ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

白アリ恐るべし

2010年05月28日 | 通信-社会・生活

 父が体調不良を訴えてから、私は毎日実家へ通い、入院してからは毎日病院へ通い、最期を迎えるための退院から葬儀、初七日まではまた、毎日実家へ通った。その約6週間、当然バタバタして、私の将来の生きる糧である畑仕事ができずにいた。
  先週木曜日はアパートの畑の草取り作業をし、島ラッキョウを収穫する。島ラッキョウの収穫は4月の予定だったので約一ヶ月遅れ、でもまあ、そのおかげで、今までにない丸々と太った島ラッキョウとなっていた。今回はまた、今までになく大量に植えたので、丸々と太った島ラッキョウがこれからしばらく、私の食卓に並ぶことになる。
 翌金曜日は宜野湾の畑へ行った。しばらくぶりの畑を見て、その惨状に目眩がした。一日四時間作業したとして三日は要するほどの雑草の量。畑仕事は草取りの他に、芋、ゴーヤー、パッションフルーツなどの植付けがある。どれも4月中に植え付ける予定であったものだが、まだ耕す作業さえ終わっていない。耕して、雑草の根を取り除き、堆肥を混入して、整地して、苗を植え付ける。一日四時間作業したとして十日は要する。
 畑仕事は量的に多く、しかも急ぎである。これからしばらくは畑仕事に時間を使わなければと思い、梅雨の晴れ間となった日曜日は畑仕事を予定した。ところが、予定は急遽変更となり、その日の起きている時間の多くを部屋の掃除に費やした。
          

 自産自消芋計画のための畑仕事を、本格的に始動したのは去年の10月頃だが、長靴などの畑道具の入ったコンテナを常に車に載せておくため、それまで車に載せてあった洗車道具やキャンプ道具の入ったコンテナを代わりに降ろした。
 降ろしたコンテナは部屋の畳間に置いた。私は概ね週に1回は掃除をする。その際、コンテナの下も掃除機をかけていたのだが、父の看病のため実家へ通い出してからの一ヶ月余は掃除をしなかった。その間、ジメジメした天気が続いたのも不運であった。
 父の葬儀も終わって、一段落した今月16日、「久しぶりにまともな(掃除機かけるだけじゃなくて、拭き掃除も含む)掃除をするか」となって、朝から精を出す。布団や毛布を干し、掃除機をかける。そしてその時、おぞましい事件が起きた。
 洗車道具やキャンプ道具の入ったコンテナを一ヶ月以上ぶりに置いてあった場所から移動しようと持ち上げた。「うわっ!」と叫ぶほどの光景がそこにあった。コンテナの置いたあった個所にたくさんの白アリがいたのだ。畳表が食われていた。
          

  白アリを掃除機で吸い取り、泥が付いたようになっている、一部は腐って黒ずんでいる部分の畳表を切り取り、切り取った部分に殺虫剤をたっぷり撒き、その後、部屋中の床をアルコール除菌剤を使って拭き、一件落着、・・・となったはずであった。が、
 一週間後の23日(日曜日なので掃除の日)、白アリ被害にあった畳を日干しにしようと持ち上げた。「うわっ!」と叫ぶほどの光景がそこにあった。畳の下には夥しい数の白アリがいたのだ。床板の一部が食われて、穴が開いていた。
 そこの白アリは掃除機で吸い取ったのだが、泥の付いたような白アリの通り道が他の畳の下へも続いていた。案の定、白アリは広がっていた。特に隣との壁際が酷かった。壁際に置いてあった本棚も食われていた。本棚の本も食われていた。ユクレー島物語の原画が描かれてあるスケッチブックも食われていた。「白アリ恐るべし」であった。
          
          
          
          
          
          

 記:2010.5.27 島乃ガジ丸


なまじかける望み

2010年05月21日 | 通信-政治・経済

 父が体調を崩したのは4月12日、以来、ずっと実家へ通っていた。その数日前、介護認定の調査とか何とかで市役所の担当の人と面談があり、私も立ち会った。その時、父は元気で、「これ以上元気になると要支援1も貰えなくなる」なんて三人で笑った。それから、12日に従姉が父を病院へ連れて行った際の医者の判断は「たいしたことは無い」であり、私もまた、父の様子から「すぐに良くなるだろう」と判断した。
 4月14日、「父の病状は大したこと無い」という判断から、実家へ行ったついでに映画でも観るかとなり、久しぶりに桜坂劇場へ行く。映画は昨年10月に観た結婚したくなる映画、タイトルは何だったっけ、うーーー、思い出せない。とにかく、それ以来だと思う。いや、その後、何か観たような気もするが、うーーー、思い出せない。

