ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

年末

2010年12月31日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 先週土曜日、模合(大義名分のある飲み会)忘年会があった。友人のSとHと駅で待ち合わせの約束をする。その前に、従姉の孫たちへクリスマスプレゼントを届けに行かねばならない。駅での待ち合わせ時間に十分間に合うよう2時間前に家を出ることにする。
 家を出て、少し歩いてから、その肝心のプレゼントを忘れたことに気付く。家に戻る。30分に1本しかないバス、時計を見ると、乗る予定だったバスにはもう間に合わない。走れば何とか、なのであったが、潔い私はすぐに諦める。30分待つことにする。
 この30分で、忘れ物は他に無いかとよく確認してから再び家を出る。バスに乗ってから携帯電話を忘れたことに気付く。はーっと溜息する。私の脳は大丈夫か。

 飲み会の場所はモノレール旭橋駅近く。旭橋駅の手前は県庁前駅で、そこは国際通りの南端にある。駅前にはパレット久茂地があり、大きなクリスマスツリーが飾られ、国際通りで最も賑やかな場所の一つ。旭橋駅は、そこから徒歩10分くらいのところ。そこらにはホテルや飲食店がいくつもあるのだが、賑やかな場所から徒歩10分くらいの距離でしかないのに、賑やかさはもう100分の1ほどしか無い。クリスマスの匂いがしない。華やかなイルミネーションが無い。道行く人の姿も少ない。
 華やかでない年末は、私の場合、ここ10年ばかり続いている。若い頃は飲み屋で、明け方まで飲んで騒いだこともあったが、今はもう、静かな年末年始を望んでいる。
 「もういくつ寝るとお正月」なんて待ち望む気分は既に無い。生きてきた時間より死ぬまでの時間が短くなってしまって、「あー、また一つ歳を取るか」という気分である。

  今年は、クリスマス前の数日少し寒かったが、ここ十年か十数年、あるいはもっと長い間、年末の沖縄は概ね暖かい日が多かった。これも地球温暖化のせいなのであろう。私が子供の頃は、ここ南国沖縄でも年末=冬=寒いという図式はあった。家には石油ストーブがあり、コタツがあり、祖父母の部屋には火鉢があった。
 私のタンスにはセーターが4枚眠っている。7、8年前の正月、長崎を旅した時に着て以来、ずっと着ていない。最も寒い2月に、セーターを着ようと思えば着られる日もあるが、出すのが面倒なので出さない。無くてもちっとも構わない。結論として は、沖縄ではセーターは必要でない。それも、私が子供の頃はそうで無かった。

 私が初めて、親の知らない所で外泊したのは中学三年の大晦日。「友達と遊んで、そのまま初詣に行くから、帰りは朝になる。」とは伝えてあり、親の了承済み。
 初詣に行ったのは未明の3時頃、その後、眠いということで散会することになった。友人たちと別れ、私も家に帰る。ところが、というか、まあ当然なんだが、家の鍵は閉まっている。起こすのもなんだと思って、どこか寝られるところを探す。
  私の、初めての親知らずの外泊は、野宿となった。野宿は、通っている小学校に隣接している幼稚園の砂場となった。私の格好はセーターにジャンパーであったが、とても寒かった。砂場に転がっている古タイヤを集めて、それを縦に積んで、その中に潜り込んだ。それで冷たい風を防ぐことはできた。でも、空気は冷たかった。
 寒さに耐えながら目を閉じた。少し落ち着いた頃、睡眠を妨げる原因がもう一つあることに気付いた。幼稚園の砂場は、何故だかとても小便臭かった。私の初めての野宿は、寒さと小便の匂いに包まれて、一睡もできぬまま夜が明けた。
     
     
     

