goo blog サービス終了のお知らせ 

毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

危険な遺伝子理論による男系天皇論

2019-08-15 20:20:13 | 政治

 八木秀次氏は、XX染色体の女性と、XY染色体の男性の結婚によって生まれる男子はXY染色体、女子はXX染色体を持つので、Y染色体に含まれる遺伝子は、男子によってだけ受け継がれるから、天皇家は男系によって、永遠に遺伝子が引き継がれ、萬世一系の天皇が続いている科学的根拠とした。

 それ故、女系では遺伝子が断絶することになる、という観点から、女系天皇反対論を唱えた(Voice 2004年9月号)。これは遺伝子科学の観点からして正しいとされ、男系天皇論の科学的論拠と認められるに至っている。これは伝統的風習が、実は科学的にも根拠があるという、ありがちな科学的論説である。従って、男系天皇論の絶対的根拠とされるかに見えた。

 そうはどっこい、左翼はもっと狡猾であった。男子皇族が減少している現代では、女系容認しか皇統を守れないのではないか、と餌を投げたのである。これに見事に引っかかったのが、保守の重鎮たる、田中卓皇學館大学教授である。「女系天皇で問題ありません」(諸君2006年3月号)といって、現実的観点から女系天皇容認論を展開して今に至っている。

 これに追従したか、似た思考をした保守に、何と高森明勅氏や長谷川三千子氏もいるのである(小林よしのり氏は思想を論ずる人ではないので除く)。これは重大なことである。長谷川氏の変節には、西尾幹二氏も呆れていた。

科学的に男系でないと萬世一系は途絶える、と証明した結果がこれである。女系容認の保守は、現実的観点ばかりでなく、庶民如きが皇統に口を出すのは僭越に過ぎる、遺伝子による証明など皇統に対する侮辱であるがごとき論調である。

 しかし、一方で八木氏の男系天皇論は科学的に正しいことは、右も左も認めているのである。すると、女系天皇が誕生した瞬間に反日左翼の日本人は「科学的根拠を持って萬世一系の皇統は途絶えた」と絶叫する。科学的事実だから誰も否定できないのである。これに気付いたのであろう正当な保守(例えば西尾幹二氏)は、先例のないことは一切すべきではない、との論拠で男系天皇論を展開している。

 しかし、八木氏が言わなくても賢い反日左翼は、いずれ遺伝子科学を持ち出すであろう。いずれにしても八木氏の遺伝子論は萬世一系の皇統護持に重大な一石を投じてしまったのである。田中卓氏は諸君で滔々と女系容認論を述べた。

しかし、反日左翼にとっては都合のよい論説に過ぎない。女系天皇誕生を虎視眈々と待っているのである。女系天皇論の危険は理論や科学や、いわんや事実ではなく、「天皇制廃止」のはずの反日左翼が女系天皇論を唱えている、そのことにこそある。女系天皇容認論の保守は、そのことを心するべきである。


わかっちゃいるけどやめられない、岡田克也氏

2018-12-24 22:39:17 | 政治

 立憲民主党(つまりかつての民主党)は「わかっちゃいるけどやめられない」、政党だということは、産経新聞の阿比留瑠比記者の「立民 非現実的政策の理由」(H30.12.21)という記事と、立民党の岡田克也氏へのインタビュー(H130.12.24)を対比すると歴然とする。前者では、早い話、政権獲得の可能性がないから、政権奪取したら困るような、沖縄政策や安保政策を平気で掲げているというのだ。

その証拠に当時の社会党の村山富市氏も総理になった途端、永年の主張を翻して自衛隊合憲と言った。民主党の鳩山由紀夫総理は、結局辺野古移転を行う閣議決定をし、あくまでも辺野古移設に反対する、福島瑞穂氏を大臣罷免までした。ところが野党になった途端に、彼らは元の「反対派」に戻ったのである。実に単純明快である。

 ところが、この記事を読んでいるはずの、岡田氏はインタビューで、当時辺野古移設は他に選択肢はなかったし、安倍政権は強硬にものごとを進め、基地問題をこじらせてしまったから今は反対である、と言っている。その癖、現段階での他の選択肢は提案しないし、そもそも現政権が辺野古移設の工事を始めたのは、当時の沖縄県知事が移設を容認してからであって、その後知事が変わると容認撤回したのである。こじらせたのは政権側ではなく、県側である。

 自衛隊の憲法問題については、岡田氏は言及すらしていない。党内事情と党勢拡大のために、言及できないのである。最後は「政権交代可能な政治の実現」のため近い将来枝野政権を誕生させたい、と結ぶ。岡田氏は政権をとることができないことを百も承知だが、分かっちゃいるけど(から)「なんでも反対」はやめられないのである。


書評・さらば財務省・高橋洋一

2018-10-09 15:09:26 | 政治

 安倍総理辞任の真相、財務省が隠した爆弾、郵政民営化の全内幕、などの前半の章については、貴重な著者の体験に基づく貴重な話で納得がいった。特に郵政民営化には、財務省との関係でいずれ民営化しないと郵政も財務省も破綻する必然的なものだということは世間に知られていない情報であった。