 観た映画は『密約』、最近、テレビのニュースで知ったが、沖縄返還において日米政府間で密約があったことが確認されたという密約。歴代内閣が「そんなの無い」とずっと否定し続けてきたという密約。その密約を暴いた新聞記者のお話。
 映画としては出来の良いものとは思えなかった。ハラハラドキドキしないし、何で?という疑問もあまりわかないし、なるほど!とガッテンすることもあまりない。なので、映画というよりは証拠ビデオのような感じ。ということで、「そんなもんだろうな」と納得はする。国家は国民に嘘をつくという証拠を判りやすく提示したビデオ。
 「国家が国民に嘘をつく」、まあ、多少のことはいいのだ。多少で無いこと(沖縄返還時の嘘など)でも、アメリカみたいに後年、公文書を公開して、あの時、実はこうであったと国民に知らせ、何故そうしたかを説明できればいいのだ。
 国民は、働いて、国に税金を払い、国はその金で、国民の生命と財産を守る。それが第一義で、そのために嘘をつかなければならなかったのであれば、それは認める。

 さて、国の使命の第一義である「国民の生命と財産を守る」ためには、戦争などしてはならないし、また、他国からの侵略も許してはならない、と私は強く思い、
  「戦争をせずに他国からの侵略を防ぐには抑止力が必要である、そのためには米軍の駐留が必要である」という論理も正しいと思う。ただ、軍事力だけが抑止力足り得るかについては、そうでもないんじゃないの?と少々疑問を持つ。
 普天間基地問題、たとえ「軍事力だけが抑止力足り得る」であったとしても、県外移設は可能だと思っていた。グアムなどが移設先として受け入れを歓迎している。普天間以外の基地が残っていて、グアムから睨みを利かせていれば十分の抑止力だと思う。
 「最低でも県外移設」と言った破賭山総理の言葉を、私は鵜呑みにしたわけではない。何だかんだと言い訳しながら結局は日米合意通り、ということになるだろうと概ねは想像していた。概ねはそう想像していたが、一縷の望みは持っていた。ウチナーンチュの多くの人は望みをなまじかけたばかりに、落胆も大きく、腹も立つのである。

 父が入院したその翌日、検査結果を医師から説明された。「末期ガンです。一ヶ月持たないでしょう。」と言われた。父の内臓の写真を見せられたが、素人目にも「酷い」状態であることが解った。「回復するかも」なんて望みは全く持てなかった。
          

 記:2010.5.21 島乃ガジ丸


立つ鳥二種

2010年05月15日 | 通信-社会・生活

 私の住むアパートの隣りの部屋には、可愛い、喩えていうとアキバ系メガネっコの若い娘が住んでいた。今年4月にアパートを引き払い田舎へ帰ったので、「住んでいた」と過去形になる。住んでいた期間は丸4年、その間、顔を合わせたのは3、4度だけ。
 去年の秋、彼女の部屋を覗いたことがある。襲おうと思ったわけでは無い、また、彼女と恋人関係になったというわけでも無い。ある日の朝、彼女の部屋のドアが開いていた。その時は通り過ぎただけだが、昼時、アパートに戻ると同じ状態であった。「もしかして倒れているかも?」と思って、大家を呼んで、一緒に中を覗いた。誰も倒れてはいなかったが、私と大家は大いに驚いた。若い可愛い娘の部屋はゴミの山であった。

  アキバ系メガネっ娘は約1週間かけて部屋の後片付け、掃除をし、4月の初めにはいなくなった。その数日後、主がいなくなった部屋を私は覗いた。あの汚い部屋がどうなっているか興味があったのだ。家財道具やゴミの類はほとんど消えていたが、でも、やはり汚かった。畳がところどころ黒ずんで腐っていた。ゴキブリの屍骸が数匹散らばっていた。押入れの床が腐って穴が開いていた。窓の網戸は大きく破れているし、台所の窓に到っては2年前からガラスが割れっ放しで「ゴキブリさんいらっしゃい」状態になっていたし、いやはや何とも、若い娘がよくもこんな所で暮らせたものだと、感心した。
 その後、大家に会ったので、「酷いですね、あの部屋」と挨拶すると、「全く、あんな酷い状態は珍しいよ。とにかく、出て行ってくれただけで大助かりだ。」とのこと。アキバ系メガネっ娘の可愛い立つ鳥は、跡を大いに濁していったようだ。
          