 記:ガジ丸 2006.12.26 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


クリスマス

2010年12月31日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 私が子供の頃、沖縄はアメリカの占領下にあった。その頃の他府県がどうだったかは知らないが、沖縄のクリスマスはアメリカ人がいっぱいいるお陰で賑やかであった。
  幼稚園の頃、私は両親、弟と共にコザ(現沖縄市、基地の街として栄えていた)に住んでいた。家の隣にアメリカ人相手のバーがあり、私はそこのお姉さんたちに可愛がられていた。母が忙しい時はそこで時間を過ごすこともたびたびあった。バーに飲みに来る、あるいは、お姉さんたちを抱きに来るアメリカ人たちの姿も記憶に残っている。
 基地の街コザのクリスマスは賑やかであった。アメリカ人の多くは陽気で、三角帽子や鼻眼鏡などで変装し、大きな声で笑っていた。酔っ払いもいた。これはクリスマスの時では無かったと思うが、白人と黒人が殴り合いのケンカをし、血を流しているのを目撃したこともある。それは別にして、まあ、クリスマスは何とも陽気で、キラキラしていて、賑やかで、楽ししいものだということを、私の脳は記憶している。

  あれから40年余りが過ぎて、今は、アメリカ人たちがバカ騒ぎする光景はあまり見られない。占領している側の立場から居候の立場に変わったので、遠慮があるのだろう。軍の規律も厳しくなっているらしい。アメリカ人がチラホラしかいない街では、派手なイルミネーションに彩られ、日本語のクリスマスソングが多く流れている。沖縄のクリスマスも概ね本土並みになったということのようだ。もちろん私は、アメリカ人たちが我が物顔に街を練り歩いていた昔が良かった、なんて言うつもりは無い。ただ、そんな時代もあったんだと、少し懐かしく思っただけである。

 クリスマスのクリス(Christ)はキリストのことだと知っていたが、マス(mas)が祝日の意であることを今回調べて、私は初めて知った。実は、クリスマスに私は興味が無いのである。大人になってからはプレゼントを貰うことも無く、クリスマスデートっていう経験もあまり無く、これからもたぶん無いであろう私は、祭りとしてのクリスマスに、今はほとんど興味が無いのである。キリスト教徒でも無いので、宗教行事としてのクリスマスにもずっと興味が無いのである。私のクリスマスはノスタルジーなのである。
     
     

 記:ガジ丸 2006.12.12 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


世界のウチナーンチュ大会

2010年12月31日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 1、世界のウチナーンチュ大会

 『世界のウチナーンチュ大会』という催し物が5年に1回沖縄で開かれている。今年はその5年に1回という年に当たり、第4回目ということである。
 ウチナーンチュではあるが訳あって他国で暮らしている人、先祖はウチナーンチュだが訳(概ね移民)あって、今は他国の籍となっている人などがあちこちの国から集まってくる。新聞の記事によると、「世界二十八カ国から約四千七百人余が参加」とのこと。
 中国には華僑がいて、「中国本土から海外に移住した中国人およびその子孫。東南アジアを中心に、全世界に散在する。牢固たる経済的勢力を形成し・・・後略」(広辞苑)とのことで、現在でも大きな力を持っているようである。世界のウチナーンチュには華僑ほどの力は無い。経済的政治的にに何か成し遂げようとかという気分はたぶん無い。ただ集まって、飲んで、食って、歌って、踊って、「楽しいねー」と思うだけの(たぶん)集まりである。経済交流なども少しはあるかもしれないが、『世界のウチナーンチュ大会』のそのほとんどは文化交流となっている。さすが、サンシン(三線)の島なのである。

 2、心はウチナーンチュ

  『2006年第4回世界のウチナーンチュ大会』は10月12日から15日までの日程で行われた。文化交流と人間交流が中心の祭りは、このHPでぜひ紹介しなければと思っていた。幸いに、義兄がアメリカ代表として参加するので、彼にくっついていって、あれこれ取材しようと考えていた。ところが、何かの間違い(何かは不明)で、10月11日から15日までを私は北海道旅行にしてしまったのであった。よって、何の取材もできないまま、大会が終わった翌日の夜、アメリカ代表として参加し、伊江島へ文化交流もしてきたという義兄から、「面白かったよ」という感想を聞いただけであった。
  その義兄、彼はヤマトゥー(大和人)のくせして、アメリカ合衆国のウチナーンチュ代表である。ほり浅く、色白く、体毛も薄い彼はどう見たってウチナーンチュには見えないのだが、「俺の故郷はここだ」とばかりに、『世界のウチナーンチュ大会』には前回も代表で来ていた。「アンタの生まれ育った静岡の立場が無いじゃないか。ちょっと可哀想じゃないか。」と私は思うのだが、義兄はゴーヤーやナーベーラーを食い、泡盛を飲み、三線(サンシン)を弾く。眉毛は薄くても、心はウチナーンチュらしい。 
 『世界のウチナーンチュ大会』をHPで紹介したかったのだが、今回の『世界のウチナーンチュ大会』で私は何も観なかったし、聴きもしなかった。次回、2011年までは待てない。何しろ生きているかどうかも危うい。というわけで、前回2001年の大会のことを、義兄についていってあれこれ見聞きしたことが記録にあるので紹介したい。
     