 また、消えた年金の真実、では、年金記録がでたらめになっていたのは旧社会保険庁内部の労働組合のサボタージュが原因である、ということをはっきりさせてくれた。しかも以上述べた問題について、ほとんどのマスコミが真実を報道せず、表層的に安倍晋三氏、小泉純一郎氏、竹中平蔵などによる改革を妨害する役割しか果たしていないことも明らかにしてくれた。

事あるごとに、報道の自由だとか、真実の報道は民主主義の根幹だ、などと叫ぶ日本のマスコミのインチキさについては、今更ながらあきれる他ない。日本のマスコミは多くが、建前に反して、特定勢力によって動かされる怪しげな存在である、という思いを深くした。

ただ、公務員制度改革については、一部指摘したいことがある。まず著者は、民間には天下りがなく、公務員だけが天下りをし、天下り先のために働いている、という面があると言うのだが、これは事実ではない。天下りが公務員制度をゆがめているのは事実であるにしても、民間にも「天下り」は存在する

特に民間でも大きな企業には必ず系列会社が存在し、定年の前後に系列会社の大手から、中小の会社に再就職をする、ということは稀ではないと思う。日頃公務員の天下りを批判している朝日新聞ですら、子会社のトップに再就職をしているではないか、という記事を書いた、雑誌があった。しかも再就職する人物は単に親会社だから再就職するのであって、必ずしも子会社の業務に精通しておらず、お飾りのトップに過ぎないというのだ。正に悪しき「天下り」の典型であろう。天下り批判の急先鋒の朝日がこの体だから、他はおして知るべし、であろう。

著者の批判する公務員制度批判の多くは、日本の企業体質のかがみであって、年功序列も終身雇用も現代の日本の企業体質の反映である、といえる。

小室直樹氏によれば、日本は戦後、高度経済成長と天皇の絶対性の崩壊により、村落共同体が崩壊したため、急性アノミーにおちいったという。そのため村落共同体の受け皿となったのが、会社組織である、というのだ。(「小室直樹の中国原論」による)小生はこの指摘は正鵠を得ている、と考える。小室氏は豊富な学識ばかりの人ではなく、人の精神構造にも理解が深いのである。日本の公務員制度は、多くの面で民の縮図である。

個人のスキルによって、民から官、官から民、民民へと自由に転職することが可能であるべき、という著者の主張には一面の真理があるが、小室氏の言う視点が全く欠落している。日本の終身雇用制度は戦後に強固になったのであって、必ずしも戦前はそうではなかったことは、当時の小説を読むと分かるのである。戦前は必ずしも終身雇用でなくても個人の精神の安定が保てたのは、村落共同体が健在であったから、ある人が会社を辞めても村落共同体という安定した所属場所があったからである。あからさまに言えば、会社が嫌になって辞めても、帰って迎え入れてくれる村落共同体がある、という安心感があるのである。

小生の田舎にもそのような村落共同体があったため、その安心感は理解できる。今でもその残滓があって、小生の子供の頃の同級生にも、東京で公務員勤めをしていたのが、定年で実家に戻り、家業をついだ者がいる。彼にとっては歳をとってから、田舎で暮らす、というのは当然であったようである。わが家は事情があり、そのような村落共同体から疎外されていた。だから小生は村落共同体を忌避する本能があるのだが、日本社会における村落共同体の重要性は理解できる。

現代ではむしろ、都会にこそ村落共同体が濃厚に残っている、と感じることがある。例えば江戸市中であれば農村ではなく、隣近所が職業を異にする自営業なり職人の共同体であった。元々同じ農業を営む同一職業共同体ではなかったのである。だから農業村落共同体の崩壊は直接都市部には影響を及ぼさない。その結果代々、都会の地に住む家系の人々にとっては、共同体は存続し得たのである。ただし、小生のように田舎から仕事を求めて都会に新たに住むようになった新住民は、共同体の一員になるには日月を要するのであろう。何世代か定住しなければならないのではなかろうか。

恐らく世界の社会的生活を営む人類には、民族等に拘わらず、何らかの所属共同体が必要なのである。民族によってはそれが宗教であったりするのであろう。欧米では、その主たるものがキリスト教であることは、夙に知られている。戦前までの日本では職業の大多数を占めた農業を基礎とした、農村村落共同体であったのである。

このような観点の欠落した著者の公務員制度改革は夢想的理想主義の一面を免れてはいない、と考える。著者にしても、信念と運に基づいて行動した結果、財務省という共同体からはじき出されたが、実はその実力によって思想をともにする共同体の一員になっているのだろうと想像する。前川喜平元文科省事務次官にしても、左翼的言動をあらわにすることによって、何らかの居場所となる新しい共同体に安住したのであろう。

