ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

旅の終わり

2019年11月13日 | 通信-社会・生活

 舌癌となって入院、放射線治療をやったが、今もまだ完治には至らず、癌以外の不具合が体のあちらこちらに出現して、「元気になって退院」にはまだ遠いようだ。
 癌以外の不具合が体のあちらこちらに出現とは、「口内炎とヘルペス」、「喉狭窄」などいくつもあって、それらへの対処で忙しく、ブログアップがなかなかできずにいた。
 現在入院中の病院へ入院してからしばらくの期間のことを、私はちゃんと記憶していない。そもそも入院した日がいつなのかもあやふやである。私の日誌を見ると「9月10日入院」とあるが、病院側の記録では「9月14日入院」となっている。その他、放射線治療を始めた日、終了した日についても、私のメモと病院側の記録では少しずれがある。どうやら、舌癌の激しい痛みのせいか、放射線治療の副作用なのか知らないが、何らかの理由で私の脳細胞の一部が壊れてしまったのかもしれない。
     
 9月14日に入院して、9月19日最初の放射線治療を受けるまでの数日間、何をしていたのか私はほとんど記憶が無い。この間のことは日誌にも記載されていない。ナースたちの証言によると、「来た時と今では全然違うよ、まるで別人みたいだよ」とのこと。
 その頃は、体重が58キロから45キロ(11月には55キロまで戻る)に激減して骨と皮ばかりの体になっていた頃だ。おそらく、舌癌の激しい痛みに耐えていた頃、舌の肥大や痰の大量発生で喉を塞がれ呼吸難に苦しんでいた頃だ。何かを考える元気はなく、今日あったことを日誌に記入しようという余裕もなかったのであろう。
 その頃見舞いに来た友人たちに訊いても「そうだよ、どうなることかと思ったよ」というのが大方の感想だった。記憶には無いが私自身も「死」を意識していたと思う。

 ハッキリと記憶に残っているわけではないが、夢か現かもはっきりしないが、死の予兆は入院してから第一回放射線治療を行うまでの間にもいくつかあった。
 10年前に亡くなっている父が病院に現れた、何度も現れた。ただ、声を交わしていないし、目を合わすこともなかった。その姿を見て「あっ親父だ」と気付いただけ。父は患者ではなく、病院で何やら働いて(清掃員?)いた。
 長い間(2ヶ月ほど)私の病室は個室だが、入院(9月14日)してから最初の2泊は相部屋だった。大部屋にいる時に、別の患者の持っているぬいぐるみが羽を生やして天使の姿になったり、壁をよじ登る小魚の大群や壁を這うアリの大群を見ている。

 9月26日、3回目か4回目の放射線治療予定の日、その治療が延期された。理由はその朝、私の容態が急変したから。後日、その日のことを主治医に訊いた。主治医はA4用紙にたっぷりとその日の様子を書いてくれた。危ない状況だったとのこと。その時のことは、夢か幻か知らないが、私の記憶に残っている映像が1つだけある。以下、
 場所はどこかの映画館、大きさから言うと、桜坂劇場のBホール、収容人数200人位の広さ、入口からスクリーンへ向かって階段を下っていく形。
 私は中へ入って入口に近い所で立っている。場内は暗い。スクリーンに何も映っていないので、ほぼ真っ暗と言っていい。真っ暗な中、私は落ちて行くのを感じていた。
 落ちて行く先は、三途の川だったのだろうか?私の旅は終わるところだったのか?
       

 記:2018.6.6 島乃ガジ丸


初むくみ

2019年10月28日 | 通信-社会・生活


 8月に琉大附属病院で2泊3日の入院、9月になって国立沖縄病院に入院、これは今も続いていて、既に1ヶ月余りとなっている。これらの入院生活で私の初体験となったものがいくつもある。そもそもが入院の大元の舌癌も初体験だが、それは置いといて、

 社会人となって約40年、自身の健康管理も自己責任であると解ってはいるが、この40年、私は役所が主催する定期検診や、職場が提供する健康診断などには全く参加せず、「人間、放って置いても生きようとする。天が定めた寿命までは生きようとする。誰でも死ぬときは死ぬ。その時が寿命だと思えばいい。譬え途中で事件、事故、天変地異などで思わぬ邪魔が入ったとしても、それはそれでまた、「人生はドラマである。ハプニングは付きもの」と思って、「軽く口笛でも吹きながらやり過ごしたら良い」という考え。
 検診も行かない私は、そもそも自らの健康のために病院へ行くことも滅多にない。小学校高学年の時、交通事故に会って左腕を骨折し、約3ヶ月の間、入院した経験がある。勉強しなくていい幸せな3ヶ月だった、入院はそれ以来約40年ぶりのこと。
 入院とまではいかないが、病院で何らかの治療を受けた経験は、歯科医を除けばこの40年間で、私が覚えている限りで言えば、背中の脂肪腫の切除、膝関節炎で両膝に溜まった水を抜く手術、これらはどれも1~2時間、あるいは半日で終えて、日帰り。

