毎日のできごとの反省

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醫學士須田君之碑

2019-12-22 15:54:13 | 東京の風景

 隅田川のほとりにある、名前も隅田川神社がある。ほとりと言っても、高速道路などに遮られているので、隅田川が背景に見えないのが残念であるが、ともかくも隅田川神社である。「隅田川神社」と書かれた石柱の文字は、日本画家の伊東深水の書によるものだと神社の人に聞いたが、不思議なことに深水の名前は刻してはいない。その近くにこんな碑がある。すぐ近くなのだが、鳥居の外なので、神社の外なのであろう。

 やたらに背が高く目立つのだが、観光地によくある、碑の由緒などの看板は一切ないから、内容は漢文の碑文を読むしかない。漢文の素養のない小生でも、大まかな意味は理解できた。それを書き下して大意を読んでみた。不可解なのは同じ字でも略し方が違ったり「従」は旧字ではなかったりすることである。また、漢文不如意の故に、何行か訳出できないところもあった。神社の人が、石碑は水をかけると写真で文字がはっきり写る、と言って親切にも水をかけてくれた。

碑文の大意は下のとおり。

 東京には、医者は数百あるが須田君は眼科で、評判を聞いた客が毎日争うようにして来る。

 須田君の名は哲造で幼名を哲三郎と言う。信濃の国の伊那郡福与村に生まれ、本姓は細井であるが、徳島藩医須田経哲氏の養子となり、初めは漢方医学を学ぶが、その後西洋医学書を学ぶ。

 慶応二年江戸に出て、明治初年に官立医学校で英書を学び、数か月で教官補に推薦されたが君は固辞した。

 明治四年独逸医学の官位を得、明治九年医学士となり、大学東校教官となる。明治十一年広島病院に転じ、医学校長を兼任し、医学生に名声を得た。

 三年を経て、明治十五年に帰京し、大学校の助教に任じられた後、十九年には辞職し、小石川春日町に病院を開くことを許可された。眼科に優れ手術機械も10数種を保有していた。

 君は嘉永元年八月二十日に生まれ、明治二十七年四月二十五日に享年四十七歳で没す。

 

 誤読もあるとは思うが、大意はこんなもので間違いはなかろう。その後に四言の漢詩が八句続くが、小生には全く読み解けない。五言の絶句とか七言の律詩などというが、その手で言えば四言の律詩というのであろうか。

 実は小生が注目したのは「陸軍軍医総監従三位勲功三級男爵石黒忠悳」とあったことである。石黒軍医総監と言えば、他でもない鴎外・森林太郎がドイツ留学時にドイツ娘と恋に落ちた時の上司で、結婚してはならぬ、と命じて生涯鴎外に恨まれた人物である。その石黒が、地位に拘泥せず市井の医師とならんとして早逝した、優秀な医師のために碑文を書いたのである。

 鴎外は、ドイツ娘との恋に職を捨てて投ぜんとしたが、石黒と母に恫喝に等しい説得を受けて恋を捨て、軍医としての立身出世に邁進したのである。鴎外の恋を禁じた酷薄な石黒をのみ想像していた小生は、これを見たとき不思議な感慨にとらわれ、敢えてくだくだと読めもせぬ漢文を読みくだしてみたのである。

 

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