【勝手に翻訳】LE MONDE | 06.07.2017 à 11h22
フランスの作曲家にしてミュージックコンクレートの父、ピエール・アンリが死去
『現代のためのミサ』などで知られるノイズと折衷的な音響の発明者が89歳で亡くなった。
作曲家のピエール・アンリが、7月5日(水曜日)、パリのセントジョセフ病院で89歳で死去した。2016年9月23日にストラスブールのムジカ音楽祭の週末のオープニングで『Chroniques terriennes(地球クロニクル)』を演奏する予定だったが、病気のため参加できず、コンソールの操作をティエリー・バラスに譲って以来病床に伏せていた。
ミュージック・コンクレートの父と呼ばれるピエール・アンリは、生物学的な意味で希少だった。 (神秘的意味で大文字の)日常のノイズから採取した細胞から音楽を作った最初の役割を果たしたのはピエール・シェフェール(1910-1995)だったが、もう一人の父アンリは、エレクトロアコースティックスタジオからDJブースの後ろまであらゆる世代の創造性の担い手から愛され、独創性、生産性、そして悪名の三位一体を備えた現代アーティストとして、半世紀にわたり現代芸術の空の頂点に座を占める。
鋭い目と髭を備えた80代として、彼はシスティーナ礼拝堂の天井にミケランジェロが描いた全能の神を髣髴させる。ピエール・アンリ、ミュージック・コンクレートの神は、テクノラインの仮想のアダムを指さすのではなく、ミキシング・テーブルの電位差計を操作して、パリのシテ・ド・ラ音楽院で、2012年9月29日に創造された最後の重要作『Le fil de la vie』でリスナーそれぞれを「内観の旅」へと誘った。作曲家が語る精神的総量とは:「私の作品では、マイクロフォンの前で起こるゲーム、リズムと叫び、全ての表現言語が、人生の間に私の身体と感情の状態の範囲のワイヤーのように流れ込みます」。「ワイヤー」という用語は、間違いなく運動の技巧を表すびに適切だが、バロック音楽の壮大な織物を表すには「ロープ」あるいは「ケーブル」という言葉も必要である。
パリ音楽院で音楽を学ぶ
1927年12月9日パリ生まれのピエール(ジョルジュ)・アンリの父親ジョージ(ピエール)・アンリは医師で、母親は薬剤師だった。彼の賢い両親は、彼が揺り篭にいるときから薬漬けにしたのだろうか?虚弱な子供は、特にハーブの自然な治療法を好む大人に成長した。彼の人生は、ワイヤーのようなものではないが、いくつかの特別な準備が必要だった。例えばセーヌ・エ・マルヌの小さな町にある自宅に家庭教師を呼ぶことなど。
公立学校での一般的な教育を受ける代わりに、アンリ家の唯一の息子はパリ音楽院で音楽を学んだ。彼は10歳になる前に音楽理論のクラスに編入が認められ、18か月後には初のメダルを獲得した。音楽学習を続行し1939年にピアノで最初の学位を取得したが、1940年に戦争で音楽院との繋がりが切れた。戦争と占領の期間中、鍵盤楽器を学ぶことができなかった。ピエール・アンリは1年間の休暇を認められたが、占領から解放されるまでマドリード通りには戻らなかった。1945年1月23日に音楽院への再入学を認められ、ピアノと和声を学ぶためにオリヴィエ・メシアンのクラスに師事したが、同じ日に入学したのが他でもないピエール・ブーレーズだった。
しかし「基本」と「与えられた曲」は、作曲初心者の気持ちを鼓舞しない。1947年に彼はフェリ・パセロンの師事のもとでパーカッション奏者になり、翌年、第二位賞を獲得した。しかし、1949年に、5月の試験を欠席したために最高賞を競うことができなかった。卒業と共にラジオ局で研修コースを始めた。ピエール・シェフェールが、ジョン・ケージ「プリペアード(準備)」ピアノにヒントを受けた「コンクレート(具体)」音の制作のオーディションを行い、1949年10月に正式に採用された。
「大衆のように神聖な」リスニング
ピエール・アンリは既に2曲の実験作品を作曲していた。ひとつめの『Le petit ballet mécanique/機械的なバレエ小品』はフェルナン・レジェの映画を元にしており、もう一つの『Voir l'invisible/不可視参照)』はテレビドキュメンタリーのための作品だったが、1950年にピエール・シェフェールと共作でミュージック・コンクレートの第1号作品『Symphonie pour un homme seul/ひとりの男のための交響曲』を制作、この曲は1955年にモーリス・ベジャールがバレエに採用し世界的な成功を収める。シェフェールが1948年に列車の音等から制作した『Etudes de bruits/騒音の習作』とは異なり、革命的な「ワイアレス」の送信機材を準備して挑んだ二人のピエールの共作は、サンプル音響の単純なループではなく、複雑で象徴的な完成した作品だった。1年後に制作された『Orphée 51/51のオルフェウス』はそれ以上だった。この女声と磁気テープによる「コンクレート・オペラ」は、第2作『Bidule en Ut』を含むシェフェール/アンリ三部作の最終作である。
Pierre HENRY -- Schisme
