ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

感性を表現する力

2010年03月26日 | 通信-文学・美術

 もう二十年ほども前のことになるか、『普通の道程』というタイトルで冊子を作った。模合(正当な理由のある飲み会)仲間の現在の状況、十年前の状況、十年後の予想をそれぞれ書いて貰い、それを綴ったもの。71ページの立派なものとなった。
  71ページの中には挿絵も多くある。イラストの上手なUT、MT、私などが描いているが、その中で「おっ、すげぇ!」と私が感心したものが一つある。女子メンバーOKの娘、当時6歳(描いたのはそれより前だと思うが)のOAが描いた1枚。
 「何という目をしているのだこの子は。」と驚いた。モノがどのように見えるかは感性の問題だと思うが、彼女の感性はユニークである。その感性をそのまま伸ばして、感性を表現する力を身に付けてからの作品が観たかったのだが、残念ながら彼女は絵描きへの道には進まなかった。バーテンダーを目指して修行中というのは一年前の話で、彼女が今何をしているのか不明。もうすぐ誕生日なので、メールしてみよう。
          

 甥の息子TS(四月には小学三年生になる)が今、物語の作成に夢中になっていると聞いて、過日、甥宅を訪ねた際、その作品をいくつか見せてもらった。
 その一枚にドラゴンパーク図鑑というのがあって、そこにはいろんな生物が描かれていた。別の紙にはそれら生物(たぶんドラゴン)それぞれの卵や子供などが描かれあり、また別の紙にはそれぞれの特徴なども文章で書かれてある。例えば、
 「エッグイートモンスター、他のモンスターが生んだ卵を食べる。おとなしそうだけど、牙がするどい。秘密の弱点→脳をこわす。」といった具合。
 物語は第四巻までタイトルが決まっていて、第一巻は『ウィリーとターリー、虹色の花探し』とのこと。どうやら、人間のような格好をしたウィリーとターリー(らしきものもドラゴンパーク図鑑に描かれている)が主人公のようである。本人に確かめていないのでおそらくだが、彼らの旅の途中にドラゴンたちが現れるのであろう。
 彼の物語は、彼の頭の中で今どういう展開をしているのであろうか。絵はいかにも子供の絵で、文章もまだ拙いのだが、頭の中に現れた映像を絵や文章に表現する力がもっと巧みになったら、きっと、もっと楽しくなるに違いない。オジサンは期待する。
          

 友人Sの再婚相手であるTさんの息子が絵を描いていて、それがなかなか魅力的な絵であることを三週間前のこのガジ丸通信に書いたが、以来、その息子TTと何度かメールのやり取りをし、彼の作品をガジ丸HPで紹介する承諾を得た。
 TTの雅号、雅号って古い言い方だが、今時は何て言うのか知らない。雅号は画家としての名前のこと、芸能人で言う芸名、小説家で言うところのペンネームのこと。で、TTの雅号はドリンクシェア・ミワとのこと。ドリンクシェアは特に意味が無く、響きが良かったから、ミワは名前の姓からとのこと。ここでは以降、DSミワとしておく。
 メールのやり取りで、「子供の頃から絵が好きで描いていた、本土にいる頃は友人三人と合作で描いていて、沖縄に帰ってからは一人で描いている。」などという情報を得る。「子供の頃何を見てきたのか?」という質問に対しては、「自分でもよく判らない」とのことであった。「何を見てきたか?」では無く、「何を想像していたか?」と訊くべきであった。彼は、「頭の中に現れた映像を絵にする力」を十分に備えている。
          

 記:2010.3.26 島乃ガジ丸


妄想迷走瞑想

2010年03月19日 | 通信-科学・空想

 整体師のSは、職業柄なのかしらないが、瞑想やら断食やらの精神世界へ通じるようなこともやっている。過日、Sに誘われてその一つの瞑想会に参加した。
 瞑想会は那覇市が運営する運動施設の一室を借りて行われた。広い畳の部屋。参加者はSと私を含めざっと10人ばかり。指導者らしき年配の男の人を紹介され、その人から今日やることを教わる。歩く瞑想と座る瞑想を行うとのこと。

  先ずは歩く瞑想。歩き方、姿勢、呼吸の仕方などざっと教わる。本当はもっと深い教えがあるのだろうが、「初めてなので楽に」ということで、あまり細かな注意は無い。私は他の人を参考にしつつ、ゆっくりとただひたすら歩いた。私は最初から最後(約30分)まで、姿勢は真っすぐになっているか、歩くペースは一定になっているかなどに意識が向いていたので、その他の余計なことはあまり考えずに済んだ。
 次に座る瞑想。それに入る前に先生から注意があった。「無になることが大事です。妄想が出てきたら、それを打ち消す。また出てきたら、また打ち消す。それを繰り返していけばそのうち無の状態になることができます。」とのこと。
 そうなのだ、ただ座っている時には必ず妄想が湧き起こる。それをいかに打ち消していくかが、妄想家の私にとっては大きな問題なのである。なので、これまで何十回となく自己流の瞑想をやってきているが、未だかつて、無の状態に至ったことは無い。

