毎日のできごとの反省

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書評・三島の警告・適菜収

2016-05-29 16:35:18 | Weblog

 論旨はともかく、正直、論理の立て方に違和感が多過ぎ、途中で読むのを放棄した。例えば「保守は『主義』など信仰しない。(P12)」と言うのだが、筆者は保守であることを自称し、最高の価値だと認めているようである。そこで保守と言う言葉が乱用されていることに警鐘を発する。それ自体は正しい。だが保守主義と言ってしまうと、イデオロギーになるからよろしくないようなのである。

 ところが江藤淳の「保守とは何か」という文章を引用して、江藤の保守主義は共産主義のようなイデオロギーではない、イデオロギーがないことが保守主義の要諦である(P22)という言葉を紹介する。筆者は保守主義と言う言葉を嫌うと言いながら、明白に保守主義と言う言葉を使う江藤の言葉を紹介していいながら、江藤の論を否定しない。

 小生にはこうした、小矛盾がそこいら中にちりばめられている、筆者の論理についていけないのである。筆者は・・・主義と言えば必ずイデオロギーのひとつだと言っている。しかし江藤は・・・主義と称しても、必ずしもイデオロギーだとは限らぬ、と・・・主義と言う言葉を説明しているのである。江藤は「主義」といっても使い方次第でイデオロギーにもなれば、そうでもないと言っているのである

 筆者は保守の定義を「人間理性に懐疑的であるのが保守」(P17)だとする。そして伝統の擁護と言った保守の性質もこれから発する、という。それは正しいのであろう。イデオロギーは教条主義的なものであり、保守主義はそうではない、と江藤氏は言っているのであろう。だから保守主義という言葉を否定しない。ところが筆者は・・・主義と言ったとたんにイデオロギーとなる、と考えている、という相違があるように思われる。

 これは小さなことには違いない。だがこのような相違を、あるときは無視し、あるときは重要視して論理を進める筆者の思考方法には、ついていき難いのである。もちろん筆者の説を間違いだと言っているわけではない。「単なる反共主義者、排外主義者、新自由主義者、国家主義者、ネット右翼・・・」などのわけのわからない人たちが保守を自称している(P20)と批判する。

 だが「単なる」と形容してしまうことによって、これらの自称保守主義者は、インチキだと始めから言っているのに過ぎない。そんな当たり前のことを言うこと自体が理解しがたいのである。例えば「単なる」でなければ、保守の故に反共になるのは当然であろう。筆者の論理に注意しなければ、反共は保守ではないと言っていると誤解されかねない。こんなことはもっと簡明に説明できるのに、ややこしいレトリックを弄んでいるとしか思われない。こういう論理を混乱させやすい言辞が多くある、と言うのである。

 曾野綾子氏の「・・・強いて言えば、現在の日本の現状を、いい国だと感じている人が保守で、そうではない、日本は世界的レベルでもひどい国だと信じている人が進歩的だということだろう」(P15)というのは意味不明で「保守」思考停止の典型である、としている。前段の文脈は分からないが、曾野氏の普段の言説から考えれば、理解不能ではない。

 日本をいい国だ、と考えるのは日本人の心象のあり方を肯定する、すなわち隣近所を大切にしたりする日本人の自然な特質を肯定するものが保守である、と言いたいのだろうと思う。逆に日本はどうしようもないから、革命をしなければならない、と言うのが進歩的、すなわち反保守だと言うのも当然であろう。

 三島は愛国心という言葉を嫌っていたという(P67)。官製のにおいがするし、内部の人間が自国を対置して愛する、と言うのがわざとらしい、というのである。理屈としてはその通りである。だが三島も筆者も言わない重大な視点がふたつある。三島の当時も今も、GHQや日教組の洗脳により、日本を根源的に悪い国、として否定する風潮がある。まして自国を愛するということを否定する癖に、どこかの外国に媚びる。それも最悪の独裁国であることが多い。

 いかに不自然であろうと、日本が国家として存立する、すなわち日本と日本人を守るには、このような風潮に対抗して、敢えて愛国心が必要だ、とわさわざ言わなければならないのが悲しい日本の現状なのである。三島は「のがれようのない国の内部にいて」というが、元々はそうではない。確かに現在の日本は典型的な国民国家である。

 しかし維新以前は日本人の帰属意識は日本国ではなく、藩であった。民百姓に到っては、藩でさえなく、村落共同体への帰属意識しかなかったろう。だから郷土の為に、と言う意識はあっても、日本国の為にと言う意識はなかった。それを開国して列強に伍するには、日本国に帰属するという意識を国民が持つことが必要であった。そのようにして愛国心とは作られたものであって古来より自然に存在したものではない。しかし、グローバリズムが闊歩する現代には、ますます必要なものである。

 筆者の論理が分かりにくいのは、全否定ではない愛国心嫌いの三島の言辞を延々と紹介し、ご本人も愛国心はよくないかのよう聞こえそうな、物言いをしながら、結論となるや「国の根幹を破壊しようとしているのが真の愛国だろう。(P70)」というから混乱するのである。もちろん仔細に読めば筆者は愛国心を肯定しているとしか思えない。何度も繰り返すが、その論理が実に分かりにくいのである。もっと直截に論証できるのに、ややこしく、読みにくくしているとしか思えない。この本は内容的に価値はあるとは思ってはいるが、70ページのこの言葉を読んで諦めた。疲れたのである。

 バカ官僚などと言う、無遠慮で鋭そうな言辞を使うのが、一見倉山満氏に似ているが、倉山氏の論理展開は案外簡明で、すとんと腑に落ちることが多いので、実際には大いに違うと思った次第である。