ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

薬草生活の経過その2

2019年05月17日 | 通信-社会・生活

 『薬草生活の経過その1』を書いたのは去年(2018年)8月のこと、その後も何らかの形で薬草の類は摂取していたが、今年2月頃からはほとんど怠けていた。1月に薬草研究家のHさんに頼まれていた薬草表を表ではなく冊子に仕上げて差し上げて、「これで薬草は終わり」と思ったわけではない。野山の薬草探しは続けており、本も読んでいた。ただ、摂取するのを怠けていただけ。『薬草生活の経過その1』の最後に「1週間に1種を数回摂るということを続け、5~6種類を5~6週間かけて調べてみる予定」と書いたのだが、それもやっていない。薬草の勉強、怠け者の私にはなかなか難しい。

 4月5日、二十四節気の清明に入る。その時からずっと懸案事項であったシーミー(清明祭:沖縄では重要な風習である墓参り)を5月9日にやっと終えた。その日1日で終わったのではなく前日に下見をして、軽く掃除していた。天気予報があまり良くなくて、もしも雨が降ったらお供えものが濡れたりして面倒になる、と思って2日に分けた。
 下見して軽く掃除した日のこと、我が家の墓の隣の隣の無縁墓を住いとし、隣の墓を居間とし、我が家の墓を物置場として使っているいつもの自由人がいつものように話しかけてきた。去年はUFOの話で興味のない私には煩かったが、今年は、
 「ずいぶん遅かったね、今年は来ないのかと思ったよ。」
 「うん、腰の調子が悪くてね、天気も良くない日が多かったし。」
 「腰か、病院へは行った?痛み止め飲んだり、湿布薬とか使ってる?」
 「病院行かない、薬飲まない、湿布薬貼らない主義なんだ。」
 「病院は行った方がいいと思うけど、薬はなぁ、要らないよなぁ。」
 「そう、そっちもそう思うんだ。」
 「薬は一時凌ぎだからなぁ、治っているんじゃなくて、痛みを忘れているだけさぁ。」
 などという話になった。そうだよな、嫌なことを忘れるために酒飲んで酔っ払うみたいなもんだよな、と思いつつ、最近自作の塗り薬を使っていることを思い出し、
 「最近そういえば、自作の塗り薬を使っている、セッコツソウって薬草があって。」
 「薬草か、自分で作ってるんだ、それは自然のものだからいいんじゃないの。」
 さすが自由人、野生のように生きているから自然のものに理解があるんだ。と感心しつつ、会話も続けながら墓掃除を終えて、「じゃあ明日また」と言って別れる。
     

 自由人に語ったセッコツソウ、塗り薬として痛みのきつい首回り、腰回りに軽く塗っている。セッコツソウは干してお茶にしても飲んでいた。1回目の収穫で湯飲み10杯ほど飲んで、そこで品切れとなって2週間ほど間をおいて、今週日曜日から再開している。塗っているのが効いているのか飲んでいるのが効いているのか不明だが、首の痛みはだいぶ軽減している。腰痛に対する効果はまだ現れていないが、実験する価値はありそう。
 過日、薬草研究家のHさんが薬草普及の組織を立ち上げ、その1員に私も含まれてしまった。で、その日以降ほぼ毎日、薬草探しをしたり、図書館へ行って薬草の勉強をしている。薬草の中には毒性のあるものがあり、副作用もあり生半可な知識では他人に教えられるものではないと思っての事。実体験も必要と思い、今はセッコツソウの人体実験中。週に1種ではなく月に1種とのんびり実験、のんびりなら怠け者の私でもできるはず。
     

 記:2019.5.17 島乃ガジ丸

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行 


平和を強く願った人

2019年04月03日 | 通信-社会・生活

 父の姉弟で唯一残っていたT伯母が亡くなった。新元号が発表される1週間前だった。伯母は昭和元年生まれ、昭和と平成のほぼ全部を生き抜いたことになる。合掌。
 4月になる前からラジオのニュースは「新しい元号がどーのこーの」と語っていた。なので、世情に疎い私も「元号が代わる」ということはだいぶ前から知っていた。「元号は不要、西暦の方が便利でよい」という意見もあるようだが、元号はあった方が良いと私は思っている。元号は日本の文化の象徴であるとまで思っている。文化は大事。
 私はしかし、自分の人生の中で、何か公共の書類などで自身の生年月日を記入する以外にあまり元号を使わない。昭和の何年が西暦の何年、平成の何年は西暦の何年などという計算が面倒臭いからという理由。例えば、A嬢の生年月日は1979年4月なので、そうか、彼女ももうすぐ40才か、などと西暦は計算がしやすい。今は平成30年で、1979年は昭和何年だから平成にすると、などと元号は計算がややこしくなる。