1953年、ピアニスト・パーカッショニスト(音響スタジオの創設活動)であるアンリは、電気通信技術のポリテクニックの専門家(音楽アプローチの思索家)であるシェフェールと袂を分かつ。『Orphée 53』は、『Orpheus 51』の現代で言う”リミックス”で、ピエール・アンリのソロとしての最初の大規模な作品であるばかりか、1953年10月10日ドナウッシンゲンで嵐の中で制作され、アンリの最初のスキャンダルとして名を知らしめた。1年後、シャンゼリゼ劇場で更なる事件が起きた。1954年12月2日エドガー・ヴァーレーズの新作『Déserts(砂漠)』を具体的に補完して解釈するのが彼の仕事だった。モーツァルトとチャイコフスキーを聴きにきた聴衆は暴動寸前の騒ぎになったが、コンソールに座った音楽家はサウンドを続けた。彼にとって聴くことは、受け入れられず破壊する「大衆のように神聖な」リスニングであった。
1950年にカイエ・デュ・音楽院で発行されたマニフェスト『Myth of Modernity/現代の神話』を破壊したがった誰もが、神聖なノイズによるアンリのミサ曲に熱狂し、それは1960年代後半に最高潮に達した。1967年の『Messe pour un temps présent/現代のためのミサ』(ミシェル・コロンビエとの共作による4曲の「エレクトリック・ジャーク」、世界初の「クロスオーヴァー」ヒットの象徴的な「サイケ・ロック」を含む)、続く『Messe de Liverpool/ リバプール・ミサ』(1967-70)。禁欲的な傾向の『Apocalypse de Jean/ヨハネの黙示録』(1968)は、モーリス・フルーレ主催の26時間に亘る連続音楽イベントの一環として制作した「電子オラトリオ」だった。
Pierre HENRY _ Psyché Rock
「ホームスタジオ」の男
注目すべきはフィリップス/ユニバーサル、マントラ、INA/ GRMからリリースされるレコード作品群で、ピエール・アンリの豊富なカタログは愛好家の興味をそそった。アンリは有名な『Variations pour une porte et un soupir/ドアとため息のための変奏曲』 (1963)を含む著書『Journal de mes sons/私の音のジャーナル』を2004年に出版した。作品タイトルからもアンリの美学がよくわかる。純粋な抽象化『La Noire à soixante/60度の黒』(1961)、『Mouvement-Rythme-Etude/動き-リズム―エチュード』(1970)、『Futuristie/未来派』(1975)――壮大なフレスコ画『Paradis perdu/失われた楽園』 (1982)、『Le Livre des Morts égyptien/エジプトの死者の書』 (1988)、『Dracula/ドラキュラ』 (2002).。
サイクルとして開発された作品の中に住みながら、ピエール・アンリは機械と一緒ではない。フロッピーディスクが登場しても、長い間スタジオで必要とされていた磁気テープに忠誠を尽くした。シンセサイザーやデジタルの登場も同じ。一方で彼は「ホームスタジオ」の男であった。1960年にカルディネ通りに自分のスタジオApsomeを建て、1966サンジェルマン大通りに移転、1982年に別のスタジオSon / Réを設立した。スタジオは「制作工房、展示スペース、音の投影空間」を兼ねる。好奇心旺盛な1万人以上の人が1996年の『Interior / Exterior/屋内/屋外』のコンセプトに沿って開催される秋祭りに訪れた。
Pierre Henry : le fil de la vie - Cité de la musique
2012年1月15日、数百人の人々が事実上・・すべてそこにアクセスした。ピエール・アンリが、タスマニア州ホバートで開催されたMona Fomaフェスティバルに委嘱された作品『Paroxysmes(発作)』の制作を行い、その模様がキッチンからライブ中継された。ブライアン・リッチー(イベントの芸術監督であり、アンダーグラウンド・ロック・バンドViolent Femmesの元ベーシスト)のボートハウスに集まった若者の群集が巨大なスクリーンの前でコンサートに参加し、インターネットの魔法によって伝えられた気管支炎を患うアンリの驚異的な神格を祝福した。
PIERRE HENRY Take california (LIVEQUEST OFF)
PIERRE HENRY VS PROPELLERHEADS
Recorded at LA NOVELA
LES ABATTOIRES, TOULOUSE
on OCTOBER 23, 2011
年表
1927年12月9日 パリで生まれる
1940 全国ラジオに採用
1950 ひとりの男のための交響曲(ピエール・シェーファーと共作)
1963 ため息とドアのための変奏曲
1977 神(ヴィクトル・ユーゴーによる)
1996 屋内/屋外(ホームコンサート)
2017年7月6日 89歳で死去
遂に逝く
具体音楽
神の国
今夜は朝までコンクレートを聴き明かそう。