     
     

 3、2001年世界のウチナーンチュ大会

 11月3日土曜日の午後、「世界のウチーナーンチュ大会」の会場へ行った。ヤマトゥンチューのくせして、アメリカ合衆国のウチナーンチュ代表である義兄のAと一緒。会場は“沖縄コンベンションセンター”と、その周りにある体育館や広場などで、スコールのような雨が降ったり止んだりする中を、中年男二人はブラブラと散策した。
 沖縄民謡が聞こえてくる広場へ向かった。そこにはたくさんのテントが張られてあり、沖縄やブラジルやペルーやメキシコや、その他、数多くの国々の特産品が売られていた。中でも、南米の屋台の食い物は旨そうなものが多かったのだが、昼飯を食ったばかりだったので、食い物は後回しにして、先ずはペルーのワインを頂く。オジサン二人、まっ昼間からの一杯のワインで、ちょいと良い気分になって、さらにブラブラを続ける。
  コンベンションセンターに隣接する体育館の中へ入った。体育館の中でも沖縄および各国の物産が陳列され、販売されていた。入口から入ってすぐに、ビデオだったか本だったかよく覚えていないが、沖縄の何かを紹介している一角があって、そこに若い女が一人立っていた。一瞬だったが目が合った。美人だった。「こんにちは」と挨拶された。義兄が私の前を歩いて、さっさと先に進んで行くので、つられて私もさっさと彼女の前を通り過ぎて、挨拶を返すこともできなかったが、通り過ぎてすぐに、あっと思った。見たことのある美人だった。誰だったか、何処で会ったのか、名前は何だったか、思い出そうとしたのだが、義兄の足が速く、ついていくのに精一杯の私は、そのうちに、美人のことも、名前を思い出そうとしていたこともすっかり忘れてしまった。
 そのすぐ後、同じ体育館の出口近くにあるNTTの主催するインターネットの無料体験コーナーで、アメリカにいる、Aの息子たちへメールを送り、それからまた、食い物や飲み物の屋台がたくさんある、賑やかな広場へ戻った。

 4、私は見た!衝撃の一瞬

 広場にはアイスクリームの屋台、サンドイッチの屋台、ミートパイの屋台など食い物の屋台が多くあった。それらは眺めるだけにして、飲兵衛のオジサン二人はメキシコのビールを飲もうと、その屋台へ向かう。その途中、私は衝撃!の一瞬を見た。
 メキシコの手前にはブラジルの屋台があり、そこでは牛肉のグリルが売られていた。私たちが、そこを通り過ぎるとき、ちょうど一枚の牛肉が焼きあがり、そこの主人らしき親父が、客の目の前にある皿の上で、肉を一口大に切っていた。皿の上には、すでに3、4切れの牛肉がのっかっていた。それは確かに、スーパーマーケットの、試食コーナーの皿のようにも見えたのではあるが、義兄は、その店の前を通り過ぎる時、親父と客の間にある皿の上に、さっと手を伸ばし、牛肉の一切れをひょいとつまみあげ、自分の口の中に入れたのだ。指を舐めながら、「美味い!」とも言ったのだ。そこはしかし、スーパーマーケットの試食コーナーではなかった。義兄は気付いていないが・・・私は見た。親父が、ものすごい形相で、彼の後姿を睨み付けていたのを。肉は客の物のようであった。

