「韓民族こそ民族の加害者である」、の主意は、「韓民族の歴史は、中国や日本などの外国の侵略軍を招き入れて、外国製勢力を半島内の勢力争いや内輪もめに巻き込んで利用した」というものであろう。この結果利用された外国勢力は、内紛に巻き込まれるたびに、かえって多大な被害を受けている。韓民族の争いに巻き込まれて滅亡した、支那王朝さえあった。外国勢力とは朝鮮戦争における米中も含まれる。
本書は全編、その例証にあてられているといってよいだろう。事実関係から言えば、それは正しい。支那の夷を以て夷を制するどころではない、凄惨な韓半島内部での争いが外国勢力を利用して行われたのである。しかも外国侵略を招いた張本人は、不利になれば住民や部下を放置して逃げ出してしまうのである。
だが、「日本人のための世界史」を読むと、別な見方もできる。本書ではモンゴル帝国と大日本帝国、という今では世界史では(故意に)忘れさられた帝国が、世界史に果たした重大な役割を説明するのが主意である。
終章に面白いことが書かれている。日本人による新しい世界史をつくるときには「日本列島だけが日本で、外地は日本ではなかったのだから、大日本帝国を日本史として扱わない、という思想は「日本書紀」に起源があり(P269)」この枠にとらわれるべきではない、というのである。
日本は維新後、欧米人に劣らない能力があることを示すためもあって、海外の植民地経営をし、現地に投資し居住してきた歴史がある。ところが、敗戦によって自己保全のため、日本の歴史を再び日本列島に限定し、外国に進出したことは悪いことだった、と否定するようになった、というのである。この結果、国民国家日本が存在する以前からの日本の歴史を、日本列島だけがあたかもずっと国民国家のように存在し続けた、という前提で限定的な歴史にしてきた、というのである。
このことは、石平氏の著述にも適用できるのではないか。すなわち、北朝鮮と韓国と言う韓民族が居住する現在の地域が、元々歴史的普遍的に存在する、というのが石平氏の著書の前提にあるからである。
そういう枠を外してしまえば、事は日本の戦国時代で、戦闘ばかりではなく、姻戚関係や成功報酬と言った調略をも使って争っていたことともなぞらえることもできるだろうし、日本が半島に出兵したのを、日本列島という本来の日本固有の逸脱した、外征ととらえることの、狭量さも浮かび上がってくる。
ただし、石平氏の言うのは、韓民族と言う内輪の争いに、異民族を引き込んだのであって、韓半島と言う領域から外に出ずに、韓民族での内輪争いに留まっていた、ということである。そして異民族を使っての韓民族同士の卑劣な争い、というのは他の民族に見られない凄惨なものであった、ということも事実である。
この二人の著書にモンゴル人の楊氏の書いた、「逆転の大中国史」、岡田英弘氏の「世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統」などを併せ読めば、世界史の見方が一気に広がるだろう。我々日本人の歴史観は、東洋は四千年の中華王朝史、西洋はギリシア、ローマの流れをくむ、欧米諸国、といった、中共や欧米のそれぞれに都合のいい狭量な歴史観に囚われている。
また、日本を日本列島に限定して、昔からずっと存在してきたかのごとき歴史観は、英米仏独といったヨーロッパ諸国は歴史的経過から、結果的に成立したのに過ぎず、今後も続くものかさえ怪しいのに、あたかも普遍的存在として、過去から未来まで存在している、といった日本人の狭量な歴史観を形成している。
ユーラシア大陸東部は中華王朝がずっと支配していたものではなく、現在中東と呼ばれている地域や、ヨーロッパ大陸の歴史とも錯綜して、単純ではない。もちろん、宮脇氏の言うように、モンゴル帝国や大日本帝国がかつて世界史に果たした重大な役割はすっかり忘れ去られ(故意に無視)されている。