 私の父は依頼心の強い人である。特に、一緒に暮らしている人への要求が多い。人に何かをして貰うことが大好きみたいである。「そんなことくらい自分でやれよ!」と思うことがたびたびあり、母も私もそんな父の甘えにはうんざりしていた。母は逃げることができなかったが、私は逃げた。逃げてから私は、心安らかな生活となった。
 病床の父を見舞いに岐阜から伯母(父の姉)が来ていたので、その伯母に「父の甘えん坊は姉たちが甘やかしたからじゃないの?」と訊いた。「その通り」と伯母は答えた。4人姉弟の末っ子である父は、3人の姉達に甘やかされて育ったらしい。
 そんな父は、死期が近付いてもあれこれ要求する。あの人に会いたいこの人に会いたいというので、会わせる。そして、我が家で死にたいという要求も叶えた。

  末期ガンの父を、先週金曜日(7日)に退院させた。その時父は「後2日だから」と言った。2日間は在宅介護してくれということだ。父は後2日の覚悟があった。病院からの薬や栄養ドリンクを拒否し、摂取するのは1日ほんの少しの水だけとなった。
 ところが、予定の9日を過ぎても父の意識はしっかりしていた。10日の午後になり、父は「病院へ戻れるか?」と私に訊いた。そして、「早く死にたい」とも言い、自分の手で自分の首を絞める仕草もした。子供たちに糞尿の世話をさせている申し訳なさと、数日間も醜態を晒している惨めさで、悔しい思いをしているに違いない、と私は思った。
 父の精神は「潔く」との思いに違いない。見事な心意気だと思う。ただ、肉体が精神に反して予想外に頑張っているだけなのだ。父の精神は、跡を濁さずビシッと飛び立ったものと認めたい。往生際の悪い肉体だと、息子に思われたのは残念だが。
 父は飛び立った。13日深夜1時30分、静かに眠るように。息子が見送った。
          

 記:2010.5.14 島乃ガジ丸


怒鳴ること

2010年05月07日 | 通信-社会・生活

 賑やかな祭りに出かけるよりも、一人で音楽を聴きながら酒を飲んでいる方が好き、つまり、賑やかなことよりも静けさを私は愛している。なので、カラオケスナックなどで歌をがなりたてる人がいると、「煩い!静かにしろ!」と怒鳴りたくなる。もっとも、煩いのが嫌いならカラオケスナックなどに行かなければ良いのだ。煩いと知っていながら行く方が悪い。よって、実際に怒鳴ることはないし、そんな場所へは滅多に行かない。
 子供の頃、私は家の中でしょっちゅう怒鳴っていた。母も怒鳴っていたし、父も怒鳴っていた。私がこの世で一番嫌いだと思っている勉強を、母と父が押し付けてくるので、お互いに怒鳴り合っていたのだ。大人になってからは、父母と怒鳴り合ったことは無い。そして、ここ20年ほどは、家の中で怒鳴ったことは無い。怒鳴る相手がいないのだ。

 怒鳴る相手はいないが、テレビのニュースを観て、腹の立つことはある。火曜日、総理の「県外移設断念」ニュースには腹を立てた。でも、そんな時も怒鳴りはしない。が、その同じ日、姉からの電話にはつい怒鳴ってしまった。大声では無く、低い声で。
 「葬式の時に邪魔だから介護ベッドを明日にでも返して。」
 「重いし、トラックを手配しなければならないし、力の強い助っ人が必要だし、明日なんて無理だぜ。傍に寄せておけばいいじゃないか。」
 「あんなのがあったら、来た客が不便じゃない、何とかしてよ。」
 「寄せておけば大丈夫だろ?とにかく、運ぶのはすぐには無理。」
 「何とかならないの!あんたが持ってきたんでしょ!」
といった押し問答が数回続いて、温厚な私もついに切れて、
 「できないと言ってるだろ!」と低い声で怒鳴ったのであった。