 その日もまた、座ってすぐに妄想が湧き起こった。私には付き合い(男と女のという意味ではなく、友人として)のある女性が何人かいる。その中には美人で聡明で、愛しているといってもいいほどの人もいる。その全てが残念ながら、友人以上では無い。
 美人聡明の一人、人妻であるが、最近もっとも多く会っている女性が先ず、妄想の中に現れた。初めは普通に会話しているだけだが、そのうち妄想は迷走する。
 「私、夫と別れます。」と彼女が言う。
 「そりゃあダメだよー。」と私は何故か萩本欽一の口調になっている。そして、
 「あー、脱いじゃあダメだよー。」と私は慌てふためく。彼女が服を脱ぎ始めたのだ。彼女の手がブラジャーのホックに伸びたところで、その妄想を打ち消した。
 ところが、またすぐに別の美人聡明人妻が現れて、ちょっと環境設定は違うが、似たようなことをする。「する」と言ったって、彼女がしているわけでは無い。私の妄想がそうさせているだけなんだが、とにかく、迷走する妄想を必死に打ち消す。
 その次は美人聡明の独身女性が現れる。彼女は独身だが、遠く離れた場所に住んでいるので数年に一回しか会えない。で、妄想への登場も三番手となる。
 「やー、久しぶりだね。」
 「うん、会いたかった。」と言う彼女を抱きしめる。ここまでは普通の妄想。ここから迷走し、その彼女もまた服を脱ぎ始める。で、また打ち消す。
 妄想はこれで終わりでは無い。竹内結子が出てきて、服を脱ぎ、それを打ち消し、新垣結衣が出てきて、服を脱ぎ、それを打ち消しなどと続いた。お陰で、瞑想時間の40分、私の感覚ではあっという間に終わる。ただし、無になるという本来の瞑想はほんの数秒もできていなかった。改めて、自分が俗人であることを思い知らされたのであった。
          

 記:2010.3.19 島乃ガジ丸


虫の気持ち

2010年03月12日 | 通信-環境・自然

 日曜日、雨の予報だったので、前日の土曜日は一日畑仕事の予定とした。一坪分を耕して、種を植える。枝豆とジーマーミ(落花生)、どちらもビールの肴に最適。10時から始めて、種蒔きは1時間ほどで終える。一服後、ナンクルミー(自然発生)で、我が物顔に畑に蔓延っている雑草どもを引き抜く作業をする。
 草抜き作業を始めてから1時間もすると汗をかきはじめた。この日の沖縄、最高気温の予報は27度、空に太陽がギラギラと輝いていたので、体感では30度を超えたに違いない。草抜きするしゃがんだ背中に太陽の熱射がきつかった。
 寒い冬が終わって、温かい春がやってくる。それは喜びの時期である。「ポッカポカだね♪」と歌いたくなる気分だ。しかし、その日の暑さは度を越していた。額から顎に向けて汗が伝い、滴り落ちる。半袖Tシャツが汗で濡れる。半袖Tシャツから出ている腕がジリジリと日に焼けていく。そんな中、オジサンは修行僧の如く頑張ったのだが、早々とばててしまった。畑仕事は夕方までの予定だったが、結局、2時にはギブアップ。
 その帰り、友人Hの店に寄った。「暑いな。」、「まるで夏みたいだな。」が挨拶となり、アイスコーヒーが出され、クーラーのスイッチがオンとなった。

  それから四日後の水曜日、この日の沖縄はこの冬(と言ってももう春だが)一番の寒さとなった。3月の気温としては観測史上最低ではなかっただろうか。朝から寒く、前週に既に仕舞っていたジャンパーを出し、それを着て出勤。空が曇り空だったこともあって昼になっても寒いままで、寒い日の恒例となっていた仕事の合間の運動(その場飛びとか)が復活した。夕方、家に帰っても寒い。室温は14度。既に仕舞ってあるヒーターを出すのは面倒だったので、まだ片付けていなかった火鉢に炭を熾す。
 火鉢の炭程度ではさほど温まらない。で、部屋でも運動(スクワットなど)をし、休肝日だったが酒を飲み、仕舞ってあった毛布を出し、10時には布団に潜り込む。つい2、3日前まではパンツと半袖Tシャツ姿に、掛け布団1枚で暑いくらいだったのに、ジャージを着て、布団プラス毛布を掛けている。何という寒暖の差だ!
          