 5、ビバ オキナワ ラティーナ

 スペイン語で、“ビバ”は“万歳”、“ラティーナ”は“ラテンの”といった意味。
 世界のウチナーンチュ大会のメイン会場で夕方からコンサートがあった。コンサートには4組のバンドが出て、それぞれ楽しい音楽を聴かせてくれた。
 1組目は、サルサ、マンボ、チャチャチャなどのラテンミュージック。リズミカルな明るい音楽が始まると、30余カ国から集まってきたという世界のウチナーンチュたちや、ウチナーンチュではないが沖縄に縁のあるいろいろな国の、いろいろな人種の人たちが熱狂した。若い人や、東洋系では無いと思われる人種の人たちは、立ち上がってステージの前まで行き、さらにはステージにまで上がって、踊った。
 2組目は、ペルーで活躍している日(沖縄)系人バンド、これもラテンミュージック。リズミカルな明るい音楽が始まると・・・以下、同文。
 3組目は、ブラジル在住の沖縄人パーカッショニストが組んだジャズバンド。曲は、ジャズがほとんどで、ノリノリには遠かったが、それでも、ラテンのリズムがあって、リズミカルな明るい音楽が始まると・・・以下、同文。
 4組目は、ご存知ディアマンテス(ご存じなければ、今日からでも存じてください)。前の3組が、リズミカルで明るいとはいえ、踊っている人は全体の20分の1(100人程度)くらいで、曲によっては、立っている人が1人もいないこともあった。しかし、さすがディアマンテスは違った。紹介されて、灯りがつき、ドラムが最初の音を叩こうとした瞬間には、前の席の人たちが立ち始め、曲が始まった頃には、全員が立っていた。1曲目から全開だった。手を振り、腰を振り、これは踊りにくいだろうというリズムの曲になっても、座ることはなかった。音楽を聴きに来ているのか、踊りに来ているのか、わけのわからない状態が続いて、「何だか、グローバル」と私は思ったり、「沖縄の心はラテンのリズムに通じているのかな」とも思ったりして平和を感じていたのだが、元より、静かなのが好きな私は、音楽はじっくりと聴くのが好きな私は、会場の空調が冷えすぎているせいもあり、自身が熱狂していないせいもあり、風邪をひきそうなくらい寒さを感じて、フィナーレまではまだ1時間近くあったのだが、外に出た。
 10分ほどして、義兄も出てきた。
 「寒かったねぇ」
 「上手なバンドだったねぇ」
 「ディアマンテスは、さすがに人気があるねぇ」
 「あんまり熱狂されると、音楽が聴けないねぇ」
 「でも、なんだか平和だねぇ」
 「ああやって、日本語や英語やスペイン語やポルトガル語やウチナーグチ(沖縄語)が飛び交っていると、世界の平和はここにあり、なんて思うねぇ」などと二人で話し合いながら、会場を後にしたのだった。

 6、ラテンもいいけどカデカルリンショウ

 ウチナーンチュ大会の翌日、部屋の中で、私は酒を飲みながら嘉手苅林昌(カデカルリンショウ)を聴いた。嘉手苅林昌は2年前(注、1999年)に亡くなってしまったが、私の最も好きな沖縄民謡の唄者(ウタシャー)である。彼はボソボソと声を出し、淡々と唄う。それで、確かな情が伝わる。見事なのだ。日曜日の夕刻を私は林昌に浸った。
 ふと、前日、体育館で挨拶された美人のことを思い出す。何処の誰かは思い出せない。挨拶したのに無視されたんだ、今度会ったときは知らんぷりされるだろうなあ、と残念な気分になり、ちょっと悲しい気分になり、林昌の唄が心に染み入るのであった。
     

 以上、世界のウチナーンチュ大会の話でした。

 記:ガジ丸 2006.11.3 →沖縄の生活目次


喜屋武岬

2010年12月31日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 9月の中旬、鹿児島の友人Nとヤンバル散策をした際、沖縄島の最北端である辺戸岬へも行った。辺戸岬は20年ぶりくらいであるが、それまでにも数回は行っている。辺戸岬に立った時、沖縄島の最北端である辺戸岬には数回来ているが、最南端の喜屋武岬にはまだ一度も行っていないことにふと気付く。「そうだ、喜屋武岬へ行こう」と決める。
 その2週間後、22歳の美少女(22歳で少女は無かろうが、十分オジサンの私から見れば、ということ)とのデート(もちろん恋人では無い。私はご馳走オジサンである)を兼ねて喜屋武岬へ行った。陽射しは熱いが、風の涼しい土曜日であった。