そうでなければ、文科省を辞めた身分で、学校の講演会に呼ばれて謝金を得る機会を得ることはなかったはずである。しかし、つい先日までエリート官僚であった前川氏の新規に所属した共同体の構成員の大多数はそうではないだろうから、必ずしも安定した居場所ではなかろうとおもう。小生が聞いた、公共事業関係のエリート官僚で、突如公共事業罪悪論を振りかざして退職してしまった人物がいる。その人物はかつての所属官庁の現職からもOBからも嫌われている。前川氏を想像するゆえんである。

本書も公務員改革の部分については、存外に旧来の公務員批判と大差ないように思われる。公務員とて終生、精神の安定を得る共同体は必要なのである。そこで小室氏の意見を克服できるようになれば、著者の公務員制度改革も現実的になる、と思う次第である。


国民よ衆愚政治の徒となるのか

2018-03-27 12:37:23 | 政治

 森友学園問題は、いよいよ平成30年3月27日、佐川前国税庁長官の国会の証人喚問が始まった。そもそも、この問題は、財務省の出先機関が、森友学園に対して不当な値引きをして、国有地を払い下げたことについて、手続きに瑕疵があったかということだったはずである。財務省の一出先機関と一中小経営者間での出来事であり、到底内閣に波及する課題ではないはずの中小案件であった。

 ところが朝日新聞は、森友学園の経営者と安倍総理夫人とが、接点があることを奇禍として、不当な値引きに安倍総理の関与があったと言うストーリーをでっち上げ、日本史上初の改憲を具体化させようとする、安倍総理を退陣に追い込もうと企んでいるのに相違ない。

小生はこれまでの状況からの推移で、でっち上げと断じた。朝日新聞は、安倍総理の意向を忖度した犯罪であると断じた。忖度は内心の問題だから、なかったとは証明できない。「悪魔の証明」である。できるものなら、でっち上げではないと証明するが良い。朝日新聞にテレビのワイドショーが、芸能人のスキャンダルと同じノリで大問題に格上げした。各テレビ局が安倍退陣で横並びで同じ論陣をはっているのは、言論ファシズムである。

 朝日新聞の言う、現時点での森友問題は、①国有地売却の「決裁文書」の改竄に安倍内閣が関与している、②改竄前の文書に安倍夫人の名前があるが、安倍夫人の名前が改竄で削除されているのが、安倍内閣が国有地の不当な安売りに関与し、改竄にも関与している証拠だ、という2点である。

 改竄にも不当安売りにも、安倍総理の意向に対する忖度があり、改竄前文書に安倍夫人があったことが忖度の物証である、というのだ。産経新聞に元財務官僚の高橋洋一氏は「財務省は内閣を忖度するような役所ではない」と論じた。安倍総理の支持のつもりが「忖度の有無が問題だ」という朝日新聞の罠にかかってしまった。

 人の意向を忖度したか否か、というのは、内心の問題だから証明のしようがない。私は安倍総理の意向を忖度しました、と証言したところで、事実認定は不可能である。不可能だから、朝日新聞やテレビは、昭恵夫人と言う名前と写真を何千回と登場させた。証拠能力のいらない印象操作である。内心の問題を根拠として犯罪の追及をするのは、法治国家にあってなすべきことではない

 それを許せば、誰でも犯罪者に仕立て上げる冤罪の源泉となる。現実に共産主義独裁国家においては、スターリンや毛沢東が、任意に国民を捕まえて拷問にかけ、国家反逆を内心で考えていたと拷問し、処刑した。相手は政敵でなくてもよい。スターリンと毛沢東に反逆心があるに違いない、という内心に対する疑いで、何万何十万人と言う罪なき人々が粛清された。粛清を実行したベリヤは、スターリンに処刑されると恐れ、スターリンを毒殺したと言う説がある。スターリンとベリヤは互いに疑心暗鬼となっていた。生き残ったベリヤも後任のフルシチョフに処刑された。内心を理由に人の罪を問う、というのはかくも怖ろしいことだから、法治国家でしてはならないことである。

 万歩譲って、仮に忖度の有無を問題にしたとする。それでも確実な物証は必要である。物証は改竄前の文書に昭恵夫人の名前があり、改竄によって消えた、と言うものである。ところが昭恵夫人の発言とは、森友から近畿財務局が聞いて記録した伝聞に過ぎない上、内容も「いい土地だから買ってください」という賄賂を貰った者とは真逆の発言である。

その上、昭恵夫人とともに名前が削除された政治家には、「賃貸料」値引きの交渉を依頼されたが、拒否した人物さえ含まれている。これらから考えても昭恵夫人の名前が削除されたのは、「土地価格」の値引きと、文書改竄に安倍内閣が関与した証拠にはならない。国民よ、朝日新聞とマスコミによる執拗な印象操作に騙されるような、衆愚政治の愚民にならないでいただきたい。

