毎日のできごとの反省

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ミッドウェー海戦記1

2019-05-28 14:58:13 | 大東亜戦争

 「半数待機の疑問」に書いたが是本信義氏によれば、陸上攻撃のための第一次攻撃隊は各艦27機の合計108機で、同じく108機が山本長官の厳命により、半数が空母出現のための艦船攻撃兵装で待機していた、とされる、他の資料でも類似の記述がある。しかも待機した攻撃隊は、第一次攻撃隊発艦後、すみやかに艦上に上げられ、空母出現を待っていたというのである。このことの不合理は「半数待機の疑問」に書いた。ここでは文末に示した(1)という文庫本から、各空母の関係者の証言を検証してみた。

 

〈蒼龍の魚雷調整員の証言〉

 この証言によれば、これすら怪しい。蒼龍の魚雷調整員の元木茂男氏の証言である。Wikipediaによれば、蒼龍の第一次攻撃隊の編成は零戦9機と陸用爆弾搭載の艦攻18機である。元木氏によれば、ミッドウェー島攻撃の6月5日の「・・・作業の指示があった。・・・ただちに艦攻18機に、八〇番陸用爆弾を搭載する。そして、搭載終了後、今度は急ぎ魚雷搭載の準備にかかる、というもので・・・攻撃隊が帰るまでに魚雷の準備にかかる。調整場から格納庫へ一本づつあげるのである。」

 つまり、第一次攻撃隊の艦攻は800kg陸用爆弾を搭載して出撃した。そして魚雷は帰ってきた第一次攻撃隊の艦攻への搭載を予定していたのであった。この記述は伝聞ではなく、調整した本人の証言だから、この点に関しては間違いないであろう。すると飛行甲板上にはWikipediaの記述のように、零戦と対艦戦用の爆弾を搭載した艦爆が待機していた、という記述とは必ずしも矛盾はしない。矛盾はしないが、第一次攻撃隊が帰ってくるまでに、これらの対空母戦の攻撃隊は一旦、格納庫に全機戻さなければならないから、作業効率が悪い上に、対空母戦の攻撃隊が出撃可能な時間は極めて短いことになり、対空母作戦効率も悪い。換言すれば、敵空母攻撃のチャンスは極めて少なくなる、ということである。

 だが、元木氏は7~8波の空襲を切り抜けたため調整場の待機を交代して、飛行甲板に出た。すると昼食のにぎりめしを二、三個食べ終わった瞬間に隣の加賀に命中弾があり、蒼龍にも対空戦闘のラッパが響いた、というから、この時に三艦にとどめを刺した艦爆の攻撃が始まったのである。この時元木氏は飛行甲板後部に10機の艦攻が待機していたのを見ている。直後に艦攻群に第一弾が命中した。

 蒼龍で出撃したのは艦攻で、艦爆しか残っていなかったから、艦攻の目撃が事実なら、第一次攻撃から帰投したものとしか考えられない。すると飛行甲板で待機していた、空母攻撃隊は既に格納庫に収容されて、攻撃隊の着艦をさせたのである。格納庫への収容には相当時間がかかるうえに、この間敵機の攻撃を受けて、防空の艦戦を発着艦させながら雷爆撃の退避運動をしていたのだから、攻撃隊の着艦は困難であったろう。すると、米艦爆隊攻撃時点では、対空母攻撃隊が飛行甲板に待機していた、ということはましてあり得ない。

 それにしても、着艦した艦攻が格納庫に収められずに、10機も飛行甲板上にいた、ということの解釈は難しい。ひとつ考えられるのは、これが艦爆の見間違いで、第一次攻撃隊の格納庫への収容は終えて、ミッドウェー基地攻撃か空母攻撃か分からないが、発艦準備をしていたという解釈である。それにしては他の証言から考えると時間的に早すぎて、そこまでの作業が終えていた、というのも考えにくい。

 もう一つの可能性だが、零戦を艦攻と見間違えたのではないか、ということである。見間違えたとすれば、固定脚の九九艦爆より引込み脚の九七艦攻の方が可能性は高い。そうだとしても、艦隊護衛に発着を繰り返していたはずの零戦が10機も飛行甲板上にいた、というのも不可解である。

 

 話は元に戻るが、米艦爆隊の攻撃中に、飛行甲板上に艦攻がいたということを正しいとすれば、残る解釈は、その前から雷爆撃を受けていたから、第一次攻撃隊の着艦収容作業が遅れていたのである。零戦は最後に着艦するから、艦攻が着艦し、格納庫への収容作業中で、収容待ちの艦攻約10機が残っていた、ということであろう。零戦は着艦待ちか他の艦に着艦したかのいずれかであろうとするのが、証言と最も矛盾しない。