 その日の2日前(月曜日)まで、私の部屋の中を徘徊していたアリたちが、寒くなりだした火曜日の夜から姿を消した。月曜日までアパートの畑をヒラヒラ舞っていたモンシロチョウもいなくなった。虫の気持ちで言えば、「何だよー、春だと思ったのによー、もう大丈夫と思って外に出たのによー、インチキじゃねーか、こんな寒いんじゃあ死ぬしかねーよ。」であろう。モンシロチョウは畑の片隅でこっそりと倒れて、「ちくしょう、騙されたぜ、無念・・・。」なんて、虫の息で呟いたに違いない。
  宜野湾の私が借りている畑には、チョウやアブ、ハチなども多く見るが、コオロギが目立つ。畑を耕していたり、草抜きをしている際に頻繁に見る。過日、蒔いた種に水やりをしていると、水のかかった場所から一匹のコオロギが飛び跳ねた。その時、私の左足が一歩前進の途中であった。左足が地面に着いたその一瞬前に、飛び跳ねたコオロギが着地した。左足とコオロギの着地場所は一緒であった。私はたぶん、生まれて初めてコオロギを殺した。虫の気持ちで言えば、「あー、何てこった!こんな不運があるのか・・・」であろう。コオロギは虫の息でそう呟きながら、死んでいったに違いない。
          

 記:2010.3.12 島乃ガジ丸


子供の目線

2010年03月05日 | 通信-文学・美術

 先週土曜日(2010年2月27日)の午後、浦添美術館へ行った。『ピカソと20世紀の巨匠たち』という催し物をやっていて、それを観に。
 展示数が少なかった(約60点)ことで物足りなかったのと、会場が狭いうえ、土曜日ということもあって来場者は多くて、一つ一つの絵をじっくりと観賞できなかった、ということで、期待していた満足感には遠く及ばなかった。
  その会場で、従姉の息子家族に会った。小学校二年生と幼稚園生の息子を連れて来ていた。「27日に浦添美術館へ行くから、できたら一緒にいかが?20世紀の優れた作品が生で観られます。子供たちには経験させた方が良いでしょう。」といった内容のメールを前に送っていたので、会うのは偶然では無く、予想していたこと。
 その小学校二年生の息子が、絵を描き、物語を作るのが好きな子で、前にその作品を見せてもらったことがある。絵も文も小学校二年生らしく拙いのだが、その想像の世界は、彼の両親は無関心のようであったが、妄想癖のある私にはなかなか面白いと思えた。で、彼の母親に、「彼のように想像力豊かな子供が、その力を存分に発揮したからこそ、鉄腕アトムやハリーポッターは生れた。才能は伸びる方向へ伸ばした方が良いでしょう。」というメールを送り、『ピカソと20世紀の巨匠たち』にも誘ったのであった。

 子供たちが名作に対しどう反応するか興味があった。なので、私は絵だけでなく、子供たちにも注意を払っていた。それから、絵の展示は概ね大人向けの高さになっている。子供の目線では大きな絵に見降ろされているみたいになって、威圧感が先にくるのではないかと思っている。もし、子供たちが関心を示した絵があれば、彼らをおぶって、大人と同じ目線で観させて、印象がどう変わるかを試してみたかった。
 「好きな絵はあったか?」と、展示を一通り観た後、二年生に訊いた。
 「ううん、分からない。」と、困ったような顔をして彼は答える。
 そりゃあそうなのである。、やはりと言った方がいいのだが、大人が見ても意味の分かりにくい絵を、子供たちが「僕、ピカソの『眠る女』が好き」なんて関心を示すことは無いのだ。おかげで私は、二年生をおんぶする重労働から免れたのであった。
          

  友人Sが昨年再婚した。Sも再婚だが、相手のTさんも再婚。Tさんには連れ子が三人いて、その長男が確か今、23、4歳だと思うが、絵を描いている。Sの家でパーティーがあった時、その作品を数枚見せてもらった。「ほほう」と感心する。
 絵は上手い。絵を描くようになって何年も経つのであろう、練れている。細かく、丁寧でもある。それよりも、私の感性にはあまり無いドロドロ感に惹かれる。
 彼の絵は概ね暗い。ドクロやらお化けのようなものが描かれていて地獄絵のようなものもある。また、絵の中には少女の顔がいくつかあり、少女は笑っている。しかし、その笑いは何か毒を秘めている。「人間不信?」と疑うような表情、それが気になる。
 見たこと、経験したことが心の中に映像を作る。映像を作るのは想像力の問題だが、彼はその力がある。そして、心の中の映像を表現するのは技術だが、その力もある。
 それにしても、中学高校の頃は私も鬱屈していたが、子供の頃の彼の目は、いったい何を見てきたのだろうかと興味が湧く。今度会う機会があったら訊いてみよう。
          

 記:2010.3.5 島乃ガジ丸