今や朝日新聞の倒閣のターゲットは自民党になった。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、である。仮に国会の追求を乗り切ったところで、支持率の低下により自民党内が動揺して、安倍内閣を辞職させるか、次期総裁に選ばないことも充分に考えられる。倒閣の布石は、先まで打たれている。


稲田議員の試練

2016-08-07 15:15:39 | 政治

 平成28年8月5日の日本経済新聞に、稲田新防衛大臣のインタビューの「『侵略一概に言えず』■靖国参拝『心の問題』」と題した記事が載った。稲田氏は「百人斬り事件」の弁護をするなど、以前から保守の論客として知られていたから、日本のマスコミは中韓に気に入られない稲田氏の思想をターゲットにする気なのである。

 「日中戦争から第二次大戦に至るまでの戦争は侵略戦争か、自衛のための戦争か、アジア解放のための戦争か」などと記者が質問したのを、稲田氏がうまくかわして明言しなかったのが、マスコミはいたく不満だったのである。侵略戦争を否定すれば、失言だと書くし、肯定すれば節を曲げたので、ざまあみろ、と言いたいのである。

 ドイツのような敗戦国も含めて、世界の国々でこんな国はない。自国が過去に侵略戦争をしたといいたがるマスコミは、ドイツも含めてどこにもない。国際法の解釈は別として、欧米諸国で道義的意味では侵略をしなかった国はない。

欧米の侵略と植民地支配は恐ろしく悪辣で苛酷であった。アヘン戦争は当時英国内でも道義的に問題にする政治家はいた。しかしそれはその時点での政策論争だった。それを戦後70年たって自国を侵略国家と言わなければ文句をいう、という日本のマスコミは世界的に見て尋常ではない。自国の過去を卑下すべきだと言うのは狂気の沙汰である。

 靖国神社の参拝にしても、中曽根内閣が中共政府内部の権力闘争に配慮して、参拝を止めてから問題にされるようになったのであって、それまでは中韓両国とも文句を言ったことはなかった。日本のマスコミが問題にして政治化すると、特に中共は外交カードに使えると、味をしめたのである。

 これらの事実をマスコミは百も承知である。それでもこの体たらくである。かの記事の最後は「稲田氏は今回、歴史問題について体系的に述べているわけではないが、今後議論を呼ぶ可能性がある。」と結んでいる。稲田氏が閣僚である限り問題にしてやる、という脅しである。

 小生は男女の区別なく、稲田氏の思想信条からして、今は総理大臣になってほしい逸材だと考えている。他の自民党議員は日本的リベラルとみられる人材ばかりである。自民党の思想信条のまともな人物は、かつての江藤大臣のように、自爆覚悟で信念を吐露してしまったケースが多い。

このような売国奴的マスコミにいかに対応できるかが、稲田氏の首相への道の試金石となろうと思うのである。いや、安倍総理は試練を与えているのであろう。信念を正直に公然と語り自爆するのは学者であって政治家ではない。妥協のため信念を曲げるようでは、支持する価値はない。

小生は丸川珠代議員の将来にも期待している。しかし、小池都知事と知事選挙前に遣り合った結果、選挙後の記者会見で小池氏と似た服装で登場して話題になったのはいただけない。服装で張り合うのは女性であることを利用している気配があるからである。総理大臣に男女の区別はいらない。丸川氏はまだまだ伸びしろがあるのだろう。


曽野綾子氏の舛添知事擁護論の的外れ

2016-07-23 14:59:25 | 政治

既に旧聞に属するが、産経新聞平成28年6月15日の、曽野綾子氏の舛添前都知事に関するオピニオンは、氏らしい意外な着想だが、筋論としてはおかしいことが多いと考えられる。氏は知事が海外出張するときは、ファーストクラスでスイートルームをとるのは当然である、という。だがどんな組織にも旅費規程のようなものがあり、一定以上の役職ならファーストクラスやグリーンの交通費を払い、役職に応じて宿泊費が規定されている。

インターネットで調べたら東京都には「職員の旅費に関する条例」というのがあった。まず海外出張の航空運賃であるが、都知事のような「特別職」は運賃が二段階設定の場合は上級の運賃、三段階の場合には、中級とある。例えばファーストクラス、ビジネス、エコノミーがある便の場合はビジネスを適用、ファーストクラス、エコノミーの場合はファーストクラスを適用となる。ファーストクラスだから即いけない、という訳ではないという曽野氏の意見は正しい。そしてエコノミークラスに乗れと言わんばかりのマスコミはおかしいのである。

余談だが、小生は10年以上前に、東海道新幹線で、指揮者の小澤征爾氏を見かけたことがある。小生と同乗していた人は、しばらく前に、イベントに小澤氏をよんで間近で見たから、間違いない、という。何と小澤氏は小生と遠く離れていない普通車に乗っていた。グリーン車ではないのだ。その後しばらくして、上野駅構内の雑踏で、一人か二人のお付きらしい若者と立っていた。世界的指揮者が大勢の者を従えて威張り腐って闊歩していたのではなかったのに驚いた。

