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毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

映画評・太陽

2014-09-23 12:27:58 | 映画

 ロシア人の作った天皇の物語だと言うので、期待というより興味を持って見ました。一言で言えば昭和天皇のパロディー、すなわち戯画です。しかしパロディーであることは日本人の反発をかうと考えたとみえて、ぎりぎりのところで巧妙に隠されています。その代表は昭和天皇が意味なく口をもごもごさせる癖を頻繁に写すことです。

  実際にはこの癖は明らかに老人性のもので、終戦時四十歳前後であった昭和天皇が、あんなに不自然な癖があるはずはないのです。ところが一見して納得してしまうのは、ビデオ映像などが多く残されているのは、皇族が国民の前に露出する機会が増えたかなり最近のことだから、当然昭和天皇は高齢になって老人性の癖の印象が残っているというわけである。だから昔はあの癖はなかったと一般国民には断言できないから、インチキだと抗議もできないという仕組みである。

パロディーだと言う証拠を列挙してみよう。マッカーサー元帥はパイプをくわえた写真でも分かるように、見てくれを気にするハンサムな男である。ところがマッカーサー役の男優は、ハンサムと言えないこともないが、極端におでこの広い奇妙な風采の男である。

御前会議とおぼしき会議で、陸軍大臣と思われる男が、ドイツ軍用犬による自爆作戦を行って戦局回復するなどと発言する。ドイツと提携していたのは事実であるが、そのようなことは計画されたことすらない。当時最後の作戦として行われたのは特攻隊だから、特攻隊の作戦を犬にもじったのであろう。

 つまり特攻隊員の死を「犬死に」であると言ったのである。この解釈は考え過ぎではない。ソ連時代言論弾圧に苦しんだロシア人は、本音をアネクドートという小話に託して、本音を口述で流布した。こんなのを覚えている。当時の最高指導者、ブレジネフ書記長夫妻の会話。国民が外国に移住して、人口減に悩まされている書記長「このままでは俺達二人しか残らなくなってしまう」。夫人の返事「それは間違いよ、一人しか残らないもの」。というわけである。

マッカーサーに会ったとき、天皇が「自分はどうなってもかまわないから国民を助けてくれ」と言ったのは実話として流布されている。これを正確に言わずに、翻訳でかろうじて慈悲はこわないなどと訳させている。

このエピソードは重要なことだから、不正確に再現するのはおかしいのである。そして全くエピソードを紹介しないわけではないという巧妙な表現となっている。戦争中はヒトラーに似せたヘアスタイルをさせ、戦後はこれを直す。また天皇はチャップリンに似ている、などと言わせるのと合わせると底には天皇に対する悪意がある。ひげがあるのでチャップリンに似ていると言えないことも無い。

 しかし当時チャップリンが有名だったのはヒトラーのパロディーをやってナチス批判をしていたからである。つまり言外に天皇は日本のヒトラーつまり悪人だと言いたいのである。ナポレオンなどのいくつかのフィギュアを持っているが、そのうちナポレオンのものを戦後は隠し、ワシントンのものに変えている。これは好戦的なイメージからアメリカに迎合するように変更したという意味ばかりではない。

昭和47年前後に発表された「天皇の陰謀」というアメリカ人デビッド・バーガミニの昭和天皇糾弾の小説の中の、昭和天皇が戦争中はナポレオン(だったと思う)の肖像画を自室に飾っていた天皇が、敗戦になるとワシントンだかリンカーンに変更して米国に迎合したという信憑性の無いエピソードのパクリであろう。

 天皇とマッカーサーが並んで写真を撮って新聞に載せたと言うのは、米国が天皇を貶めようとしたという意味で有名なエピソードであるが、これを単に写真撮影の予定をしていたのに天皇が偶然カメラマンたちの前に現れて写真をとられたというように戯画化されている。そして新聞に載ったということは少しも紹介されない。つまりノンフィクションに見せたフィクションなのである。

 昭和天皇がマッカーサーにもらったチョコレートを侍従に配るが、食べている途中に「チョコレートおしまい」と天皇が手を打つところは、お笑いとしてのイッセー尾形の地でやらせている。これなどは天皇を喜劇役者に仕立てたのである。また侍従を天皇が「ご老人」と呼びかけるのも同様である。しかも軽蔑調で言わせている。ご老人と呼ぶはずがないのである。イッセー尾形氏は、天皇陛下を愚かに見せる演技をしていて恥ずかしくないのだろうか。

