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おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

沈黙のアドベント(1)

2018-12-09 20:31:01 | 信仰 聖書

今日の説教は、
ルカ1:5~23でした。

説教の準備をしながら、
私が教えられたことをシェア。

み使いのよき知らせに対して、
ザカリヤの反応はどうだったでしょうか。

v.18「私は、何によってそれを知ることができましょうか。
私ももう年よりですし、妻も年をとっております。」

なんとザカリヤにしてこの反応でした。
旧約聖書の中には多くの不妊の女性が
祈りの応えとして子どもが与えられています。
聖書のことをよく知っていたザカリヤは、
それらの奇蹟を頼りに
ずっと祈って来たのではないですか?

でもいざ、自分のこととなると、
常識から外れたことは
信じられないものなのかもしれません。

まだ人間的に見て可能性のある頃は、
期待して祈っていたかもしれない。
でも年々歳を重ねていくうちに、
いつの間にか、祈るのに疲れ、
祈りが形骸化し、
言葉では祈っていても心の伴わない、
お題目のような祈りになっていたのでしょう。

でも、そんな祈りでさえも、
神さまの前に覚えられていたのです!
み使いは言いました。
「あなたの願いは聞かれたのです!」

ここに神さまのご真実があります。
ですから私たちも祈るのをやめてはいけません。
弱い、小さな信仰でも、
時に習慣のようになってしまっていても、
私たちが祈ることをやめない時
神さまは、その祈りに答えてくださるのです。

ですから祈るのをやめてはいけません。
習慣的であっても、
信仰が伴っていなくても、
祈るのと祈らないのとでは、
全然違うからです。
祈るのをやめてしまっては、
神さまも答えようがないでしょう。
神さまのご真実に期待して、祈り続けましょう!

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睡眠力

2018-12-05 22:35:48 | 信仰 聖書

若い頃は、
おやすみ3秒、寝てから2秒でした。
あっという間に寝つき、
朝までぐっすり寝るもんだから、
一瞬に感じるということ。

最近は、
相変わらずおやすみ3秒は、
維持しているのだけれど、
4時間ぐらいすると一旦目が覚める。
で、そのあとなかなか寝付けない。
寝ても、なんだか眠りが浅いので、
朝すっきりしなまま
起きなきゃいけない時間になる感じ。

睡眠力が落ちてる?

母のこと思い出すな~。
母は早起きだった。

寒い冬の朝、
早朝トイレに起きると、
母はストーブの前に座布団を敷き、
ストーブを背に座って、
聖書を広げて祈ってたな。

母も早く目が覚めちゃって、
それで、いいや起きちゃえって、
ああやって祈ってたのかも…。

私もあの頃の母の歳になってるはずだけど、
睡眠力は同じように落ちても、
あんな風に祈りの人にはなれてないな。

睡眠力ダウン=祈祷力アップではないということ。

今日の祈り会は、
毎日決まった時間に祈ること、
できれば早朝祈ることと学んだので、
母のことを思い出したのでした。

もっと祈りに励め、自分!

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猫ちゃん騒動

2018-11-19 10:36:52 | 信仰 聖書

今私たちの教会は、
年輩の牧師夫婦が牧会していますが、
その奥さんの方が飼っている猫ちゃん3匹の飼い主を
早急に探さなければならない事態になりました。

飼っているといは言っても、
のら猫に餌をやっているだけ。
本当は大の猫好きで、
ずっと猫を家飼いしていたのだけれど、
事情が許されなくなって、
今はそうやって猫と関わっているということ。

無責任に餌をやいっているだけではなく、
ちゃんと避妊、去勢手術もしていて、
ご近所にも迷惑かけないようにしています。
ところがいろいろあって、
それさえも許されなくなり、
なんと今月26日までに
飼い主を探さなければいけなくなったのです。

26日以降はもう猫に餌をやることも許されないので、
餌をねだる猫ちゃんたちの鳴き声を聞きながら、
家にいるのは耐えられないと、
一か月ほど家を離れて、
雲隠れする可能性も考え始めていました。