 それから2時間ほども経って、今度は従姉から電話があった。すごく腹が立って、気持ちが収まらないから電話したとのこと。姉から従姉に「邪魔になっているからベッドを引き取るように」との電話があったらしい。介護ベッドを家に入れたのは従姉の助言があったからだが、姉はそれを知って、従姉にそのような電話をしたのだろう。
 父の具合が悪くなってから従姉は父のために大いに動いた。最初に父を病院に連れて行ったのは彼女。その後も世話を見、おむつを取り換えたりもしてくれ、「妹の家に上等の介護ベッドがあるから、それを持ってきたら。」と助言した。介護ベッドは、少なくとも父が元気になるまでは必要だし、寝たきり状態になったらずっと必要になるものだ。
  私は同僚に頼んでトラックを出して貰い、彼と二人で介護ベッドを運んだ。介護ベッドは肉体的に衰えているオジサン二人には重かった。それでも、何とか運んだ。運んでくれたお礼に、同僚を飲みに誘ったが、「いや、今日はもう疲れた。」と彼は断った。
 酒の好きな同僚が、酒を断るほどの難儀をして運んだベッドだ、「邪魔だからすぐに元の家に帰して」と言われたら、私は腹が立つ。父のことを思って助言したことが、「余計な事をして」みたいに言われたら、従姉だって大いに腹が立つ。
 葬式に来る客は父のために線香を立てに来るのだ。父のための介護ベッドがあって、それが多少歩く邪魔になったとしても、誰も文句は言うまい。姉は、誰のための葬式かを勘違いしているに違いない。それよりも何よりも、父はまだ死んでいない。
          

 記:2010.5.7 島乃ガジ丸


男の矜持

2010年05月07日 | 通信-社会・生活

 もう二十年ほども前になるか、当時漢検を受けようと勉強していた模合(正当な理由のある飲み会)仲間のK子に、「これ何と読む?意味は?」と問題を出され、誰も答えられない中、日本文学科出身の私が得意そうな顔で、「襟を正すとかいった意味だろ、キンジだろ?」と答えた。見た覚えのある字ではあったが、確信は無い、知ったかぶりだ。
 「キョウジだよ、誇りって意味だよ。」
 「ホントかぁー、キンジじゃないのか?」
 「あっさ、あんたも往生際が悪いねぇ、キョウジなの!」
 知ったかぶり屋の私は、しばしば、そんな知ったかぶりをして恥をかいている。後日、辞書で調べると、矜持はキンジとも慣用読みするらしいが、正しくはキョウジで、襟を正すという意味では無く、K子の言う通り「誇り」という意味。知ったかぶりの私は、矜持の矜を、衿(えり)と勘違いして、そのような知ったかぶりをしたのであった。

 知ったかぶりをして恥をかいて、反省したことはそれまで何度もあるが、「あんたも往生際が悪いねぇ」とK子に言われて、男の生き方として「潔さ」を信条としていた私は、深く反省して、それ以来、「知らないことは知らないと言おう」と決めた。のだが、身に付いた性格はなかなか矯正できない。以降もしばしば恥をかいている。
 ガジ丸HPを始めて5年半になる。ガジ丸HPは沖縄の植物を紹介している。5年半もやって、500種以上の植物を紹介しているが、元々記憶力が弱いので、おそらくその半分も記憶していない。でも、表向きは「沖縄の植物のことなら任せておけ」といった態度を取っている。それで、たまに、知ったかぶりの恥をかくことになる。

 「石に齧りついてでも何かを成し遂げる」という根性が私には無い。どちらかというと私は、「諦めが早い」性格だ。欲しい物が得られなくても、「そんなに欲しい物では無かったんだ」と逃避して、諦める。なるべく無理をしない。
 「諦めが早い」と「頑張る」は遠く離れているが、「諦めが早い」と「潔い」は似ている。ということで、私は私の矜持として、「潔い」を目指している。間違いを認めるという潔さもその中に含まれる。私の矜持が確立するのはまだ先になりそうだが。

  父の体力は入院してからも衰弱を続け、5日目(23日)からは固形物を摂れなくなった。咀嚼するのが面倒になったみたいだ。お粥でさえ食べない。で、その日以来、病院の勧める栄養ドリンクを飲んでいる。栄養ドリンクは、これ1缶で1食分のタンパク質、炭水化物、脂質、ビタミン、ミネラルなどの栄養が含まれているとのこと。
 父は、栄養ドリンクのお陰か、体は衰弱しているが、頭はしっかりしている。口の周りの筋肉も衰えているので、発音に少々の難があるが、普通の音量で発生し、昔の事を話してくれたり、葬式や財産のことなどをきちっと語ってくれる。
 24日には、従姉の夫を立会人に指定して、遺言を言い残した。「葬式は質素に、新聞に広告は出さないで、家族とごく近い親戚だけで行うようにしなさい。財産は家土地を含め姉弟三人で三等分しなさい。」などといったこと。自分が死んだ後ゴタゴタしないようにとの残された者への配慮だ。「立つ鳥跡を濁さず」が父の矜持のようである。
          

 記:2010.5.7 島乃ガジ丸