次に条例の宿泊費を見る。すると、外国旅行の旅費は一日当たりの「日当」、一夜あたりの「宿泊費」と「食卓料」の計3つで構成される表がある。表の指定職で3つの一番高いものを合計すると、41,700円となる。マスコミが都条例の宿泊費の上限は4万円と主張するのはこのことだろう。正確には、日当はホテルに払う宿泊費ではなく、昼食その他の滞在の経費だから、一泊二日なら日当は二日分払われる。そんな厳密なことは無視しよう。

曽野氏の言う「スイートルーム」は当然、というのはどの程度を言っているのか分からないが、一泊二〇万円というのは、どう考えてもべらぼうである。ちなみにインターネットでホテルの宿泊予約検索すると、国内の場合だが、大抵一泊二万円を超えると「ハイクラス」と表示される。都条例は既にハイクラスであるが知事クラスなら当然だろう。

都条例を遥かに超える宿泊費を毎回使っていたのは条例違反である。条例の金額が世界の常識に反しているのなら、都条例の規定を改めなければならないのであり、改めずに毎回べらぼうな宿泊費を使うのを繰り返すのは単なる条例違反である。

VIPだからといってホテル側が勝手におためごかしに高い部屋に泊まらせて正規料金を払わせることがあって、迷惑な話だと、曽野氏は同情するのだが、その次から反省して担当がホテル側のおためごかしに騙されなければいいのであって、条例違反を黙認する理由にはならない。そもそも舛添氏は「知事が二流のビジネスホテルに泊まれますか」と反論した。誰も二流のビジネスに泊まれとはいっていない。そんな下手な論理のすり替えをするから国民は怒ったのである。

湯河原なら災害時にも、そんなに時間もかかれずに都庁に戻れる、と曽野氏は言う。だが災害時という緊急時に何時間もかけて戻らなければならないところに、毎週定期的に二日以上滞在するのが危機管理上問題である。災害なら交通網が寸断されて、都知事が都庁に付けなくなる確率が高いことを想定すべきである。これは曽野氏らしくもない言説である。

舛添氏は「私がいなくても副知事が代行できる」といったが、危機管理を全く知らない暴言である。都でも、知事に何かあれば副知事が、その副知事にも何かあれば誰々にと、職務権限を継承すると言う緊急時の規定があるはずであって、舛添氏はそれを言っている。

しかし、それは知事が万一指揮を取れなくなる非常事態を想定した規定である。毎週末知事が指揮を取れなくなる可能性の高いところにいることが常態化している、という事自体が危機管理を知らないのである。その点は悪評の高かった菅元総理よりたちが悪い。知事がいなければ、副知事が代行できるからよい、というのが慣行化常態化しているのなら、最初から知事という役職者はいらない

第三者による調査に時間がかかったのが問題だから、徹夜でも調査させるべきで、できないのが社会的問題である、と曽野氏はいうのだが批判としては的外れである。時間より根本的な問題を見逃している。舛添氏は自費で弁護士を雇ったと言う。それなら、法的には弁護士は依頼人の舛添氏の個人的利益を守るのが責務の「代理人」であり、弁護士倫理規定にもかなっている。

当然であろう。裁判では原告と被告の双方に弁護士が付き、弁護士は報酬をもらうから、双方の弁護士の主張は異なる。舛添氏の代理人たる弁護士が、誰からも反論の余地のない客観的な調査をすることはあり得ない。例えば、弁護士がもっと調べるべきことがあると考えても、舛添氏に不利になる可能性があれば、調査しないでおく方が、舛添氏の代理人たる弁護士としては正しいのである。

確かに明白に、政治資金規正法違反だと言える案件は指摘されていない。新聞の投書にあったように、舛添氏はかつて、同法はザル法だといっていた。それを機能させるには、政治家個人の倫理性に頼らざるを得ない。だから、舛添氏は何度も政治家や公務員の倫理保持の必要性について語っていた。結果的に舛添氏はザル法だから放っておいてはよくない、と主張していたのである。それを承知で舛添氏が、ザル法を逆手にとっていたから嘘つきなのである。ちなみに小生は政治資金規正法をいくら厳格化しても無駄で、政治家の倫理性に頼るしかない、と考えるものである。

曽野氏は、美術品の所在が分からないのは、都庁の役人の怠慢である如きことを言う。だがこの件も含めて、曽野氏には、首長は総理大臣と比べても、遥かに独裁的権限を持っている、という根本的認識が欠けているように思われる。本来日本の公務員は、物品管理にはうるさいほど几帳面である。だが買った美術品の保管場所を確認させて下さい、と部下が言っても、余計なことをいうな、と言われればお終いである。横暴とは思っても、部下は従わざるを得ないことが多いのである。

