A Challenge To Fate

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【Japan Times翻訳】灰野敬二(65)インタビュー「最後まで悪ガキでいたい」

2017年07月27日 01時09分49秒 | 灰野敬二さんのこと


灰野敬二、65歳:最後の最後まで悪ガキでいたい。
Japan Times July 18, 2017
Written by JAMES HADFIELD
Photo by 船木和倖 Kazuyuki Funaki
Translation by 剛田武 under kind permission by James Hadfield

「”灰野さん、神様です!”なんて言われたくないから」と灰野敬二は笑う。「最後まで悪ガキでいたいから」

65歳の因襲打破主義者にして日本のアンダーグラウンド音楽シーンの象徴的存在を聴いた経験は常に記憶に残っている。川越の喫茶店で彼と会い、1981年のスタジオ・デビュー作『わたしだけ?』のアナログ・リイシューについて話したとき、会話は2時間以上続いた。

禅の師匠が少しぼんやりした生徒を忍耐強く指導するように、灰野は挑発的な言葉と思いもよらない類推を交えて、鳥や卵やコーヒー豆を例に挙げながら独特の音楽哲学を説明してくれた。

「僕は全音楽をやりたい」と彼は言う。「ロックじゃなく、ジャズじゃなく、クラシックじゃなくて、すべて。それをやろうとしたら、答え(やり方)は完全な自由しかないよ。」

灰野にとっての自由とは、容易いものではない。彼にとって正式な音楽訓練は利点ではなく障害であり、自由な即興を単なる技術として語彙に取り入れるミュージシャンを嫌う。完全に自由に演奏するという選択肢を与えられたら、ほとんどのミュージシャンはすぐに壁にぶつかる、と彼は言う。

「行き詰まるのは本当に”無”から始められないということでしょ。灰野って漢字見た事ある?これはジョークね、「ash field(灰の原野)」。つまり何もない。だから、僕は即興が出来るんだ。」

短命だったピナコテカ・レコードから発表され、後に重要なアンダーグラウンド・レーベルPSFからCDで再発された『わたしだけ?』をリリースしたとき灰野は28歳だった。悪夢の平行世界からの呼び声のように聞こえる、アルバムの荒々しく抽象的なブルースのミニアチュールは、彼の独特な音楽的言語が完全に形成されていたことを示唆している。(彼の独特のファッション・センス―ロング・ヘアー、黒い服、決して外さないサングラス―は明らかに変わっていない。)

「禅問答みたいな話だから。」彼はコーヒーのレシートの裏に卵と鳥の絵を続けて描きながら話す。「昔からよく言う、卵がありました。鳥になりました。鳥はまた卵を産みます。これが永遠に続きます。」

「僕は35年前の『わたしだけ?』の時ってこうだった」と最初の鳥を指差す。「で、今こうかもしれない」と卵を指差して、それを隣の鳥に移動する。「でも、またこうなる。で、またこうなった。言葉で言うと普遍性だね」。

現在までの数十年間に何が変わったのか尋ねると、彼は再びレシートを掴み、素早く流動的な動きで直線を描いた後、今度は丁寧に同じ動作を繰り返した。

「そのどう違うかを、こう、気づけるかどうか」と語る。「これは意識しないでピッと書いちゃった。でも、次は書く時意識した。昔も灰野敬二だったのが、灰野敬二は、灰野敬二を分かってやっている、今は。その違い。」

『わたしだけ?』は、ソロ、バンド、DJミックス、フリージャズのサックス奏者ペーター・ブロッツマンからエレクトロニカ・デュオPan Sonicまで幅広いミュージシャンとのコラボレーションを含む200近い彼のディスコグラフィーの幕開けの一斉射撃だった。何度も変貌してきた最も長期にわたるグループ、不失者は、地球上の他のどんなバンドよりも、ロック・トリオの言語を拡大してきた。

彼の音楽は完全に即興的ではあるが、彼は「即興」ではなく「なぞらない」(繰り返さない)という言葉を好んで使う。それは、離脱を約束した既存のジャンルと同じくらい予測可能で因習的だと彼が言うフリー・ミュージック・シーンから自らを切り離すやり方である。
「勉強してきた人たちが”なんでも出来ます”」彼は言いながら箱一杯のコーヒー豆をスケッチする。

「なんでも出来ます、即興も出来ます」と真似して「この人たちが、これーー完全に自由な演奏ーーは出来るわけないじゃん。なんでも出来る人たちはブレンドだから。この中にエティオピアのコーヒーもあるし、ブラジルもあるし、色々あるじゃない?モカもあるし。」

会話の後半にテーマに戻ったとき、彼はより音楽的な言葉を使って話した。「例えば、ボサノヴァが入ってて、ここに中世の音楽が入ってるとか、このミックスしたのを聴いても面白くもなんにもない。聴いて分かるから。でも、全く知らない、それは大変だけど、ブレンドじゃないピュアな一個、自分の知らないものが聴こえたら... あれは”わーーー!”って本当に新鮮じゃない?今でもやっぱり、これを探してるから、世界中で。」

それを見つけることは多いのだろうか?

「CD200枚に1枚ぐらいある」と笑う。「確率はすごい低い。でもやっぱり、嬉しい。僕の中で仲間だから。」

『わたしだけ?』を録音したとき、灰野は既に日本の音楽シーンの最もワイルドな分野で有名な人物だった。1970年代初期にはロスト・アラーフというグループのヴォーカリストとして忘れられない印象を与え、東京の吉祥寺地区の「マイナー」のレギュラー出演者だった。マイナーではソロや最初期の不失者で演奏した。

1980年にマイナーが閉店したとき、オーナーの佐藤隆史が、自分の立ち上げたレーベル、ピナコテカ・レコードで、灰野にアルバム制作のオファーをした。ヒットになると確信していたようだ。

リスナーがレコードのAB面全部攻撃的な音の持続だろうと予想していることを感知し、灰野は異なるアプローチを選択した。 ブラインド・レモン・ジェファーソンのような初期のブルースの先駆者たちからインスピレーションを得て、彼は声とギターで長い即興演奏を録音し、その後それらを切り身にして簡潔な曲に編集した。

「分かりやすく説明するならば、”不思議なシンガーソングライター”というふうに思ってもらえばいい。」

アルバムは彼の国際免許証になった。イギリスのギタリスト、フレッド・フリスが15枚注文して、ジョン・ゾーンやクリスチャン・マークレーを含む前衛音楽の重鎮たちに渡したのだ。また、後にPSFレコードを設立し灰野と有益な関係を結ぶ生悦住英夫が、開店したばかりのレコード店モダーン・ミュージックで売るために50枚注文した、という繋がりも生まれた。

驚くことではないが、灰野はノスタルジアの感情をほとんど持っていない。しかし彼は長年廃盤だった『わたしだけ?』が、再び広く入手できるようになることを喜んでいる。1つは、LAのレーベルBlack Editionsによるアナログ・リイシューで、もともとアルバムのために計画していたが予算的に放棄された、金と銀のメタリックなアートワークをついに実現したことである。

彼はまた、リイシューは、Discogsのオリジナル盤の莫大なプレミア価格を払う余裕のないリスナーへの「贈り物」と見做している。

「僕が一番言いたい事は”廃盤になった僕のレコードを高く売るな”ということ。それは必ず書いておいて。」

不失者が
震撼させた
合衆国

Fushitsusha At the Zebulon Cafe in Los Angeles, July 22 2017

コメント (3)
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