ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

死後の始末

2016年09月30日 | ガジ丸通信-社会・生活

 雨が降って涼しい夜が続いて、グッスリ睡眠ができている私は毎夜毎夜濃い夢をいくつも見ている。夢の中にはよく見知っている親戚友人知人が多く登場し、かつてテレビを観ていた頃に顔を覚えている芸能人もよく登場し、まったく見知らぬ人も時々登場する。 そんな中、9月に入ってから同級生が、オールスターと言っても良いほど多く、数日間に渡って登場した。日頃会っている人達から、20年前の同窓会以来ご無沙汰の人達、そして高校卒業以来会っていない、名前も思い出せない人達まで出てきた。
 同級生たちが登場した夢の中には楽しくない夢もいくつかあり、「大丈夫か!しっかりしろ!」といった私のセリフで終わる・・・終わるというかそこでハッとして目が覚める夢が、覚えている限りでは2つあった。「大丈夫か!」と私が体を抱き、顔を覗きこんで声をかけた相手はどちらも同級生で違う人。2人ともよく知っている人。
     

 同級生の誰かに何か不吉なことが起きるのだろうか?と思ったが、そんな夢を見た私自身が、友人達から遠く離れた場所に旅立って行くのかもしれないとも思った。なわけで、それらの夢の後、自分自身の死を少し突っ込んで考えてみた。そんな折り、従妹Tが畑を訪ねて来てくれて、しばらくおしゃべりした中で、死後の始末についての話となり、
 「死んだら俺の灰は海に撒いて欲しいなぁ」と私が言うと、「それって散骨って言うんでしょ、私もそうしたいけど、今は勝手に遺骨を処分するのは法律で禁止されているみたいよ」と教えてくれた。で、「禁止されているのなら諦めるか」となった。
 それから3週間ほども経った今週日曜日(25日)、同級生4人で宜野湾トロピカルビーチへ出掛け、黄昏時から夜の時間帯を浜辺で酒を飲みながら過ごした(この件の詳細は今週別項としている『トロパ』に記している)。その時間のある時、終活の話を私から切り出し「骨は海に撒いて欲しいと思ったが、それは法律違反らしい」と言ったら、
 「バッカだなぁ、そんなの黙ってやればいいんだよ、そんなのいちいち役所は調べないよ、役所はそれほど暇じゃないよ。密かにやればバレないよ。大丈夫だよ」とU。
 「そうかバレなければいいのか」と私は一瞬期待した。「しかし・・・」と私はその期待をすぐに捨てた。Uは気の良い奴であるが、いい加減さも持ち合わせる男なので、私は彼の「大丈夫だよ」を鵜呑みにして糠喜びなどしないのだ。で、調べた。
 
 骨をすべて廃棄するのは遺骨遺棄罪となるが、バレなければ良いということで、私が密かに父の遺骨を海に捨てるという設定でシュミレーションしてみた。現実的には兄弟親戚が周りにいるので「周りの誰にも密かに」は無理だが、兄弟親戚を「父の遺言だから」と説得して承諾を得る。葬儀会社が関わると「密かに」できないので葬儀などしない。
 遺体を火葬するには、役所に死亡届を出し火葬許可証を受け取ってそれを火葬場に提出して火葬となる。火葬して残った遺骨を骨壷に詰め持ち帰る。その際、火葬許可証に火葬した日時など追記された埋葬許可証なるものを火葬場から受け取る。つまり、父の遺体が焼かれて骨になったという事実はその日付とともに公の記録として残される。
 火葬許可証には埋葬又は火葬場所を明記しなければならず、申請者の住所氏名も明記しなければならない。その記録が公に残るのだ。それに、兄弟親戚にも「あいつは親の遺骨を海に投げ捨てた」とバレているし、「密かに散骨」は困難であることが解った。
     