 

時間的にも収容された第一次攻撃隊の艦攻が格納庫に降ろされて、雷装を施されて飛行甲板に上げられた、ということは考えられない。魚雷調整員の元木氏は、7~8波の敵の攻撃を受けている間、魚雷調整場に待機していて魚雷装着作業はしていないうちに、交代して飛行甲板に上がってにぎり飯を食べ始めたときに、10機位の艦攻を目撃したと同時に米艦爆の直撃を受けたと証言しているから、やはり目撃した艦攻は着艦したばかりの空装備の、第一次攻撃隊機だとするのが、最もつじつまが合う。 

 

 

〈赤城の制空隊の証言〉

 赤城の戦闘機隊の木村惟雄氏の証言である。第一次攻撃隊の制空隊に参加し、午前4時に攻撃を終え帰途につき、五時頃母艦に達すると、敵雷撃機の攻撃の最中で、雷撃機を撃退して着艦した。午前六時二十分に対空戦闘が始まり、敵雷撃機を撃退すると同時に、艦爆の攻撃を受けた。これが問題の攻撃である。

 赤城に初弾が命中し、全艦が火災になったが、艦が風上に向かったので、エンジンが始動されていた、自機ではない隊長用の機であったが、飛び乗って発艦すると次々に爆弾が命中した。これが、よくミッドウェー海戦記に書かれている、「敵空母攻撃隊の最初の一機が赤城から発艦すると、直後に次々と急降下爆撃に攻撃され被弾した」という問題の一機である。この機は補助翼が味方の対空砲火で壊れ防空戦闘ができず、仕方なく飛龍に着艦したが投棄された。

 つまり攻撃隊の発艦どころか、敵襲であわてて反撃に発艦したのである。別の資料には最初に発艦したのは赤城の艦隊直掩機だったという記述があるが、全くの間違いではないものの、着艦した第一次攻撃隊の一人が、攻撃にさらされて慌てて再度発艦したのであって、直掩のために発艦したという計画的なものではなかったのである。この証言では第一次攻撃隊は、敵襲の合間をぬって収容された機もあったということである。

恐らく艦戦は最後に着艦するだろうから、攻撃隊の多くの機が着艦できていた可能性はある。いずれにしても先の元木氏の証言と同じく、第一次攻撃隊が着艦可能であったから、飛行甲板には、山本長官の命令で飛行甲板上に敵空母攻撃隊の機が待機していたとしても、その時には飛行甲板上に既にいなかったということである。このことは時間的に無理があるから、第一次攻撃隊発進後、ただちに敵空母攻撃兵装の攻撃隊を飛行甲板上に待機させていた、ということの信憑性を疑わせる。

 

〈加賀の飛行長の天谷孝久氏の証言〉

 氏は戦闘時、発着艦指揮所にいたから、加賀が攻撃されていた状況を見ることが可能な位置にいたことになる。第一次攻撃隊発進後しばらくすると「艦上機らしい小型の二機編隊を認めた。」とあり、この攻撃により「・・・敵機動部隊が、この飛行機の行動半径内(二〇〇カイリ以内)にいることは確実であった。」というは当然の判断であった。氏は索敵機が敵空母を発見しないことにやきもきしているが、この時点で兵装を対艦戦用にしておくのは当然であろう。もし、この機が陸上から発進したアベンジャーでも、艦上機が来たのだから、敵母艦攻撃機を意識していたなら、母艦の存在を勘ぐるのは当然である。

 所在が見つからなかろうと、兵装転換には時間がかかるのだから、艦上機の攻撃を最初に受けたときに、兵装転換だけでも行って、攻撃態勢を整えておかない、というのは大間抜け、というものであろう。ところが赤城から、空母攻撃司令信号が来て爆装から雷装への転換を始めると同時に、第一次攻撃隊が帰って来て着艦させようとすると、雷撃機が来襲して着艦は中止される。しかも雷撃機を撃退して収容をしようとすると、急降下爆撃機の攻撃が始まったという。

それならば、おそらく加賀は全く攻撃隊の収容ができなかったのである。何度も言うが、敵空母攻撃隊の発艦直前に急降下爆撃機の攻撃により、赤城、加賀、蒼龍が被弾した、などという通説はでたらめである