 昭和についていえば覚えていることがいくつかある。父、母の生まれた年、自分の生まれた年、高校を卒業した年などは昭和で覚えている。平成になってからは「平成何年に何があった」という記憶は1つも無い。調べると、平成が始まったのが1989年、前年に祖母が亡くなり、私はそれまで勤めていた仕事を辞め、アメリカへ行って、そこで仕事に就こうかと思ったこともあり、私にとっても昭和から平成に変わった頃は人生の岐路であった。しかし、東日本大震災も父母の亡くなった年も西暦でしか記憶していない。平成で最も印象に深いのは、「あっという間の30年であった」ということになる。
     

 さて、4月1日のお昼前、ラジオのニュースで「新しい元号は令和である」ということを聞いた。そうですか、令和となりましたかというだけで私としては特に感想は無い。ただ、ラジオでは「命令の令」と漢字を紹介していたが、それには少し抵抗を感じた。「何だよー命令の令って、令嬢の令でいいじゃないか、その方が聞こえがいいじゃないか」と思ったくらい。いずれにせよ、新しい元号も私はきっとあまり使わないと思う。
 元号については、あった方が良いと思っているが、さほど関心はない。元号よりも今上(平成)天皇の退位に私は大いに関心がある。先日(2月だったか)の天皇陛下御在位30年の記念式典で、「沖縄出身で歌手の三浦大知さんは、陛下が作詞され、皇后さまが作曲された楽曲『歌声の響』を熱唱した」というニュースを聞いた。その時私は、そのニュースを聞いただけで涙が出そうになった。私の涙腺が緩んでいるせいもあるが。

 第二次世界大戦が終了した1945年8月以降、沖縄はいろいろ辛いこともあったが、日本全体としては概ね平和な時代を過ごしてきた、と思う。それは、敗戦国という大きな反省から二度と過ちは犯さないという強い決意を持ったことによるところが大きいと思われる。少なくとも、悲惨な目にあった庶民は「二度と・・・」と思っただろう。
 終戦から73年余、日本は概ね平和であり続けた。日本をそう舵取りしてきた政治、優秀な官僚たち、日本国民全体のそう願う気分がそうさせてきたと思う。そして、事あるごとに沖縄、長崎、広島に想いを寄せる今上天皇及び皇后は日本の平和に最も貢献した人なんだなぁと思った。楽曲『歌声の響』は琉歌形式の歌であった。ニフェーデービル。
     

 記:2019.4.3 島乃ガジ丸


電話は必要、ですが

2018年11月30日 | 通信-社会・生活

 過日、従姉H子から「パソコンで解らないことがある、教えて」と電話があり、教えに行った。そこには既に彼女の友人M子もいて、2人でパソコンをあれこれいじっているが目的の事ができないらしい。Hは数年前からパソコンを始めたばかりで、まだ初心者のレベル、MもHよりはずっと増しだが、そう慣れているわけでは無いようだ。そんな2人がパソコンを使って何やら新しいことを始めようとしているらしい。
 2人とも私より少し年上のおば様、その年齢で新しいことに挑戦するというのはあっぱれなこと。そんなあっぱれなおば様たちが教えて欲しいという内容は、

 自分たちの作品をネットで販売したい、既存のネット上の店には登録を終えている。友人から作品の写真が添付されたメールがあり、それを出品しようとしている。
 作品を出品するのはパソコンからとなるが、作品の写真はスマホにあって、パソコンには無い。スマホにある写真をパソコンに送るにはどうしたらいいか?

 などというごく初歩的な質問。スマホに来たメールをパソコンのメールアドレスに転送すれば良いだけのこと。ところが彼女たちは、転送の仕方が判らないのだと言う。
 「あんた、やってよ」とHが私にスマホを渡そうとしたのだが、私はスマホを使ったことがなく、さらに、その時老眼鏡を持っていなかったのでスマホの小さい文字を読むのが面倒、ということでそれは拒否する。ただ、MはHより理解力があり、「あー、解った」と、Hのスマホを操作して、しばらくしてパソコンに転送メールが届いた。
 その後は私の仕事。届いたメールに添付された写真をパソコンに保存し、その写真を加工(大きさ、明るさなど)し、Hが既に開いて準備していたネット上の店の出品サイトページに添付する。その後は彼女たちの仕事、作品の販売価格やら作品の紹介コメントやらを書いて送信するだけ。結果を見ずに私は帰ったが、きっと上手くできただろう。
     
