JR多賀城駅で降り.
多賀城跡はどう行ったら良いか
JRの案内おばさんに聞いたら
キョトンとしていた
駅の売店でも
小首を傾げながら
駅をまちがったのではと?
多賀城と駅名が付いている以上
城跡はこの近くと
タクシーに乗ったら
運転手は
近いのは国府多賀城駅ですよぉ
皆さん間違えるんですよぉ
我々は感謝していますが・・・
駅を間違った私が悪かったが
多賀城跡は
地元ではあまり知らないらしい
奈良平安時代
古代東北の政治、文化、
軍事の中心地となった
律令国家要の900m四方に城柵に囲まれた
小さな平山城
中央に政務や儀式を行う政庁と
平城京にならったらしいが
高台の草原の中に
柱の礎石が
整然と並んで露出し
想像たくましくするだけ
圧巻なのは
政庁に向かう南北大路
ドーンとこの高台の政庁に
つながる一本道の下部には
碁盤の目の様な道路があって
官吏の住宅や兵士の宿舎が
あったそうで・・・
今は田んぼと県営球場や施設が
高台から見おろせ
当時のおもかげは無いが・・・
政庁に出這入りする南門を
南北大路に再建するようだが
完成すれば
一大スペクタルとなり
観光名所になること間違いない
多賀城碑は江戸時代に
土中から発見され た石碑で
大野東人による
724年の創建と刻まれ
芭蕉も
奥の細道の壺の碑で
石碑を見たことを書き残している
今、眼前に古人の心をけみす。行脚の一徳、存命の悦び、き旅の労を忘れて、
涙落つるばかり也 と
あたりに遅咲きのアヤメが一面咲いていたが
菖蒲草
足に結ばん草鞋の緒
とも仙台で詠んで
それに因んで植えたものか?
その1.2km先に
多賀城廃寺跡があり
今は公園だが
礎石だけが残っている
行ってみれば本堂、三重塔、講堂等の
伽藍配置が見られその奥に僧坊、倉、
鐘楼、経楼
こうした伽藍配置は大宰府の観世音寺と
共通していて
この地域が奈良平安時代に
タイムスリップしたようで
ロマンが尽きない
礎石を見て当時を偲ぶのは
復元された建物があるよりかえって
侘しさ、寂しさ、切なさが
伝わり想像力がわく
万葉集の編纂に携わった
大伴家持の最後の赴任先は
多賀城だった事
令和の年号も万葉集から等々
心に強く残った多賀城史跡であった
多賀城跡はどう行ったら良いか
JRの案内おばさんに聞いたら
キョトンとしていた
駅の売店でも
小首を傾げながら
駅をまちがったのではと?
多賀城と駅名が付いている以上
城跡はこの近くと
タクシーに乗ったら
運転手は
近いのは国府多賀城駅ですよぉ
皆さん間違えるんですよぉ
我々は感謝していますが・・・
駅を間違った私が悪かったが
多賀城跡は
地元ではあまり知らないらしい
奈良平安時代
古代東北の政治、文化、
軍事の中心地となった
律令国家要の900m四方に城柵に囲まれた
小さな平山城
中央に政務や儀式を行う政庁と
平城京にならったらしいが
高台の草原の中に
柱の礎石が
整然と並んで露出し
想像たくましくするだけ
圧巻なのは
政庁に向かう南北大路
ドーンとこの高台の政庁に
つながる一本道の下部には
碁盤の目の様な道路があって
官吏の住宅や兵士の宿舎が
あったそうで・・・
今は田んぼと県営球場や施設が
高台から見おろせ
当時のおもかげは無いが・・・
政庁に出這入りする南門を
南北大路に再建するようだが
完成すれば
一大スペクタルとなり
観光名所になること間違いない
多賀城碑は江戸時代に
土中から発見され た石碑で
大野東人による
724年の創建と刻まれ
芭蕉も
奥の細道の壺の碑で
石碑を見たことを書き残している
今、眼前に古人の心をけみす。行脚の一徳、存命の悦び、き旅の労を忘れて、
涙落つるばかり也 と
あたりに遅咲きのアヤメが一面咲いていたが
菖蒲草
足に結ばん草鞋の緒
とも仙台で詠んで
それに因んで植えたものか?
その1.2km先に
多賀城廃寺跡があり
今は公園だが
礎石だけが残っている
行ってみれば本堂、三重塔、講堂等の
伽藍配置が見られその奥に僧坊、倉、
鐘楼、経楼
こうした伽藍配置は大宰府の観世音寺と
共通していて
この地域が奈良平安時代に
タイムスリップしたようで
ロマンが尽きない
礎石を見て当時を偲ぶのは
復元された建物があるよりかえって
侘しさ、寂しさ、切なさが
伝わり想像力がわく
万葉集の編纂に携わった
大伴家持の最後の赴任先は
多賀城だった事
令和の年号も万葉集から等々
心に強く残った多賀城史跡であった