石原千秋早稲田大学教授が平成28年4月24日の産経新聞に、興味深いことを書いている。文学界新人賞の円城塔が「万人を圧倒する小説を目指す人はそれでよいが、小説の傾きを自覚する人は、選考委員の顔ぶれをあらかじめ見て、最低限対策するくらいのことをしてもバチは当たらないのではないか・・・」と書いているのに対して「僕を意識して書けば、推してあげるからね」ということか。何様だと思っているのだろうか、と揶揄する。
石原氏も、「選考委員対策をして受賞したら自分の書きたいように書くぐらいのしたたかさがあってもいい」と言う趣旨のことを書いたが、しかし、それを選考委員自身が書くものだろうか、として、これは円城塔の人格の問題だけではすまされない、とまでいう。
さらに選考委員たる作家は選考委員としてはストライクゾーンは広くしておくべきだが、作家はそれが出来ないのだろう。それなら複数の文学賞を一人の審査員が掛け持ちすれば、どの賞に応募しても、同じ基準で選ばれたらたまったものではないから、掛け持ちしないか、させないことである。ところが、現に掛け持ちしている何人かの作家がいるから「この人たちには社会人としての節度を求めたい」と辛辣である。
石原氏の指摘は、「賞」の選考の一般論として正しいと思われる。だが、これが芸術に適用されていることに、奇異を感じる。作家はなぜ小説を書くのだろうか。なんだかんだ言っても、小説はどんなジャンルにしても、広い意味でエンターティンメントである。読者を楽しませるのである。ノンフィクションのように、真実を追求するのではない。
小説家が相手にすべきは、評論家でも文学賞の選考委員でもない。読者であるはずである。小説家が文学賞を欲しがるのはなぜか。ベテランならば名誉であろう。新人ならば、名声により今後の作品を売り出しやすくすることであろう。石原氏のいうのは、内容からして、対象となる作家は、ベテランではなく、新人だとか無名の作家のことだろう。
だから彼等は、出版社に採用されるチャンスを欲しくて賞が欲しいのである。石原氏の言う通りだと、作家は作品は選考委員の好みに合わせて書き、選考側は受賞のチャンスを広げてやることが必要である、というのである。結局、次代のニーズだとか読者の好みと言うのは反映されなくなる。
小生は小説が時代のニーズを反映して、面白いエンターティンメントになるのは、結局読者の購買意欲による淘汰だと思っている。しからば文学賞の選考委員と言うのは何者か。既に何らかの権威を持っている者である。権威を持っている者は、小説家であろうと文学の評価基準が保守的になっていると思うのである。
つまり時代のニーズに鈍感な人物である、というのが一般的であろう。そこで皆が皆、文学賞を目指して小説を書いているのでは、面白い小説と言うのは減る。だが、現実には、はなから文学賞など諦めて、売れることに徹する作家も多いのであろう。そうならば、小説もすたることはない、と思うのである。
ところが、小説の世界では戦前にはなかった現象がある。小説をテレビドラマの原作にすることである。昔から有名な小説を映画化する、ということはあった。近年の風潮は、作品が有名であろうと、なかろうとテレビドラマ化したら面白いだろう、という作品を選ぶのである。
最近、池井戸潤氏の作品がテレビドラマ化されて当たっている。するとテレビドラマで人気が出た、という事でドラマの主人公の写真入りの本が書店に並ぶ、といったいわゆるコラボができる。池井戸氏は有名だが、コミックで大して有名でないものが、ドラマやアニメ化される、ということも珍しくない。つまり、小説やコミックがテレビドラマの原作の供給源ともなっている。
文学賞の選考委員の多くが、権威ある作家である、というのは不可解に思う。鑑賞眼の良し悪しには関係なく、小説の売れ行きを決めるのは読者のはずである。いくら賞を受けようと、読者の好みでなければ、いずれ売れなくなる。それなら最近話題になった、書店員が売りたくなる「本屋大賞」の方が余程ましではないか。売って読者に面白かった、と言われそうなものを選ぶからである。土台、文学賞などというものは、肝心の読者にはどうでもいい存在になりつつあるのではないか。