 記:2016.9.30 島乃ガジ丸


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2016.9.30 迷う引っ越し

2016年09月30日 | ガジ丸週一日記15-16

 新居となるアパート探しがまだ続いている。7月には引っ越し準備のための荷物整理を終えているが、それから2ヶ月余経てもまだ新居は見つかっていない。初めは畑へ歩いて行ける場所にしようと思っていたが、その辺りには単身用の小さな間取りのアパートがほとんど無くて、車で5分以内なら良しと範囲を広げた。
 今年の旧盆で、私はトートーメー(位牌)を預けてある寺に初日1回、中日1回、そして、3日目は午前中に行って御馳走を供え、一旦家に帰り、そして夕方ウークイ(御送り)行事を行うため再び寺を訪れた。家から寺まで片道約20分かかる、時間が勿体無い。
 畑から寺までは片道約10分だ。畑と寺の中間辺りに家があれば両方に5分で行けるようになる。ということで、新居となるアパートは首里石嶺町、汀良町、鳥堀町辺りにしようと決めた。で、その辺りを見て回った。
 その辺りはしかし、高校から浪人にかけ3年間住んでおり、前の石嶺町のアパートには19年間も住んでいた。見慣れた町なのである。「つまんない、知らない町に住みたい」と思ってしまった。で、今悩んでいる。
 
 新居候補の1つ
 新居候補は既に10ヶ所ほどは見ている。ここは「あまり知らない町」のアパート。空室は手前1階、私は窓を開け放つので、外から丸見えとなる。で、落選となった。


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トロパ

2016年09月30日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 9月の初め頃、正確に日付を記すほどの事でもないが、日記を調べると、その日の朝発生した台風13号がその日の夕方沖縄島に接近すると聞いてアタフタした9月6日のことである。友人Oの店に寄って彼とユンタク(おしゃべり)した際、「このあいだ、UとZと3人でトロピカルビーチへ行ってビールを飲んできた」とOが言う。
 UもZも同級生、黄昏(たそがれ)ている後期オジサン3人が、若者達で賑わう宜野湾トロピカルビーチへ出掛け、浜辺で夕陽を眺めながら酒を飲んだとのこと。「何で?何のために?どんな心境で?」と私は少なからず疑問に思った。「黄昏時のオジサンが浜辺の黄昏時をどのような想いで時間を過ごしたのだろう」と少なからず興味も持った。
 それから約3週間経った今週日曜日(25日)、そのOに誘われて、同じトロピカルビーチへ私も出掛けた。メンバーはOと私の他、Oの女房E子、そして、前回も今回も黄昏ビーチの提案者であるUの4人。皆同級生で人生の黄昏時の人々。そんな4人が、若者達で賑わう宜野湾トロピカルビーチへ出掛け、浜辺の黄昏時を過ごした。
     
     

 O夫妻の経営する店に集まり、Uの車で4時過ぎに出発し、途中、スーパーでビールやつまみなど購入し、4時半頃には現場到着。我々世代も若い頃、あちらこちらのビーチへ行ってビーチパーティーなるものをやった。ビーチパーティー、この頃はビーパと言うらしいが、今でも沖縄では廃れていないようだ。多くの人々が集っていた。我々のような年寄りはほとんどいない。若者達、小さな子供のいる家族連れが大勢。
 涼しい潮風に吹かれながら、目の前の青春達とは関係なく、私の頭には色っぽい声の持ち主ちあきなおみの歌う『黄昏のビギン』が浮かんでいた。「雨に濡れてた 黄昏の町・・・」と歌い出しは覚えている。その後は「あなたとやった 初めての夜」だったかうろ覚え。その後は思い出せない。メロディーは覚えている。ロマンチックな曲だ。
 今は畑が実際の労働で忙しく、畑の作物が上手く育つためにはどうしたらいいかと考えたり調べたりするのにも忙しく、浜辺でのんびり時間を過ごそうなどとはあまり思わない私だが、もっと歳取って、まだ元気だったら、若かりし頃を懐かしんで海辺で1人黄昏ているかもしれない。その時はギターを持って行って『黄昏のビギン』を歌おう。
     