加賀の第一次攻撃隊は零戦と艦爆たから、次の攻撃隊に残っているのは零戦と艦攻である。第一次「・・・攻撃隊発進後『加賀』艦上は、上空直掩機の交代機発進、第二次攻撃隊の準備も終わり・・・」とある。直掩機が交代で発着艦を繰り返しているから飛行甲板には準備が整った第二次攻撃隊はおらず、格納庫にいたことになる。

しかも前述のようにその後索敵機の報告により雷装に切り替えていた、というのだから、少なくとも加賀の第二次攻撃隊の艦攻は陸上機兵装で、格納庫にいたのである。このことから、少なくとも、加賀は第一次攻撃隊発進後雷装の艦攻隊を飛行甲板に上げ発艦体制にあったというのではない。

 

〈加賀艦攻隊の松山政人氏の証言〉

 松山氏は第一次攻撃隊発進より前に、早朝暗いうちに朝飯も食べずに3時間位索敵して加賀に帰投した。そこで聞いたのは対一次攻撃隊が発進していくらもたたないうちに、小型の艦上機の攻撃を受けて撃退した。氏はミッドウェー島に訓練のためいた艦上機だろうかと推定している。艦上機なのだから近くに敵空母がいるはずだ、という天谷氏の判断とは異なる。事実は最新のアベンジャー雷撃機は少数がミッドウェー島から発進し、旧式のデパステーター雷撃機は母艦から攻撃している。両方あったわけである。

 その後氏が飛行甲板に上がると艦上機の攻撃が始まったが、零戦に撃退された。その時索敵機から敵機動部隊発見の報が入った。「私はいそいで甲板下の格納庫にかけつけ、愛機へ魚雷を装備した。ところが、これらの装備もおわろうとするとき、今度は雷撃中止、爆撃用意という命令である。しかたなく、いま装備したばかりの魚雷を取りはずし、いそいでいるため、魚雷を魚雷庫へもどす暇もなく格納庫においたままで、今度は爆弾庫から八〇〇キロ爆弾を運んできて、爆弾装備に変更したのである。」

この証言では、加賀の艦攻は雷装に転換する前には、爆弾装備をしていたのか、空だったのかはっきりしない。しかし、兵装がない、ということは考えにくいから、陸用爆弾を装備していたのであろう。八〇〇キロ爆弾が爆弾庫にあったのは、雷装への転換時にはゆとりがあったため、外した爆弾を爆弾庫に戻していたと考えればよいのである。

ただし、森村氏の「ミッドウェイ」によれば、兵装転換には雷装から爆装で二時間半もかかるというから、爆装→雷装→爆装などしっかり終えている時間はない可能性が高い。被爆時のいずれの機の兵装は中途半端でばらばらだっただろう。

 

〈証言の総括〉

 阿川氏などによる通説は、待機機は敵空母攻撃兵装をしており、ミッドウェー島第二次攻撃の要有、との無電により、陸上攻撃兵装に転換している時に、索敵機から敵空母発見の報があったため、空母攻撃兵装に戻し攻撃隊を飛行甲板に上げ、発艦を始めた瞬間に被爆した、というものである。

 しかし証言によれば、三空母とも被爆時に、敵空母攻撃隊が発進準備中ではなく、格納庫内にあったということにしかならない。残りの飛龍も三空母の一部の第一次攻撃隊も収容しているから、第二次攻撃隊は格納庫で待機していたのである。

 本項で引用した証言から三空母の状況を推理する。赤城は、米機来週の合間をみて、第一次攻撃隊の多くを収容した直後に被弾した。加賀は連続攻撃をうけていて、ほとんど第一次攻撃隊を収容できなかった。蒼龍は第一次攻撃隊の艦攻だけ収容できたのかもしれないが、防空戦闘機が発着艦している最中に、艦攻が飛行甲板にいた、というのは不可解である。。

 加賀の二人の証言は矛盾している。天谷氏は艦攻への雷装中に被爆し、松山氏は雷装にした後、爆装に転換しているときに被爆したというのである。ただ、天谷氏は発着艦指揮所にいて、松山氏は兵装転換のために格納庫に行った、というから格納庫の様子については松山氏の証言の信憑性が高い。いずれにしても、米軍機の四空母攻撃から、三空母の被弾までの経過は真相がつかみにくい。

 だがこれらの証言で共通しているのは、通説とは異なり、被爆時に敵空母攻撃隊は飛行甲板上ではなく、全て格納庫内にいた、ということである。

 

(1)証言・ミッドウェー海戦・NF文庫