いろんなツテを使って、
飼い主を探すのですが、
決まりかけてはダメになり…を繰り返し、
時間だけがいたずらに過ぎて行きます。

近くの猫カフェに問い合わせ、
そこで働くから猫を預かってほしいと
頼んだのですが、
働いても猫を引き取るかどうかは別問題と言われ、
それでも働き始めたのだけれど、
二回行っただけでクビ。
そりゃそうだ、来年80歳(^_^;)

涙ぐましい努力に、
教会のみんなで知恵を絞る。
みんなで、やっぱり最後は祈りだ、
祈ったらきっと解決が与えられると確認し、
祈りつつ帰途についたのが先週の日曜日。

そして、私が思い立ったのがFacebook!
個人のページで宣伝してみました。
写真入りのカラーのチラシを
その来年80歳になる先生が描かれ、
(いやいや、なかなかの出来!)
それを載せました。

そしたら、その日中に
興味を持ってくれる方が与えられ、
話しはとんとん拍子に進み、
たぶん明日引き渡し♪

ハレルヤ!!

しかも!
その方は、先生ご夫妻の家の
すぐ近くに住んでおられ、
ご本人も大の猫好き!
すでに6匹飼っておられ、
仕事を引退したら、
猫カフェをしようと思っていらっしゃるとか。
何よりもフェイスブックつながりの方なので、
昔からの知り合いで、
信頼できる人なのが嬉しいし安心。

その上家が近いので、
先生も寂しくなったら、
すぐに会いに行けるし、
教会の働きを引退したら、
時々会いに行って猫ちゃんと遊ぶこともできる。

そんなことを話しながら、
きのうの日曜日は、
教会のみなさんと、
祈りを具体的に最善の方法で
聞いてくださる神さまの愛を確認して、
聖名をほめたたえたことでした!!

感謝主!!
ハレルヤ!!

あっ、ちなみに私は猫は苦手かも(笑)

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赦す

2018-06-18 15:42:43 | 信仰 聖書

昨日の家庭礼拝のテキストは、
マタイ18:12~35でした。
GRのピーター牧師のメッセージです。

主人がからたくさんの借金をゆるされたしもべが、
その後すぐに、
自分に借金のある仲間を
ゆるしてあげられなかった話です。

この人が主人から借りていた借金は、
今のお金に換算すると約10億円だそうです。
国家予算かっちゅうぐらいの巨額の借金です。

神さまの赦しは、
チープなものではありません。
私たちは、巨額に借金(罪)を
帳消しにしてもらったのです。

それに対し、
彼の仲間が彼に負っていた負債は、
100万円ほど。
主人に帳消しにしてもらった額には及びませんが、
こちらも一般庶民にしたら、
やはり高額で、
ほいそれと帳消しにできるような額ではありません。
確かにチャレンジな額だったということです。

イエスさまはここで私たちに
人の罪を赦すよう語っているわけですが、
まずは、それが、
決して簡単なことを言っているわけではない
ということを心に留めておきましょう。

たとえば…、
ある一組の夫婦がいました。
妻がふと、夫のケータイを見ると、
女性との怪しいやりとり…。
夫を問い詰めると、
逆切れされ、
「お前は俺を信用できないのか」と言われる。
そこまで言うならと信じるが、
ほどなくして、やはり浮気をしていたことが発覚。
しかもそれは1,2年に及ぶものだったと。
傷ついた妻は家を出て実家に帰ります。
夫は、毎日電話をかけてきて、
うちに戻って来てくれ、
おれを赦してくれと請います。
取り合わないでいると、
またも逆切れ。
「お前はクリスチャンじゃないのか。
どうしておれを赦せないのか」
と迫ります。

どう思いますか。
彼の主張は正しいでしょうか。

確かに神さまは、
驚くほどの恵みによって、
わたしたちを赦してくださいました。
しかし、
18章前半では、
罪に対する厳しい態度も示しています。

小さな者をつまずかせるものは、
大きなひき臼を首にかけられて、
海に沈めるべきだ…とか、
もし目が罪を犯すなら
えぐり出しなさいとか…。

ここで整理しなくてはいけないことがあります。

1、赦しと和解は同じことではない。
赦しは和解への第一歩であるが、
イコールではない。
この夫が本当に妻と和解したいなら、
妻に誠意を見せるべきです。
長い時間をかけて信頼を回復する必要があります。