 その日、トロピカルビーチでは宜野湾市が主催する催し物があった。沖縄では有名らしい歌手、バンドなどがステージで演奏していた。何組かが出演したが、その中で名前を知っているのは1人だけ。その人も含め、私好みの音楽ではなかったのでほとんど聴かなかった。ただし、それはあくまでも私の好みであり、ステージ前は多くの観客で賑わっていたようだ。多くの人が有意義な時間を過ごせたものと思われる。良い催し物だと思った。演奏が全て終わると花火が上がった。花火を見るのも私は30年ぶり位だった。
 会場には広い駐車場(一部有料)があり、バス停からもそう遠くはない。ビーチパーティー用の施設も整っていて、バーベキュー用の炉も用意されている。浜も海もきれいで泳げるし、マリンスポーツ体験もいろいろできるし、遊び場所として申し分ない。その上プロのミュージシャンの演奏が只で聴ける。青春の頃であればもっと楽しめたはず。
     
     
     

 表題のトロパはトロピカルビーチ・ミュージック・パーティーの略らしい。私がそう略したのではない。宣伝ちらしにそうあるので正式な略称のようだ。感性の良い(と自分で言う)私ならそんな略し方はしない。私なら、Tropical beach Music PartyをTromupaとしトロムパ、ムが撥音便となってトロンパと発音し、宜野湾トロンパとしたい。
 トロンパは語感が良いので曲に乗せ易い。テーマソングもすぐできる。例えば、
 トロンーパッ、トロンーパッ、青空の下のマリンスポーツ
 トロンーパッ、トロンーパッ、潮風に吹かれバーベキュー
 楽しいね、楽しいな、笑顔はじけるトロピカルビーチ
 トロンーパッ、トロンーパッ、夕陽の中のミュージック
 トロンーパッ、トロンーパッ、夜空に開くファイヤーフラワー
 オジィもオバァも あの子もこの子も 踊りだしてるトロピカルビーチ
なんて感じ。いかがでしょう宜野湾市役所の担当者様、お礼はビールでいいよ。
     

 記:2016.9.29 ガジ丸 →沖縄の生活目次


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往年の名作・オジィの魔法使い

2016年09月23日 | ガジ丸通信-音楽・映画

 私は中学から高校にかけては映画大好き少年だった。母の職場が映画館を経営する会社だったことから毎月映画招待券を貰ってきていて、そのほとんどを私が使った。
 中学生の頃には、一緒に住んでいた従姉Mが「映画音楽大全集」というLPレコード10枚(もっとあったかも)組を購入し、それも私は何度も繰り返し聴いていた。大全集には名作と言われていた映画、アカデミー賞とかカンヌ映画祭とかベネチア映画祭とかで賞を取った作品の音楽が収められていて、まだ観ぬ映画を想像しては楽しんでいた。そういった往年の名作がリバイバル上映されると期待に胸ふくらませ観に行っていた。
 『サウンドオブミュージック』、『ウェストサイド物語』、『風と共に去りぬ』、『ベンハー』、『大脱走』、『史上最大の作戦』、『真昼の決闘』、『荒野の七人』、『荒野の用心棒』、『シェーン』、『大いなる西部』、『汚れなき悪戯』、『ロミオとジュリエット』、『エデンの東』、『チキチキバンバン』など、数え上げればきりがない。
 「映画音楽大全集」のお陰で、今でも覚えていて、口ずさめる映画音楽も多くある。例えば、とこれも挙げればきりがないので止す。中学3年生の時、クラスにYという西部劇マニアの友人がいて、互いに映画のタイトルを言い、そのテーマ音楽を口ずさむというゲームをやっていた。彼とは、ロバートレッドフォードが運転する自転車の前輪の上にまたがったキャサリンロスのスカートが捲り上がって中が見えたかどうかで話が盛り上がったこともある。その映画とは『明日に向かって撃て』、音楽は『雨に濡れても』。
     