だから、舛添氏ばかりではなく、宿泊費が条例違反だと首長の部下は諫言できないのである。今回明らかになった最大の問題は、首長が節操を無くして独裁権限を振り回した、と言う事であろうと思う。東京都の場合には組織が大きいし、マスコミなどの監視は厳しいからましな方である。だが、県、市町村など組織が小さくなり、人間関係が濃密になると、首長の独裁的傾向はひどくなる。小さな組織で、何期も連続して首長をしている自治体では、幹部ばかりではなく、かなり末端の職員まで横暴な首長の顔色を窺わなければならない実態があり得ることこそ問題である。

曽野氏の言うように、わずかな私的流用のために、多額の議員給与が浪費されたことが問題なのではない。独裁権限を乱用した首長が、政治資金規正法については違法性をないことを利用して居座り、それをやめさせるのに多額の議員給与が浪費され、マスコミが大騒ぎしなければならなかったことが問題なのである。

個人的な妬みの溜飲をさげた人たちを見るのは、あまり楽しくない、という氏の結語は大いに賛成である。一部週刊誌のような、舛添氏の少年時代の生活を私的流用の心因であるがごとき報道は下品の極みである。だが、以前は高潔と見られていた舛添氏が、首長と言う独裁権力を手にすると、次第に暴慢な独裁者の如き者になり果てたのは、多くのトップが他山の石とすべきなのであろう。毎週湯河原まで車で送ることを批判した部下に「俺の車を自分で使って何が悪い」と言ったと伝えられるのは、事実ではないにしても、象徴的である。

 


日本の変革は政界再編ではできない

2016-07-03 16:18:48 | 政治

このブログに興味を持たれた方は、ここをクリックして、小生のホームページもご覧下さい。

 保守の多くの心ある人たちは、日本の変革を政界の根本的再編によって行うべきだ、と信じているように思われる。心ある人物かは別として、小生もかつては同じ考えであった。現に自民党から離脱した保守政治家に、それを実行しようとしている人たちがいる。例えば、日本のこころを大切にする党である。

 石原慎太郎ともに平沼赳夫らが結成した太陽の党を解消して結成した日本維新の会は、石原慎太郎が橋下大阪市長当時、橋下に期待した政党である。石原は橋下の思想を読み違えていた。慰安婦問題などに対する橋下の正論に幻惑されたのである。橋下の言動は、その時々の判断で正しいと考えていることを強く表現するだけで、確固とした思想や歴史観に基づくものではなかった。

 それが分かった石原は日本維新の会から離れたのである。石原の考えは憲法観などの一致する、保守政党を立ち上げて、既存の各政党にいる、同様の志を持つ政治家を糾合すれば、自民党より正統かつ大きな勢力になり、共産党などのような反日としか考えられないような勢力を圧倒できると考えたのであろう。さらにうがった見方をするなら、それらが弱小化してものの数ではなくなって、保守政治家が糾合した大きな保守政党ができた時、分裂して保守二大政党政治に至る、と考えられる。

 現に戦前の二大政党は、根本的に歴史観や国防観に違いはなかった。ところが皮肉なことに、それ故政権欲しさに泥試合を演じて、肝心の国防や外交を政争の具にしたうえ、これらの問題に政治的回答を出そうとしなかった。そのため、危機を実感していた国民は政党ではなく、解決策を提示した陸軍に期待した。

 例えば、大陸で激化する反日テロについて、一向に外交的解決策を出さない政党政治に対して、陸軍は満洲事変と言う解決策を出したのだった。その挙句は大政翼賛会という政党政治の終焉であった。だから二大政党政治が現今の日本にも適しているか、は大きな疑問なのである。

 少々脱線したが、民進党にも健全な保守政治家はいる。反対に、引退した加藤紘一のように利益誘導型政治手法だけが自民党的で、思想的には非保守反日の典型のような政治家が自民党にも多数いる。あろうことか、反日極左の牙城である雑誌世界誌上で安倍政権を批判する大物の元自民党政治家さえいる。

 他にも日本のこころを大切にする党と類似した思想の、旧自民党政治家を集めた政党はある。これらをひとつに集めても現在では少数勢力であるのに、糾合する様子はない。もちろん自民党や民進党を離脱して、これらの政党に加わる政治家がいる様子も全くない。結果から言えば、平沼や中山恭子らのしたことは、腐っても保守の一大勢力である自民党を弱体化させ、自民党が思想の真逆の公明党と組まざるを得ないと言うことになった。

 その原因は思想の小異を超えて、大同に付くと言うことができないことと、政治家にも人間関係がある、ということであろう。その典型が郵政民営化問題である。民営化に反対した有能な政治家が自民党を離れた。民営化自体は健全な保守かどうかを判定するリトマス試験紙ではなかったのに、である。

 それ以前にも小沢一郎による、二大政党政治を目指した自民党からの分裂があった。大きく見れば、小沢は冷戦の終結により、日本における親社会主義政党が崩壊して、保守による二大政党政治が実現するチャンス、と考えたのであろう。小沢の真意はともかく、それまで社会党や共産党に自民党へのチェック機能しか期待せず、決して政権を与えなかった多くの国民は、そう期待したのである。