2、赦しは忘れることではない。
確かにエレミヤ書31章で主は、
わたしは彼らの咎を赦し、
彼らの罪を二度と思い出さない」
と言っていますが、
これは終末の審判のことです。

この多額の借金を赦してくれた主人も、
彼が多額の借金があったことを
忘れてはいませんでしたよね。
ですから仲間を赦せなかったこの男に
怒ったのです。

神さまは、赦しを通して、
わたしたちを成長させようとしています。
赦しはマジックではない。
赦した瞬間に消えてなくなるものではないのです。
そこには葛藤があります。
そしてその葛藤を通して、
私たちはキリストに似た者へと
変えられて行くのです。
私たちは、
神さまの赦しに応えていかなくてはいけません。
それは、私たちの責任ですし、
長い道のりでもあるのです。
ですから罪を忘れない、
覚えているということは、
実はとても大事なことなのです。

この例に挙げた夫は、
赦されたことを忘れました。
それは同時に自分の罪も忘れたということ。

私たちは、
主の恵みをいつも覚えるために、
自分の罪をも忘れないことが大事です。
それは、私たちの聖化(キリストに似たものになること)に
つながるからです。

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高俊明牧師

2018-05-19 15:07:46 | 信仰 聖書

最近この詩集を読みました。
台湾基督長老教会の牧師、高俊明の詩集です。

高俊明牧師は、
1929年 台湾のクリスチャン医師の家庭に生まれました。
小中学校時代は日本で過ごし、
東京大空襲なども経験しました。
その後台湾に帰り、
台南神学校を卒業し、
先住民伝道のために山に入り、
4年ほど徒歩で巡回伝道したといいます。
その後先住民の牧師を育てる
玉山神学校で13年校長を務め、
労働と神学教育に従事したそうです。
その間に終戦を迎え、
国民党軍による支配、戒厳令下で、
台湾基督長老教会として「人権宣言」を発表し、
そのために、4年3ヶ月と21日、
軍事刑務所に収監されました。
刑務所を出てからは、
同じく台湾基督長老教会で、
18年総幹事として奉仕しています。

そういえば、
この間緑島に行ったときに、
思想犯として投獄された人の名前のリストに
高俊明の名前を見たと、
主人が言っていました。

崇高な人生を歩んだ高俊明牧師。

最も有名な詩は以下の詩で、
目にしたことのある人も多いでしょう。

 

サボテンと毛虫(1982年作)

わたしは求めた 美しい花束を 
しかし 神さまは とげだらけのサボテンをくださった 
わたしは求めた 愛らしい蝴蝶を 
しかし 神さまは ゾッとするような毛虫をくださった 
わたしは なげき 悲しみ 失望した 
しかし 多くの日が過ぎ去ったあと わたしは目を見張った 
サボテンが多くの花を開いて 美しく咲き乱れ 
毛虫が愛らしい蝴蝶となって 春風に舞い舞うのを 
すばらしい神さまの御計画

 

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日曜日の午後

2018-04-23 09:58:47 | 信仰 聖書

うちの教会は、
平日勝負の教会なので、
日曜日は、午前中の礼拝が終わったら、
みなさんとごはん食べたり、
お茶飲んだりして交わって終わり、
さっさと帰って来ます。

でも、わたしは、
毎週午後からは、近くのモスバーガーで、
青年女子と聖書を学んでいます。
日本語を使って。

ところが、ここ二回はちょっと変化が。

青年女子の旦那さんや
立新教会の台湾の姉妹、
そして彼女のボーイフレンドも加わりました。

男性もいるし、
中国語のスキルも必要になってくるので、
急きょ主人に応援を頼みます。

「かったりーな~、
勝手に決めてくんなよ~!」
と主人は思ったかも知れませんが、
それは、口には出さず、(笑)
喜んでいっしょに来てくれました!