 「俺は病院とは縁の無い男だぜ!」と、咥えタバコの煙に目を細めながらニヤッと笑うニヒルな男、そんな男になりたいと日頃から思っていた・・・のだが、天は、そんな傲慢な男に「人生をそう甘く見るなよ」と罰を与えたのかもしれない。
 それはともかく、今回は初体験の話。
 もう既に8月の琉大病院に入院している時に初体験を済ませていることがある。それを先に書いておくと、点滴、CTスキャンとかの放射線使用の医療機器数種、車椅子などが初体験。若い女性(看護師)に股間を洗ってもらったのも初体験
 そして、よく知らないが、飲んだ薬、打った注射にも初体験は多くあっただろう。薬の中でも特に印象に強いのは降圧剤。10月17日から、私もついに降圧剤を飲むようになった。畑やっている頃は140程度だった私の血圧、腰痛を患ってから160台となり、舌癌を患ってからは180を超えることもあった。それでも飲まなかった降圧剤。
 降圧剤は一旦飲み始めるとずっと飲み続けなければならない、という友人たちの噂を信じ、「降圧剤が無ければ生きていけないということか?それは面倒だな」と思った。

 2週間ほど前から足がむくんでいる、むくみも初体験。2週間経ってもむくみは一向に改善しない、悪くなる一方。むくみはついに膝を超え、太ももの裏にまで進出。
 むくんでいる所を触ったり、擦ったりすると、皮膚と筋肉(または骨)の間に異物が存在していることに気付く。硬めのパン生地ほどの弾力のあるものが詰められて、これがあるために、皮膚を押してもすぐには元に戻らず、へこんだクレーターはしばらくへこんだままとなる。これがあるために、足首が自由に動かない。時々痛みも出る。これがあるために、足が重たい。歩くのに少々鬱陶しい。生きるのに不都合。今のところ、医者が「放って置いても治る」と言っているので放ってある。どうなるやら、お楽しみ。
     
     

 記:2019.10.28 島乃ガジ丸


病中の飲食

2019年10月25日 | 通信-社会・生活

 点滴を外し、喉から食物を摂取するようになったのは10月10日のこと。舌が動かなくてモノを咀嚼できない私なので、もちろん初めは流動食。流動食は重湯が主食で、あとは味噌汁とかスープとかの汁物、そして、とろみのついたおかず風のもの。
 噛まない、咀嚼しない、ただただ飲み込むだけなので、1口1口を味わうなんてことはほとんどできない。味わうことはできないが、味には敏感に反応する。
 口にものを入れて、それを咀嚼して、喉を通して摂取するということを長いこと(約2ヶ月)やってこなかったものだから、舌癌が治りつつある舌を含め、口中全体が敏感になっているようだ。甘い、塩辛い、辛い、苦いなどの味が強いものは、舌を中心に口中全体が刺激を受け、時にビリビリと痛みも出て、「食ぇねぇよ」となる。
 病院給食の流動食は重湯(後にお粥)なので優しい味だが、汁物類もまぁまぁ大人しい味だが、おかずの類は味が濃い。デザートに位置しているであろうパック入り飲料もヨーグルト味やらコーヒー味やらいろいろあるが、どれにしても私の舌には激しく甘い。
 それらの病院食、初めの頃は半分食うのがやっとだったが、10日ほども経って、幾分慣れて来て、多少の我慢(不味くても栄養)はしているが、最近はほぼ完食している。

 運ばれてくるお盆にはいつも1枚のカードが置かれてあって、今回の料理名が書かれてある。そして、病人から食堂へメッセージが書ける空欄もある。私はほぼ毎回、少なくとも「ごちそう様」とは書いている。そしてしばしば、料理への感想などを書いている。
 料理の感想は、なるべく褒めようとは思うのだが、舌が思うように動かず、食べるのにあれこれ不都合のある私なので、また、普段から自分で料理をしていて、料理には少々煩い私なので、ついつい料理への注文となってしまう。「煩ぇ爺さんだ」と病院の厨房の人たちには思われているかもしれない。が、煩ぇ爺さんには良いことも起きる。
 給食への意見である私のコメントを読んで、沖縄病院の給食を管理している栄養士がたまに私のところを訪ねて来てくれる。栄養士は若い(アラサーか?)、スラッとした長身の色白美人。美人とユンタク(おしゃべり)するのはオジーとなった私でも嬉しい。
     