 これらの例を見れば分かるように、事実を決して正確に再現しようとせず、しかも全く無い話は少ないと言うように、パロディーにしてしまいながら、巧妙にそれを隠蔽すると言う手法がとられている。ロシア革命でニコライ皇帝を一家もろとも惨殺して、尊敬すべき伝統を失ったロシア人の精神の、荒涼と高貴な精神の欠如を想起させる。そして俳優は日本人でありながら、うかうかとそれに乗ってしまう俳優の貧しさ、誇りのなさを感じたのは貴重である。多くの日本人俳優は、日本を貶める意図があっても外国映画に出ることを名誉に感じる風潮があるように思われる。国際俳優と言う訳である。

 戦前なら、不敬罪で逮捕される、と言ったら、とんでもないことを言うと言われかねない。映画の製作者は、そうした日本人の感情を逆手にとって日本人に文句を言わせないように仕掛けたのである。もし、天皇陛下以外の人がこのようにパロディーにされたら、名誉棄損で訴えることができる。戦前は不敬罪というのがあった、という事実が逆に作用して、名誉棄損で訴えることができないのである。


映画寸評・エイセス・大空の誓い

2014-08-24 15:44:10 | 映画

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 古い映画である。日本人への偏見に満ちた映画であることを、出演した千葉真一氏は気付いていたのだろうか。あらすじはこうである。日米英独の第二次大戦のエースパイロット四人が、アメリカ各地の航空ショウで演技を見せている。ある時そのうちの一人の知り合いが事件に巻き込まれて殺される。その結果最終的には、四人が悪人の操縦する飛行機と戦うことになる。

 戦う前夜、千葉扮する日本人はエースパイロットなどではないと三人に告白する。翌日の空中戦で日本人は仲間を助けるために、体当たり攻撃をして死亡するが、悪人たちはやっつけられる、という、ごく大雑把に言えばこんなものであろう。

 ここで日本人に対する西洋人の典型的な偏見が見られる、人を騙す卑劣なやつ、自殺攻撃も厭わない、ということである。人を騙す、というのは真珠湾の騙し打ちであり、自殺攻撃とは特攻隊である。もちろん映画では仲間が自殺攻撃をした日本人に敬意を払っている。だとしても嘘つきの汚名は消えないのである。

 タイトルはエイセス Aces つまり空中戦で5機以上撃墜したパイロットの事をいっている。千葉真一の扮した日本人はエースパイロットではないのだからタイトルのAcesには含まれていないのである。何とも意地の悪い映画ではないか。日本人パイロットが偽エースだと知った米国人観客は、日本人は真珠湾の騙し打ちをする奴らだからね、偽エースもいるさ、と語るであろう。このようにして日本人に対する偏見は地道に定着していくのである。


映画・山本五十六

2013-02-17 13:22:42 | 映画

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 平成24年に作られたものだが、よいしょ山本五十六とも言うべき映画である。半藤一利氏が監修したと言うから当然であろう。脇役に玉木宏演ずる今風の正義感あふれる新聞記者と香川照之演ずる、軍国主義迎合の御用記者風の上司が重要な脇役になっている。

 ところが小生には、御用記者の言動はまっとうに聞こえるし、当時のアメリカの新聞の論調も御用新聞、よく言えば御国に忠節であると言う点では全く同じであった。今の中共のマスコミが、政府の飼い犬であるというのは全然意味が違うのである。だから意図せずにこの映画は国策と言論のあるべき正しい姿と、それに見合っていた当時の言論を反映している。

 だが最後に、香川の記者がゲラ刷りの民主という文字を指して、これを最大限大きくしろ、と指示しているのは元軍国記者が平然と戦後の風潮に染まったことを揶揄している。この記者は信念も何もなく常に時流に迎合しているとでも言いたいのである。これは嘘である。朝日新聞は米軍に占領された後も原爆投下批判するなど、戦中と論調は変化しなかった。だから昭和20年9月にはGHQにより二日間の発効停止を受けた。これに畏怖した日本の全新聞は一斉にGHQに迎合する論調に転じた。香川の記者の転向には理由があったのである。占領中の日本には言論の自由もなく、従って民主主義もなかったのである。GHQの検閲は現在の中共政府より巧妙かつ徹底している。GHQによる過酷な検閲や発行停止という言論弾圧を描かずに、記者の転向を揶揄するのは嘘をつくのに等しい。