 彼女たちと何だかんだやっていたのは30分ほどであったが、その時、彼女たちがスマホの扱いに「解らない!できない!」と愚痴るのを聞いて私が思ったことは、「スマホってパソコンを覚えるのと同じくらい面倒なんだ」であった。
 「パソコンがあるならスマホは要らないんじゃないの?」と言うと、
 「スマホは便利なのよ、ラインは只だし、得でもあるのよ。」
 「連絡は電話とかショートメールでいいじゃないか?」
 「ショートメールでも1回3円かかるのよ」などという会話になってしまった。
 スマホが便利かどうかは皆がそう言うのでそうなのかもしれない。しかし、私は四六時中ネットのようなものをやっていたくない。ネットは家に帰ってからで十分。携帯電話は電話とメールができればいい。散歩中にネットをしようなどとは思わない。
 しかし、ネットは不要だが電話は必要。命に関わるいざという時の「ヘルプミー」に必要。今すぐネットから得なければならない生きるに必要な情報って何だろうと考えても思い付かない。「今日飲み会がある」、「入院した」などは電話で済む。
 今年春、スマホへ機種変更しようと思ったが、2年縛りなるものがあることを知り思い留まっていた。今は「俺にスマホは不要」と思う。ガラケーが滅びないことを祈る。
     
 記:2018.11.30 島乃ガジ丸


時代という郷

2018年11月23日 | 通信-社会・生活

 私が若い頃、沖縄のバスは30分以上待っても来ないことがよくあった。それは全く普通のことで、バスが時刻表通りに来ないからと言って怒る人はほとんどいなかった。いわゆる沖縄タイムという奴だ。例えば、夜7時から飲み会があったとする。7時に来る奴は稀、1時間遅れも普通にあった。飲み会はまだ責任がないからいいが、結婚式なんてものにも遅れるのが普通だった。のんびりしているといえば聞こえが良いが、時間にだらしないというだけのこと。お互いがそうなので、遅れたからと言って誰も文句は言わない。
 「南の島なんだもの、のんびりでいいじゃないか」という気分。
 「郷に入っては郷に従え」という諺は、広辞苑によると「(童子教による)人は住んでいる土地の風俗・習慣に従うのが処世の法である」とのこと。「そりゃぁそうだ」と私は若い頃からその諺に納得していた。もしも沖縄に来た観光客に「15分もバスを待っているのに来ない」といって憤慨している人がいたとしたら「沖縄のバスってそんなもの、15分なんて全然屁みたいなものですよ。」と言ってあげたい。
     

 しかし、最近の沖縄は時間を守るようになっている。バスはまだいくらか遅れたりするが、そう大幅に遅れたりはしない。モノレールは概ね時刻表通り。夜7時から飲み会があったとすると、だいたいその時刻、遅れる奴でも30分遅れ程度でやってくる。結婚式などに遅れる者は今あまりいない。そうなったのはいつ頃からだろうか。
 1972年5月15日、アメリカ軍施政下にあった沖縄が日本に復帰した。アメリカ軍施政下にあった頃でも、テレビやラジオ番組は日本の番組(ローカルも含め)だったし、新聞や雑誌も日本語だったし、沖縄の生活のほぼ全てを和文化が占めていた。それでもまだ倭国資本はそれほど沖縄に入ってきていない頃で、沖縄タイムは普通だった。
 本土復帰後、倭国資本がどんどん入ってくると、沖縄タイムが経済上不利になる。のんびりしていると置いていかれる。商売上の付き合いでも時間にルーズは信用を失う。ということで沖縄もしだいに沖縄タイムを失うことになったのだと思われる。
 「南の島なんだもの、のんびりでいいじゃないか」という気分が私は大好きなので、飲み屋で人を待たせることに罪悪感はない。飲み屋に限らず、1人で待っていても退屈しない場所(デパートとか市場とか)での待ち合わせであれば、相手が遅れても自分が遅れても気にしない。夏の暑い日、冬の寒い日に外で待たせるのは罪悪感を感じる。

