・実際はたいへんだよねぇ。
私はちょっと昔の人で幸せだったかもしれないなぁ。(笑)

さて、今日の一枚は、アメリカへ旅立った日本のジャズ・ミュージシャンのパイオニアといえばやはりこの人、ということで秋吉敏子です。
と言いつつ、私は彼女のアルバムをそれほど多く所有しておりません。
「THE TOSHIKO TRIO 」 「THE MANY SIDES OF TOSHIKO」 「孤軍」 「TOSHIKO MARIANO QUARTET」 「HIROSHIMA RISING FROM THE ABYSSH 」と紹介を済ませていますので、残りはこの一枚ということになります。

このアルバム、B面は、着物姿で話題をさらったという1957年のニューポート・ジャズフェスのライブ、そしてA面はJATPで来日していたオスカー・ピーターソンに強くレコーディングをせがまれたヴァーヴのノーマン・グランツによって、ピーターソンのリズム・セッションをそのまま使ってラジオ東京で収録された初レコーディングが収められています。
まさに、アメリカ進出を決めた演奏と、初めてアメリカでその存在を示した演奏、この二つが収録されたアルバムだともいえます。

日本で行われた初レコーディングは、1953年10月15日東京にオープンしたライブ・ハウス「テネシー・コーヒー・ショップ」での出会いに始まります。
この店の音楽担当を任されていたのは、シックス・ジョーズのリーダー、そうナベプロ創設者渡辺晋でありました。渡辺は音楽責任者として昼間の演奏を秋吉敏子に頼んだのです。
11月に入りJATP公演で来日していたピーターソンが、昼間突然この店にやって来て、敏子に出会うことになります。(ご本人によれば紅茶をごちそうになったそうですが)
緊張の中演奏をした敏子のピアノを聴いたピーターソンは、夜もまた現れ、飛び入り演奏までしてくれたのでした。
その翌日ピーターソンはさっそくグランツに敏子のレコーディングを推奨、こうして、今日のアルバムのA面、敏子の初レコーディングが実現したのです。

敏子本人は「JATP来日がなければ、テネシーがオープンしていなければ等々、偶然が重なったおかげ」ともおっしゃっていますが、運だけであれだけの実績は残せないわけで、「運とは実力が呼び寄せるもなのだなぁ」と痛感させられるエピソードです。

おっと、肝心のアルバムの中身ですね。
ピーターソンのバックをそのままメンバーにしたのですから、アート・テイタム的演奏も彼女には可能であったはずですが、もろ、彼女が当時のめり込んでいたバド・パウエルを意識した感じでしょうか。(特に「TOSHIKO'S BLUES」あたりは、まさにパウエル)
ただ、彼女の緊張はとんでもないものだったのでしょうね、ヒシヒシと伝わってきます。そして、そんな彼女をバックが優しくフォローするようなさまは、じつに暖かく素敵な演奏だと思います。
おっと、バックばかりに助けられたわけじゃありませんよ。ソロの「LAURA」も新鮮さがあってとても良い。

B面のニューポート・ライブも、もちろん良いですよ。この時の賞賛は着物姿の物珍しさだけでなかったことが、じゅうぶん伝わる好演です。

ともかく、パイオニア秋吉敏子を知るには、欠かせない一枚だと思います。

AMAZING TOSHIKO AKIYOSHI / 秋吉敏子
1953年11月[1~8], 1957年7月5日[9~12]録音
秋吉敏子(p)
HERB ELLIS(g) RAY BROWN(b) J.C.HEARD(ds)[1~8]
GENE CHERICO(b) JAKE HANNA(ds)[9~12]

1.WHAT IS THIS THING CALLED LOVE ?
2.GONE WITH THE WIND
3.I WANT TO BE HAPPY
4.TOSHIKO'S BLUES
5.SHADRACH
6.SOLIDADO
7.SQUATTY ROCO
8.LAURA
9.BETWEEN ME AND MYSELF
10.BLUES FOR TOSHIKO
11.I'LL REMEMBER APRIL
12.LOVER

追伸、

ちなみに、ちょっと勘違いしたような日本を意識したジャケット・デザインは、ヴァーヴではおなじみのデヴィット・ストーン・マーチンの作です。