  去年、たまたま喜屋武岬の近くまで来たことがある。売店があって、その前には広い駐車場がある。観光バスだって何台も停められるような広さ。その時バスは無かったが、十数台の乗用車があった。観光客らしきグループも何人かいた。「ほほう、いちおう観光地になっているのか。」と思う。若い女性のグループの話では、すぐ近くには観光雑誌で紹介されている食堂もあるとのことであった。で、てっきり、喜屋武岬は近くにあって、ここに車を停めて歩いて行くんだろうなと私は思った。が、違っていた。
 売店の傍から南へ向かう舗装された道があり、その角に「←喜屋武岬」という案内板があった。「車でも行けるの?」と思いつつ、その道を走らせる。途中から農道となる。対向車が来ればすれ違うのが難しいような細い道、ホントに観光地かいなと思うような道。ただ、「←喜屋武岬」案内板が所々にあったので、道は間違えていない。しばらくして喜屋武岬に着く。あの駐車場からは、歩くと30分はかかりそうな距離であった。
  喜屋武岬にはトイレと東屋と「平和の塔」という建造物と「喜屋武岬灯台」があった。ここが駐車場ですとはっきりしたものは無く、何となく駐車場であろうスペースが、乗用車10台分ばかりあった。海は崖の下にあった。景観としては恩納村の有名な観光地、万座毛のようであったが、万座毛ほどの迫力は無い。10分で飽きる風景と思われたが、観光客もいた。10分で飽きる風景にオジサンと美少女は1時間ばかりいたが、その間に20人ばかりがやってきた。彼らの多くは10分で飽きたようで、ちょっと海を見たり、写真を撮ったりして、たいていの人はすぐに帰った。ここは食堂も売店も無いのだ。
 狭い農道を通って辿り着いて、このような景色で、「なーんだ」と思いはしないかと、ウチナーンチュのオジサンはちょっと心配になってしまうのであった。
     
     

 記:ガジ丸 2006.10.18 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


仲原馬場

2010年12月31日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 私の両親は二人とも若い頃に運転免許を取り、父はもう20年ほど前から運転しなくなったが、母は今でもバリバリ乗り回している。運転歴50年近くにはなるであろう。
  私が小学生の頃、我が家では一家総出、時には数人の従姉弟たちも加え、毎年夏休みにヤンバル(沖縄島中北部の通称)ドライブを恒例としていた。家には自家用車もあったが、その日には10人くらいは乗れるバンタイプの車を借りた。運転手はたいてい母であった。昔の運転免許は年月が経つと自動的に自動二輪や大型や二種免許が付加されるようになっていて、私の両親ともに大型二種まで運転可能の免許となっている。
 ヤンバルの観光名所といえば、今は海洋博公園、県民の森、多幸山の沖縄村、パイナップル園などなど、たくさんあるが、当時はそのようなものはほとんど無くて、「ヤンバルへ遊びに行く」というと、「インブビーチで海水浴」くらいなもので、他にはあまり記憶が無い。名護市許田に親戚がいて、その家の近くで川遊びしたことくらいである。なものなので、子供の頃毎年ヤンバルドライブをしたのだが、その時、どこで何をして遊んだかは、「インブビーチで海水浴」と「許田で川遊び」以外は思い出せない。

 今年の春、仕事で今帰仁村を訪れた。その時、車の中からだが、見覚えのある懐かしい風景を目にした。すぐには思い出せなかったが、後で、「あー、あそこは、あそこだ」と思い出した。仲原馬場であった。馬場だから昔はその通り馬場であった場所。昔とはおそらく戦前までのことで、現在はもう馬を走らせることは無いようである。
 我が家の恒例のヤンバルドライブ、その昼食は決まってこの馬場で取った。リュウキュウマツの木陰にゴザを敷き、母手作りの弁当を皆で食べた。子供たちは食事の後、この広い場所でボール遊びや鬼ごっこをして遊んだ、・・・たぶん・・・記憶は無いが。
     

 記:ガジ丸 2006.10.18 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行