守屋前防衛省事務次官の収賄事件は、妻まで関与するという前代未聞の不祥事である。犯罪の責は本人にあるのは当然のことである。だが、そのような犯罪モンスターを育てたのは日本国民である。多くの日本人は戦争はいやだとか、憲法9条違反であるとして自衛隊を日陰者扱いしてきた。
かつては自衛隊の子弟だということだけで、犯罪者扱いする先生もいた。ノーベル賞作家の大江健三郎は、防衛大学卒業者を恥だとまで言った。国防担当者は国民のために生命をも犠牲にする覚悟を前提にする者たちである。その犠牲的精神をかくまで侮蔑したのである。
だから防衛省内でも同じことになる。国民が武を軽蔑すれば、防衛省内でも武に励むものは差別される。真剣に国防を考えるものは出世できない。かくして守屋のごとき利権や権謀術策の士が地位を極める。軍事的知識がなくても、国防の見識がなくても、いやないからこそトップになれる。
シビリアンコントロールとは防衛庁の制服組を背広組が支配することではない。ところが武を軽蔑する日本ではそうとられているから、守屋などはそれを利用する。シビリアンコントロールとは政治家が軍人をコントロールすることである。しかしそれには重大な前提がある。
政治家が軍人をコントロールして弊害のない軍事的知識を充分に持つことである。でなければ兵器の調達にも、軍事作戦にも政治家が口を出せばとんでもない結果が出る。大東亜戦争では、無能な指揮官のために多くの兵士が犠牲となった。これと同じことがへたなシビリアンコントロールによって発生する。
兵器の調達でも軍事的合理性よりも守屋のような背広組や政治家が自己の都合で選ぶことができるようになれば、そこに発生するのは単なる金につらなる利権だけである。国防をまじめに考えない者にとって、購入する兵器が軍事に使用されるという認識が欠如している。すると、武器は利権の道具でしかなくなる。かくして利権モンスターの守屋はかくして生まれる。
明治維新はなぜ成功したか。三百年の太平の中でも薩摩長州などは、武道の鍛錬を忘れなかった。武の心を忘れなかったのである。剣道という旧式な武道であっても、戦う心を忘れなかったからこそ、西洋の新式の武器を手にしたとき有効に活用しえたのである。
当時の清朝は、カネにまかせて西洋の銃器や軍艦を買った。しかし武を忘れて堕落していたシナ人はそれを活用できず、西洋に植民地化され、日本との戦いにも負けた。守屋などは武器購入を出世やかね儲けの手段としたシナ人と同じある。日本は武を忘れ、清朝のシナ人と同じになったのである。
武を忘れた清朝は隠して滅びた。そしてシナは軍事国家となった。そのシナに日本は海洋権益を侵されようとしても、戦争はいやだという武を忘れた精神を発揮している。だから日本は滅びる。
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