 10月19日、私の要望で病院食の主食が重湯からお粥(3分)に替わった。しかし、主食は変わっても副食は相変わらず。時には味噌汁も出るが、多くはトマトスープ、コーンスープなどの洋風汁物、ポテトムース、パンプキンムースなどの流動食がおかず。
 「そんなのお粥と合わねぇよ」と思うのだが、「和食が食べたい」と要望も書いたのだが、今のところ、まだ変化なし。今のところは、市販の梅干し、インスタント味噌汁などを買ってきて独自の副食としている。お粥と梅干と味噌汁。和風である。それに加えさらに、和食料理人のIさんに頼んで、Iさん手作りの佃煮やら練り梅、練り味噌など持って来て貰った。それらはとても美味しい。さっぱりしながらも、味ははっきりしていて「美味いぜ」と1口1口感じながら食べている。病床の私も大いに満足している。
     

 食事は、栄養補給のための餌というだけではない、食べて、美味しいと感じて、幸せを感じて、心にも栄養を与える生きるに必要なものと私は思う。Iさんの料理はまた、Iさんの愛情もたっぷり籠っている。その愛情も心の栄養になるものと思う。

 記:2019.10.26 島乃ガジ丸

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行 


愛のある風景

2019年10月18日 | 通信-社会・生活

 台風19号、消費税アップなど世の中は大きな出来事があれこれあったのに、私はまったく私の世界の中で生きていた。9月10日に入院して以降、入院が続いて、我が身の不幸を嘆いてばかりいる。それはしかし、素人の無知蒙昧から来る自業自得だ。
 8月8日~9日、琉大附属病院へ入院した。

 と、ここまでは前回と同じ書き出し。友人から「9月10日に入院」と「8月8日~9日、琉大附属病院へ入院」とあるがどういうこと?と問い合わせがあったので説明。
 
 「8月8日~9日、琉大附属病院へ入院」は、8月8日、腫れ上がった舌を琉大附属病院へ診せに行ったら「舌癌でしょう」とのことで検査入院。検査入院は2泊3日となり、入院、手術を勧められたが、私はそれを断り、10日の午前中に退院する。
 「9月10日に入院」というのは、私なりにあれこれ考えて、ホスピスや在宅医療などをやってくれる国立沖縄病院を選んで、面接し、入院となった。その入院が今なお続いている。そこで9月19日から放射線治療をし、「死んだ方がまし」を経験した。
     

 話は変わるが、確か、車寅次郎のセリフだったと記憶しているが、「他人の不幸を喜ぶようになっちゃぁ人間お終ぇよ」というのがあった。私は元々、「他人の不幸を喜ぶ」タイプの人間ではあるが、台風19号が暴れ回っていた数日間はその性質が普段より強く出て、「人間お終ぇよ」と寅さんに叱られる状態になっていた。
 台風19号は前代未聞の強烈台風で、前代未聞の被害を与えた。日本国の凋落、日本沈没に繋がりかねない大きな自然災害かもしれないと素人の私でも感じた。
 それでも、「人間お終ぇよ」の私は「台風で何か大きな不幸が起きないかなぁ」と心のどこかで望んでいた。他人の不幸を見て我が身と比べ、「あれに比べりゃ俺はまだましだぜ。痛くても苦しくてものんびり寝ていられるぜ」と思いたかったのかもしれない。

 さてさて、「死んだ方がまし」を経験しながら、他人の不幸を望む。などと楽しくない話はここまで。人間の心にはそんなところもありますとちょっと紹介しただけ。
 1ヶ月余りに及ぶ入院生活、主治医は「治る可能性が高い」と仰ってくれて、その通り病も少しずつ良い方向へ進んで行って、それまでは自分のことしか頭になかったが、最近は周りのことにも関心が向き、看護師たちとも仲良くおしゃべりできるようになった。良い話とは、美人看護師と仲良くなって良い一夜を過ごした、なんてことでは無く、