 ところが、冷戦が終結しても自民党の社会主義シンパは駆逐されず、共産党は衰退しなかった。それどころか、社会党という消えゆく政党に見切りをつけた労働組合は、自民党の離脱者と松下政経塾出身のノンポリ議員と旧社会党議員を糾合した民主党を作った結果、一時は自民党に勝つに至った。

 自民党の離脱者と松下政経塾出身のノンポリ議員は、民主党の組織票基盤が実は極左に近い労働組合であるという事実を国民の眼から隠す、隠れ蓑に使われたのである。だから、民主党の左派は国民の眼を騙すことに成功し、一度は政権をとったものの、党綱領すら作れない政権担当能力皆無の政党であることを露呈して崩壊し、また勢力を再編し民進党となったが、本質に変わりはない。

 結局のところ、石原らが考えたであろう、政界の大再編による保守の糾合は成らない、と結論するしかない。維新以前の日本もそうであった。水戸学などの影響により、徳川政権はもうだめだから、大変革をすべきだと言う考え方は、何も幕末にペリーなどの欧米勢力の来航に慌てて興ったものではない。

 例えば勤皇論を唱えて高山彦九郎が自刃したのは1793年、維新が成る80年近く前である。幕府の機能は既に命脈が付き、根本的変革が必要だと見通して運動を起こしたのである。しかし、彼の思想が生前に結実することなかった。だが、継承された思想が維新のひとつの原動力となったのも事実である。その意味で日本への本当の回帰があるとすれば、今期待されている政界の再編によるものではなかろう

 高山のように、今日本の危機への警告を乱打する識者は多い。だが日本国民もマスコミも多くは、日々の生活に目を奪われている。経済さえうまくいけばいい、と言うのである。英国のEU離脱の国民投票結果が出ても、経済危機に注目するだけで、それが欧州の政治情勢、ひいては世界の政治情勢の混乱の可能性に言及するマスコミは少なく、テレビに至っては聞いたことがない。

 日本はこのままゆでガエルとなっていくのかも知れない。文革で一千万人の犠牲者が出たのは、単に毛沢東の責任に帰するわけにはいかない。間接的であるにしても国民の責任は大である。その証拠に一千万も殺したと言われる毛沢東の、中共国民へのカリスマは失われていない。日本の国体の背骨は近代における西欧思潮の乱入と、GHQの言論統制によって、相当に傷つけられているのは間違いない。


衆愚のトップ舛添知事

2016-05-15 16:27:22 | 政治

衆愚のトップ舛添知事

 猪瀬前知事は、不正献金で辞職した。多くの国民は政治家が多少なりとも金のかかる選挙のために、何らかの不正献金に手を染めているがばれないだけだと考えている。猪瀬氏はばれただけなのである。

 ところが舛添氏の場合の不正は、全て税金を個人的の贅沢に使っている、という点で猪瀬氏とは全く異なる。不必要に一泊20万近い外国の豪華なホテルに泊まって、個人で贅沢三昧をするとか、果ては家族の散髪代まで都庁につけ回しをしたり、勤務時間中に公用車で別荘に帰ってしまう。職務専念義務違反である。

 全てが私的な楽しみの経費を、都民の税金で払わせている。猪瀬氏のケースに比べ、下品でせこいこと極まりないのである。週刊文春には、就任の都幹部への挨拶で、西郷隆盛の遺訓を紹介して「万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勤め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し」と訓示したそうである。

 いまこれを思い出して赤面しなければまともではない。民主主義は衆愚政治に陥りやすいといわれる。舛添氏自身が愚鈍な衆愚の最右翼なのである。上に立つ者は「職事に勤労して人民の標準となり」、と知事は訓示した。

それならば、知事の訓示に従い、人民すなわち平の東京都職員は、週末の三時から別荘ならぬ、自宅に官用車で帰って、ゆっくり風呂に入って疲れを癒すのがよかろう。そんな立派な風呂がなければ、知事の別荘に行ってくつろがさせてもらう権利があると、知事自身が言っているのである。恥を知れ、という一言しかない。


田中角栄は天才か

2016-04-04 16:01:58 | 政治

 平成27年4月1日の夜のバラエティー番組で、石原慎太郎の近著「天才」をネタに田中角栄論を放送していた。もちろん石原慎太郎本人もメインゲストとして出演した。田中角栄の金権政治批判をして、晴嵐会を作り田中に永年造反してきた石原が、このごろ田中の偉大さを実感してきた、と言うのである。

 田中が議員立法を多数行い、そのため六法全書を全部記憶したという、努力と頭脳の優秀さや、人間としての魅力を紹介するエピソードには欠かない。高速道路網や新幹線整備への貢献や、リニア新幹線まで予測する、といった先見性も驚異的である。田中は批判されるような、単なる地元利益誘導型だけの政治家ではない

