毎日のできごとの反省

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織田信長と米軍

2007-12-09 11:33:47 | 歴史

 政教分離とは何か。日本では、政治が宗教を弾圧することないし、支配することをやめて、信教の自由を守ることだとされている。だがこれは誤解である。日本の現実に照らしても、政教分離とは宗教の方が政治に関与することを防ぐことである。

 これはヨーロッパ諸国の近代においても同じだった。たとえばローマ法王のような宗教の指導者が政治に介入することを防ぐのである。宗教は心を支配している。人間の内面を支配していると言える。

 だから議会制民主主義の世界にあっても、宗教の指導者がこの人に投票しなさいと言えば喜んで従う。これでは内心の自由により成立する議会制民主主義の公正な選挙は成立しない。利益誘導による投票の強要もあるではないかと言うなかれ。

 宗教に支配されたものは死をも恐れない。だが賄賂で投票するものは、命を賭けはしない。宗教の政治関与ほど近代社会に危険なものはない。だからこそ政教分離なのである。日本でそれを実行したのは織田信長であるというのは有名な話である。

 信長は苛烈な手段を用いた。それは宗教が僧兵などの軍事力を用いた政治集団と化したからである。詳しくは井沢元彦氏の著書をぜひ読んでいただきたい。言いたいのはそのことではない。とにかく信長は日本の宗教勢力が政治集団であったのを、皆殺しという手段で鎮圧して、政治に関与しない穏当な宗教集団だけを残したのである。

 日本人が今、宗教はやさしいものだと信じているのはその後の歴史の記憶しかなく、宗教が武士をも圧倒する武装集団で、江戸時代の藩にも相当する政治組織であった歴史を忘れてしまった。本来それは幸福なことであった。

 本論に入ろう。だから日本人にはイスラム教を標榜する軍事的、政治的組織が存在することを理解し得ない。宗教家が政治支配しているアフガンの状況を理解し得ないのである。イラクの混乱も同様である。中東のイスラム社会はいわば信長以前の宗教支配の世界である。

 そこでは宗教の戒律が法律である。目には目を、の戒律が実行される。テロにより敵を殺して共に死んだものは天国に行ける。そう確信して宗教の指導者の指示を実行することに至福を感じる人たちである。

 これは打破すべきであろうか。近代社会に生きるものは打破すべきと考えるであろう。宗教が国家を支配するイスラム社会には近代社会は成立しない。近代社会を絶対善とせず、イスラム社会でもいいという相対主義的考え方もよかろう。

 だが現実はイスラム社会が人道を抑圧してその苦痛に庶民は呻吟している。これに対して、近代社会が人間の可能性を謳歌して、人類の進歩が近代社会に向かうべきであるのは現実が示している。間違いなくイスラム社会は停滞した、今後の世界のあるべき指標に反する。日本がかつて克服したごとく、克服すべき事態である。

 克服する方法は何か。その前例は織田信長が示した。方法は圧倒的軍事力による虐殺である。これをイラクで実行しているのは他ならぬ米軍である。米軍の戦いはテロとの戦いではない。宗教との戦いである

 たしかに米国もヨーロッパも日本に比べれば、はるかに政教分離の進んでいない国家である。大統領の就任に聖書に誓う国家である。それでもはるかにイスラム国家より政教分離は進んでいる。日本より政教分離が進んでいないにもかかわらず、政教分離という標語を発明した。

それは科学においてあらゆる現象を法則として定式化したことと同じである。同じ事をしても西洋人は表現が適切なのである。米国は意識しようとしまいとイスラム国家の政教分離を実行しようとしている。それは信長の日本における行為を世界的に展開しているのである。

 信長が宗教の牙を抜くのには多大の流血と弾圧を行った。世界の宗教勢力を政治に関与しない「平和的」勢力に転換させるのにも、多大な犠牲が必要であろう。米国がそれを成しうるか定かではない。少なくとも五年十年といった短期に成しうることではない。

 しかし歴史は、誰かがそれを成すことを求めている。いずれ宗教の無力化は歴史の趨勢である。米国が成さずとも、いずれ歴史のたどる道である。それがテロとの対決と言おうと、独裁の追放と言おうとそれは現実に対応するための口実に過ぎない。

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