 ミッドウェー海戦で、山本の座乗する旗艦が空母の存在の可能性があるとの受電をしたときに、山本が南雲艦隊に打電しようか、と下問すると幕僚が南雲艦隊も受電しているはずだし、無線封止を解くと攻撃を受ける恐れがあると言われて断念する。敵空母せん滅を企図しているのならとんでもない話である。第一山本の座乗する旗艦は南雲艦隊より五百キロも離れていて、電波を探知されても攻撃される恐れはない。多くの最高指揮官のように山本が最前線で指揮をとっていたのなら、無線を使わなくても艦載機を飛ばし南雲に連絡は可能だったのである。山本が艦隊指揮にいつも後方の安全圏にいたのは、当時の通信レベルからして指揮官失格である。日本海海戦の東郷元帥が旗艦に座乗して自ら指揮をとったのとは違い、山本は、指揮する艦隊が交戦中に指揮もとらず、戦況も確認せずに、はるかかなたの戦艦の中で将棋を指していたのだから話にはならない。

 ガダルカナル攻防の後山本は、マリアナまで戦線を縮小したと言うが、そもそも大本営の方針に反してミッドウェー攻略にまで際限なく戦線を拡大したのは、真珠湾攻撃の成功で夜郎自大になった山本率いる連合艦隊である。しかも捨石だと言ってラバウル攻撃隊を残置して、撤退ではないと言い張つたとこの映画では描いている。その結果、多くのベテランパイロットを損耗すると言う愚を演じている。

 この映画では山本が反戦平和主義だったことになっているが、事実に反する。山本は、軍縮条約交渉に派遣されると、財政のひっ迫を訴える大蔵省の賀屋興宣をぶん殴ってやる鉄拳を振るうと恫喝している。対米戦を企画して艦隊予算を取ろうとしていた海軍は親ソ反米であった。だから独ソ不可侵条約が締結されると、一転して日独伊三国同盟賛成に転じた。独ソが敵対関係でなくなれば、ドイツと組むことはソ連とも組むことになる。だからその後ドイツがソ連に侵攻すると日ソ中立条約が結ばれたことは、海軍にとって対米戦の旗印を降ろさないのには都合がいい。

日本がドイツと軍事同盟を結んだまま、ドイツがソ連と戦えば、日本は対ソ戦を優先しなければならないからである。三国同盟締結の時点で山本が反対した形跡はない。海軍が三国同盟に反対したのは、ドイツとの提携による対ソ戦の可能性が高まれば対米戦備の必要性が薄れるからで、独ソ提携によりその懸念がなくなったからである。海軍は艦隊予算が欲しかったのに過ぎない。山本が航空戦備を重視したのも対米戦のためであることは、別項でも論じた。航空戦備の充実で山本は対米戦への自信を得たのである。

 山本の最期の描き方は実に奇妙なものである。P-38に襲われた陸攻で山本の隣にいた参謀は機銃弾で全身を撃たれて戦死した。一方山本五十六は硬直したように前方を凝視したまま動かない。あたかも既に死んだかのようである。ところが、山本は出血も何もない。実に奇怪な最期である。以前の定説では山本は機銃弾で機上戦死したことになっている。多くの本では頭部や体に銃弾を受けたことになっているが、明らかな嘘である。頭部に機銃弾を受けたはずの山本は墜落後端然として椅子に座っていたと言う。だがP-38の12.7mm機銃弾が頭部に当たっていたら粉々に飛び散って首なし死体になっているはずだからである。

 ところが1986年に出された「山本五十六の最期」では、検視の調書を見た医師は、山本が墜落後かなり長時間生存していたのだと判定した。その上着衣にはほとんど血痕が見られないと言うのだ。その後出版された「山本五十六自決セリ」では、山本は生きていたどころか拳銃で自決したと言うのだ。山本シンパのこの映画の脚本家は、海軍が機上戦死に偽装したように機上戦死説にしたかったのだ。二冊の本が機銃弾を受けなかったことを論証していることを無視はできなかった。従って何が原因かもわからず、あたかも空中で戦死したような奇怪な最期にしたのである。