 確かに国を富ますのは政治家の本領である。だが国政は経済ばかりではない。倉山満氏は、戦争に勝つのは国家の責務であり、勝つには経済が必要だと述べている。国防が経済に優先する、というわけでもない。だが、国防すなわち、外交も経済とともに国政の本領である。この番組でも田中の外交上の功績として日中国交回復を取り上げたが、意外に短かった。

 日中国交回復により、日本から大量のODAを得て、現在の経済大国中共がある。その経済力は、結局軍事に投資され、東アジア諸国と領土領海問題で激しい軋轢を起こしている。確かに軍事は経済に支えられ、それが外交力になる。中共は倉山氏の言を証明しつつある。番組が日中国交回復の功績をわずかしか取り上げなかったのは、石原なら、その害を批判するからであろう。そもそも石原が深くかかわってきた晴嵐会は、日中国交回復に伴う、台湾との断交に絶対反対の立場をとってきた。だから、石原が出演して居たにも拘わらず、台湾問題に触れなかったのは奇異な感じさえした。

 田中は経済で成功しながら日中外交で失敗したといえよう。その影響が今日の日本に与えているものは計り知れない。北朝鮮問題も煎じ詰めれば、対中問題である。多くの西欧諸国も対中外交で失敗しているから、対中不見識は、田中だけではない、という言い方もあろう。何とイギリスが中国製原発を導入することになったのだ。AIIBという詐欺まがいの金融機関に欧州諸国は加担しようと言うのだ。

 アメリカは戦前、莫大な資金を支那大陸に注ぎ込み、何の利益も得なかったのに、また対中投資に熱中している。だが西欧と日本と異なるのは、地政学的問題である。欧米は支那と遠く離れ、少々のトラブルがあろうと、直接の被害は少ない。日本は西欧と異なり、永遠の隣国である。だから維新開国直後から支那には悩まされ続けている。松井将軍のように、日支提携して西欧と対峙し、アジアの安定を図ろうとした。

松井は誠実であった。松井の誠実に支那は謀略で答え、「南京大虐殺」の濡れ衣をきせて、謀殺した。支那は松井や田中の思うような支那ではないのである。そのことは、隣国として維新以来、現在まで骨身にしみているはずである。戦前は軍人ばかりでなく民間人まで多数虐殺され、現在でも対中投資した企業の財力がむしりとられている。

田中が政治の天才ならば、経済ばかりではなく、外交も分からなければならない。ことに中共、ひいては支那の本質も知って居なければならない。その点で田中程の頭脳が経済にしか生かされていなかった、というのは残念な話である。田中がロッキード事件で失脚したのは、米国の逆鱗に触れたため、と言われている。

本当だとすれば、外交より経済を優先したからである、ということではなかろうか。だがこのことは、一人田中の欠陥ではない。戦後の外交は戦前より劣化している。日本人の頭脳は同じであるとしても、戦後は外交を軍事なしに行う、というハンデを背負っているからである。だが、その責任は敗戦から70年以上たった今、我々日本人自身にある。

 


改憲反対論のバカバカしさ

2016-01-23 14:11:34 | 政治

 安倍政権になってから、改憲論議がちらほら出ている。以前も書いたことだが、再掲する。漱石の吾輩は猫である、にこんな挿話がある。

儲け話を教えてやる、というのだ。人に六百円貸したとする。返すのは月五円づつでいい。すると一年に六十円返すから10年で完済になる。ところが、毎月返し続けた結果、返すことが習慣になって、10年過ぎても返さないと不安になって返し続ける。

バカバカしい話である。だが日本の現実は、この話を笑えない。米国人がわずか1週間で書き上げた「日本国憲法」のドラフトを翻訳して、国会審議して帝国憲法の改定を強制させられた。当時の国会議員は真相を知っているから、ほとんど全員がいつか自前の憲法を作ってやると思っていた。

共産党はその最先鋒で、国防ができない憲法などだめだ、と言っていた。そもそも、共産主義は私有財産権など否定しているから、政権をとったら全面改憲する、というのは理の当然である。ところが時が経つと事態は逆転した。ほとんどの政党が改憲反対となった。

共産党の中枢幹部は、本心は政権を取ったら共産主義憲法に変えようと言うのであろうが、末端の支持者は改憲絶対反対である。党の綱領に自主憲法制定をうたっている自民党ですら、多くの改憲反対議員がいる。

その根本原因は、米国による徹底した検閲と洗脳であるにしても、時間の経過そのものにも原因がある。現に改憲反対論者ですら、現在では日本国憲法が米国から押しつけられたことを知るようになった。国の基本法規を他国から押しつけられたことを、恥とも思わなくなってしまったのである。

何年か前、霞が関界隈でデモに遭遇した。政府の政策に反対する労働組合である。当然考え方は改憲反対である。マイクでがなる声を聞くと、外国から押しつけられた法律は、たとえ内容が良くても、だめだ、と叫んでいる。唖然とした。同じ頭で日本国憲法は押しつけられたものでも内容が良いから変えるべきではない、と考えているのである。時の経過は恐ろしいものである。