 私の隣の病室に爺様が1人病に伏せている。姿は見たことないが、ほぼ寝たきりのようである。。看護師に訊くと70代らしい。爺様には介護してくれる人がいる。彼の妻だ。いわゆる、老老介護というやつだ。二人の姿はまだ見たことないが、声は良く聞こえる。
 妻は朝も昼も夜も夜中も夫の傍にやってきて声を掛ける。
 「父ちゃん、起きて。」、「父ちゃん、聞こえる?」
 「父ちゃん、父ちゃん、父ちゃん・・・」と、優しく声を掛けている愛妻。それを聞いていて私は心癒された。そこには愛が溢れていると感じた。生きようと思った。
     

 記:2018.10.18 島乃ガジ丸


認知能力不足

2019年08月02日 | 通信-社会・生活

 6月末日、友人KとTを我が家に招いて昼間(午前11時半)からグダグダ飲み食いしながらのユンタク(おしゃべり)会を催した。私が準備した飲物と2人が持ってきた食い物が並べられたテーブルの前に腰を下ろす。座って30分もしないうちにTが「車に忘れ物した」と部屋を出て行った。それから約5分後、Tから電話、「部屋、どこだったっけ?」と訊く。「えっ?何だって?」と私。私の部屋は2階、駐車場から最も手前の部屋。部屋を出て駐車場へ下りて、車から忘れ物を取って、階段上がって私の部屋の前まで早ければ3分だ。たったそれだけの道程を記憶してないのか?何ちゅーこと。
 「いやー、あれだ、認知症って奴だ、いよいよ俺もだよ」とTが笑う。Kも笑う。私も笑いながら、つい先日我が身に起きたことを思い出した。
 「2、3日前のことだ、図書館行って調べものして、その後、家に帰る途中にあるSスーパーへ寄って、その夜の肴など買うべきものを買って家に向かう。ところが、買い忘れに気付いたので家の近くのスーパーにも寄って、買いものをして家。買ったものをテーブルに出すと、何と同じものが2つ、違うスーパーでそれぞれ同じものを買ったようだ。何じゃ、こりゃー!だよ、大丈夫か俺と自分の脳味噌を疑ったよ。齢のせいだろうな。」
 と数日前の我が身に起きた驚くべきことを2人に語った。2人とも高校からの付き合いの同級生。「お互い、齢とったなぁ」と皆で笑った。
     

 皆で笑ったのは半分冗談、「たまたまそうだっただけのこと」だ。実は私は自分の脳味噌の劣化をさほど重度のものとは思っていなかった。ところが、忘れもしない「もうすぐオジー」3人でまったり時間を過ごした日から3日後の朝食に事件が起きた。
 翌日の朝食にするつもりで前日に沖縄ソバを買ってあった。で翌朝、ソバを湯通しするために鍋に水を入れて火にかける。ベランダ栽培している青ネギを少し引き抜いて、台所に持っていき、洗って刻む。前日の残りの煮物に水を足し、味を付け、ソバ汁の準備をする。そうこうしている内に鍋の湯が沸騰した。冷蔵庫を開ける。ソバは手前の目立つところに置いてある。だが、私の手は、何故かその上の棚にあった島原手延べソーメンを掴んでいた。それを袋ごとコンロの傍に持っていって、1束取り出し、鍋に突っ込んだ。
 鍋の水が沸騰する、そのほんの2、3分前までは、沖縄ソバのことがちゃんと頭にあったのに、冷蔵庫を開け手前の沖縄ソバを取らずにソーメンを取ったのは何故か?見た目ぜんぜん違うぞ、一方は生麺で、もう一方は乾麺だぞ、色も違うぞ、ボリュームも違うぞ、それを何で間違うんだ!と、ソーメンを鍋に入れた後、「バカ!」と自分に怒鳴る。

 Tと私はオッサンの一人暮らしだ。1日誰ともしゃべらないということもたまにある。誰ともしゃべらないというのは私よりTの方が多いようだ。Tは引き籠りになりそうだとも言った。近い内に認知症になるのは間違いないとも言った。Tだけじゃない、私も同じこと、上述したトンマなことはこの先増えていき、認知症と断されるだろう。
 独居老人になると死んだかどうかも分からなくなる、そろそろ危ないとサインを出すこともできない、ならば、いつか3人で暮らすかとなった。そうすれば、少なくともお互いに安否確認ができるし、その後の警察などへの手配もできる。しかし、互いに認知症だとそれもできない。介護できる人をバイトで雇った方がいいんじゃないかと私は思う。
     

 記:2019.8.2 島乃ガジ丸

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行