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昭和十七年日本海軍の甲標的(写真は甲標的の1/72のプラモ)がシドニー港を雷撃した。目的の軍艦には命中せず、宿泊船を撃沈したにとどまった。甲標的とは秘匿のための名称で、実際は魚雷二本を装備した、小型潜水艇である。シドニー港攻撃の甲標的は3隻皆帰還できなかった。全乗員戦死である。
問題はその後である。当然のことながら市民の反対があったにもかかわらず、現地のオーストラリア海軍の司令官は戦死した日本海軍の乗員を海軍葬にした。のみならず、遺骨を日本側に引き渡したのである。
米海軍においても、特攻機の戦死者の遺体を傷つけた事例もあるが、やはり海軍葬にした事例もある。ひるがえって支那人ならどうするだろう、日本兵の遺体を損壊した、という事例は枚挙にいとまがないが、荼毘にふしたという事例を寡聞にして知らない。それどころか、中華民国成立後、清朝の墳墓をあばくという蛮行すらしている。支那人には死した敵を弔うと言う精神は無きに等しいのである。
プリンス・オブ・ウェールズとレバルス撃沈の翌日、海軍の中攻は沈没海域に花束を投げて弔っている。ここに小生は欧米と日本の共通するメンタリティーと支那との異質さをみる。今の日本の国防は敗戦によって米国に従属するしかない。米国の行った日本本土空襲は国際法違反の蛮行だと考えるものである。しかしながら、シドニー港その他の教訓は米国との同盟にひそむ可能性を示唆しているのではなかろうかと思いたいのである。
*資料:甲標的と蛟龍・歴史群像No.35