いい感じでしょ♪

若い人たちと聖書を学ぶって、
本当に楽しい♪
主に教理に関する質問がたくさん出たので、
主人も張り切って答えてました。
みんなもいろんな疑問が解けて、
すっきりした様子。

いい時間だったな~♪

そして、夕方5時からは、
もう一人、青年女子のしょうこさんも交えて
家庭礼拝。

今日は詩篇42~43篇

うなだれるイスラエルの民。
捕囚から帰って来た後の惨状、
敵からのののしり。
神はどこに…?

惨状の中で神を見上げることの難しさ。
今も戦乱や迫害の中にクリスチャンたち、
本当に神を必要としているとき、
神を求めているときに、
どうして神は沈黙しておられるのか。
神はどこに…?

それは十字架上のイエスの叫びでもあった。
人々はイエスをののしった。
「他人を救ったが自分を救えない、
神はどこにいるのだ」と。

弟子たちでさえ言った。
「イエスは死んだ。」
望みも消えた…。

でもイエスの復活の朝、
み使いは言った。
「彼はここにはいない!
よみがえられたのだ!」
「ガリラヤへ行きなさい。
主は先に行っておられると。」
そして復活の主は、
弟子たちに新しい使命を与えた。

復活の主に会った弟子たちは、
神が今どこにおられるのかを知った!

神はどこにいるのか。

説教者は最後にこう結んでしました。

神の主権と人々の苦しみの交差するところにおられる。



なんとも深いメッセージでした。
説教者は、GRラグレーブ教会のゲストスピーカー。
名前は忘れた…。(^_^;)
カルヴァン神学校の説教学の先生らしい。

というわけで、
主を礼拝し、
みことばにとっぷり浸かった主日でした。

感謝主!!

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わたしのうしろを

2018-01-29 09:43:46 | 信仰 聖書

昨日の家庭礼拝もよかった~(^^♪
昨日も主人が、GRのピーター牧師のメッセージを
まるで自分の説教かのようにシェアしてくれました。

出エジプト記33:12~34:7

モーセがイスラエルの民を連れて、エジプトを出て、
主の約束の地カナンに向かう途中、
神さまに呼ばれてホレブ山に登ります。
そして、モーセが留守にしたほんの1か月余りの間に、
イスラエルの民は偶像を作り、
拝むという罪を犯します。

モーセは山を下り、
民が大きな罪を犯したことを知り、
怒り落胆します。
そして、民を導くリーダーとしての自信を失うのです。

でも、神さまはそんなモーセに、
もう一度立ち上がって、
イスラエルの民を約束の地へ導けと励まします。
モーセはそんな神さまに二つのお願いをします。

一つは、道を教えてほしい、
そして道中ともにいてほしいということ。
もう一つは、神さまの栄光を見させてほしいということ。

神さまは、一つ目のお願いには、
喜んで応えてくださいました。
ところが「栄光を見させてほしい」
つまり、神さまのみ顔を見させてほしいとの願いには、
半分だけ応えられました。
モーセは、神さまのうしろ姿だけを見たのです。

神さまはおっしゃいました。
「あなたはわたしの顔をみることはできない。
人はわたしを見て、
なお生きていることはできないからである。」(33:20)

どうして人は神様のみ顔を見ることができないのでしょう。

それは神さまのご性質に関係があります。
「主は、あわれみ深く、情け深い神、
怒るのにおそく、恵みとまことに富み…」(34:6)

そう、神さまのご性質は「愛」なのです。

そして神さまの愛は、
自己犠牲の愛です。
人の罪を背負う愛なのです。
それは新約のイエスさまの十字架に具現化しています。

ですから、神さまのみ顔には、
人の罪と苦悩、病い、傷痕が満ちていたのではないか、
それはあまりに悲惨な姿で、
人にが見るには耐えがたいものだったと…。

そんな想像は許されるだろうか…、
ピーター牧師はそう言い、
涙で声を詰まらせていたといいます。
はい、主人もそこで泣きが入りました(^_^;)

神さまの愛、苦悩、栄光に、
圧倒されるような家庭礼拝の夕べでした。

感謝主!!