 さて、現代社会は「金儲け主義」の時代で、アメリカもロシアも中国もその他多くの国が金儲けのためになりふり構わぬ行動をし、これからもそうしようとしている。地球環境悪化に関してはおざなり程度、あるいは口先だけの態度にしか見えない。
 今の時代はお金が優先する時代。いかに金を稼ぐかが生きる前提となる。それなのに私は「金儲け主義」に反発するという建前で自給自足芋生活の道を歩こうとした。時代という郷に従わずとも生きていけると思っていた。それはしかし、パソコン、携帯電話、冷蔵庫、車など現代社会の恩恵を大いに受けていながらの勘違いだった。腰痛を患って以降は時代の恩恵を大いに受け、時代に助けられているんだなぁとつくづく感じている。
 「郷に入っては郷に従え」に倣うなら「時代に入っては時代に従え」となる。のだが、それでいいのかとも今なお思う。時代が「戦争」へ向かっていたらどうする?
     

 記:2018.11.23 島乃ガジ丸


老人の自覚と役割

2018年10月19日 | 通信-社会・生活

 私はテレビを観ない。観なくなってからもう7年余が過ぎたが、テレビを観なくても家にテレビが無くてもちっとも困っていない。オジサンと呼ばれる年齢になってからは芸能スポーツに興味を失くしていて、歌番組もドラマもスポーツ中継も観ていなかった。笑わせてくれるバラエティー番組を時々観ていたくらいなので、テレビは生活に不要となったわけ。知っておかなきゃならない政治社会のニュースはラジオでも聞ける。
 ラジオは何かしながら聴ける。たいていはパソコン作業しながら、食事しながら、掃除しながら聴いている。「聴いている」と言うか、政治社会のニュースや天気予報以外はBGMとしている。熱心に聴いていないので今の流行りについては疎い。元々、オジサンと呼ばれる年齢になってからは、流行りのものについても興味を失くしている。
 世間の流行りのものに興味を失くしていく内に、自分が他人にどう見られているかということにも無頓着となり、ファッションは40年前と変わらずジーパンとTシャツか作業着姿。髪は2ヶ月に1回ボサボサ伸びたら短く切るだけ。髭を剃るのも週に1~2回だけとなる。若い頃、「自分が良いと思えば良い、他人の目を気にする必要は無い」という風な身嗜みの汚いオッサンを軽蔑していたが、そんなオッサンに私がなっている。

 前の前の前の散髪、腰痛が酷く、この先の人生に不安を大いに感じている頃だから3月の終わり頃のこと、今の住まいからは遠いが30年ほども通っている馴染みの理髪店へ行く。30年来の馴染みなので何も言わずとも、いつものように刈ってくれる。
 いつものように挨拶し、座って前を見る。すると、そこには見慣れぬ自分がいた。草臥れ果てたようなオッサンがいた。「ィヤーヤ ターヤガ?マーヌターヤガ?」(お前は誰だ?どこの誰だ?)と思わず思ってしまった。爺さんみたいな自分を自覚する。
     

 8月の終わり頃、具志川警察署で道を訪ねた。「警察署の人間は目つきが悪い、いつも不機嫌、無愛想」というのが、私がこれまで持っていた沖縄の刑事警官に対する印象であったが、この時は違った。数名の、中年男性3人と若い男性1人が道を訊く私に対応してくれたが、皆、愛想よく柔らかな顔で応対してくれ、しかも、時間を掛けて私の目的地である場所の地図を大小2枚プリントしてくれ、詳しく説明もしてくれた。
 「何だ何だ、この親切?この人達はヤマトゥンチュー(大和人)か?ウチナーンチュにこんな親切な警察官は見たこと無ぇぞ」と思うほどの応対に私は少し戸惑いも感じながらも良い気分。警察署を出て、目的地へ向かう運転中に「あー、そういうことかも」と気付く。「彼らの親切は年配者に対する一般的な親切だったのであろう」と。
 確かに、彼らより私は年配であった。その時の私はジーンズにTシャツといういつもの若い格好であったが、人間観察のプロとも言える刑事から見れば「相当の年配者である」と気付いたのであろう。子供の運動会で競争競技に出て、若い頃と同じように走れるだろうと勘違いして転ぶオヤジと同じだ、私は自分の見た目が若い頃とほぼ変わっていないと勘違いしていたようである。理髪店の鏡で爺さんみたいな自分を自覚したはずのに。
 法律的に爺さんと呼ばれるのももうすぐ、そう呼ばれることに抵抗は無い。だが、その年になった時、爺さんであるという自覚が伴なうかどうか。自覚して、社会に対する老人の役割を果たせるかどうか。役割・・・知識と経験を語ることを私は目指そう。
     
 記:2018.10.19 島乃ガジ丸