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わたしのもの、私の宝

2018-01-12 10:27:34 | 信仰 聖書

今日のデイリーブレッド

「彼らはわたしのものとなる。
ー万軍の主は仰せられるー
わたしが事を行う日に、私の宝となる。
人が自分に仕える子をあわれむように、
わたしは彼らをあわれむ。」
(マラキ3:17)

わたしは主のもの、
主の宝!

くーっ( *´艸`)
朝から嬉しいことをおっしゃってくださる!

今日もがんばろっ!

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神は良しとされた

2017-12-02 10:41:06 | 信仰 聖書

主人が台湾の改革派神学校主催の集中講義に行って来ました。
主人が参加したのは後半の二日だけですが、
とても興奮して喜んで帰って来ました。
講師の先生は、
アメリカのウエストミンスター神学校で、
長く教鞭をとられてきたようですが、
その豊富な知識と
深い神学的洞察、
そして誰でもわかるように、
平易な言葉を用いて説くその姿勢に、
多くのことを学んだようです。

そして、家に帰って来ると、
早速いろんなことシェアしてくれました。
(いつもこれが楽しみ♪)

その中で特になるほどと思ったことを
こちらでもシェアします。


神さまが天地万物を創造されたとき、
一日ごとに
「神はそれを見て良しとされた」
と言いますが、
それは6回まででした。
完全数である7回ではなかった。

また、一度は、
「良くない。」とさえ言っているのです。
それは創世記2章18節で、
「人が、ひとりでいるのは良くない。」
そう言っている部分です。

神さまは人類には、
男がいて女がいて、
初めて良いものになると
言っているのです。

どちらか片方だけでは不完全。
男と女がいて、
はじめて良いものとして、
完成されるということです。

ふむふむ。
これは納得です!

いいこと聞いた(^^♪

感謝主!!

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罪責感からの解放

2017-11-13 11:08:24 | 信仰 聖書

主日の夕方はいつものように家庭礼拝。
うちの家族3人と青〇証〇さんを加えた小さな礼拝ですが、
主日の一日を締めくくるにふさわしい
豊かな礼拝と交わりの時です。

今日の聖書箇所はⅡコリント5:11~21
(GRのラグレーブ教会、ピーター牧師の説教を
主人が聞いてシェアしてくれたものです。)

人は罪を犯すと罪責感に苛まれます。
それは人が神に似せて創られ、
罪を犯すと痛みを感じるようになっているからです。

ところが、人はその罪責感から逃れようと思い、
神を否定するようになりました。

罪に定める神がいなければ、
罪責感に苛まれることはないと思ったからです。

ところがその結果、
罪そものを解決する道をも失いました。

なぜなら、神以外誰も、
罪の解決の道を与えてはくれないからです。

神を拒否し、
罪からの救いさえも拒んだ人に、
神はそれでも一方的な愛と憐みを示し、
ひとり子イエスキリストを地上に送りました。

それがクリスマス。

人が拒否した神から送られてきた神の子。
それは、地上の人々にとって大きな衝撃でした。

イエスキリストは人としてこの地上に生まれてくださり、
罪となってくださいました。
罪のないお方が、人の罪を一身に背負い、
罪となってくださったのです。
そして十字架によって神からの裁きを受け、
人の罪をすべて清算してくださったのです。

人が罪責感から逃れるために拒否した神から
一方的に差し伸ばされた罪からの救いの頼み綱。
それがイエスキリスト。

この差し伸ばされた頼み綱を受け取りさえすれば、
わたしたちの罪は解決し、
罪責感からも解放され、
聖霊によって新しく生まれることができるのです。

こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。
ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。
私たちは、キリストに代わって、
あなた方に願います。
神の和解を受けれなさい。
神は罪を知らない方を、
私たちの代わりに罪とされました。
それは私たちが、この方にあって、
神の義となるためです。

Ⅱコリント5:20~21

ひと足早いクリスマスメッセージでした。🎄

感謝主!!



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