 往年の名作と評価される映画で「観てみたい」と思った映画は若い内にその概ねはリバイバル上映か、テレビの映画番組かで観ているが、オジサンとなってからは邦画を好むようになり、特に小津安二郎の淡々が好きになり、派手な洋画は好まなくなった。
 それでも、最近、懐かしい映画タイトルを見て、ノスタルジーに浸りたいという気分になることもある。ノスタルジーに浸りたいって・・・オジサンからオジィになりつるある証拠かもしれない。近くの宜野湾市民図書館には古い映画のDVDも置いてある。この3年間でたくさんのDVDを借りて、まだ観ぬ往年の名作もいくつか観ている。
 『誰が為に鐘は鳴る』、『波止場』、『そして誰もいなくなった』、『ドクトル・ジバコ』、『王様と私』、『オズの魔法使い』、『お熱いのがお好き』、『ニューシネマパラダイス』、『ジキル博士とハイド博士』、『オペラ座の怪人』、『上海特急』など。しかしながら、この中で早回しすることなくちゃんと観たのは『オズの魔法使い』だけ。
     

 それまで生きていればの話だが、10年後、私は紛う事無きオジィになっている。もしも20年後まで生きていたとしたら、なおかつ、元気に畑仕事を続けているとしたら、作物を毎日眺め、勝手に生えてくる雑草も毎日眺め、作物に集ってくる虫たちを眺め、畑にやってくる鳥や他の動物たちと挨拶を交わし続けている私はきっと、ちょっとした魔法は使えるような白髪(禿げていなければ)白髭のオジィになっているはず。
 親戚や友人達の曾孫が時々訪ねてくる。オジィの魔法使い(私)は、畑のエダマメを少し収穫して、それを手で握りしめる。数分後に手を開くとエダマメは焼き上がっている。子供達はそれを見て「すごいぃ!」と言い、エダマメを食べて「美味しいぃ!」と言う。なんていう妄想もしたが、『オズの魔法使い』は今も紛う事無き名作だと思った。
     

 記:2016.9.23 島乃ガジ丸


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お国の為とは言えど

2016年09月23日 | ガジ丸通信-沖縄関連

 先週金曜日(16日)、国と沖縄県が争う裁判の判決があった。何が何でも沖縄に米軍基地を押し付けようとする国の言い分を裁判所も支持した。南の島の呑気なオジサンである私だが、そんな私もその結果を残念に思った。しかし、呑気なオジサンは呑気なので、家で料理をしながらラジオでそのニュースを聞いて、替え歌を思いついていた。
 元歌のタイトルは「可愛いスーチャン」、古い歌だ、調べると1945年頃に流行ったとのこと。私がこの世にやってくる前の歌だが、私はメロディーははっきり、歌詞は1番だけ覚えており、ギターを弾いて歌うことができる。その替え歌、
 お国の為とはいいながら 人の嫌がる軍基地を
 押し付けられてる哀れさよー 愛しいウチナーよ何処へゆく
     

 替え歌の次は妄想。
 嘉島仙世の先祖は小作人を数多く抱える大地主であった。先祖代々の土地は戦中戦後の混乱期に地籍が不明となったものもかなりあったが、それでもまだ、多くの土地が残されていた。それらのほとんどは畑では無く住宅地となって、民家が立ち並んでいる。
 戦後の混乱期、嘉島家の土地に承諾を得ず勝手に工場が建てられた。当時の家長であった祖父は文句を言ったが、工場は国の後ろ盾があり、借地料も支払うということで渋々認めることになった。工場で働く人の住まいのため祖父はさらに多くの土地を借地として提供した。仙世の父の代になると、嘉島家の土地以外にも人々が住み着くようになり、大きな道路ができ、住人のための店舗、病院、学校などもでき、辺りは賑やかになった。

 祖父の代に建てられた工場は町のほぼ中心にあった。化学薬品を製造する工場、煙突からは煙を出し、大量の汚水が下水へ吐き出された。公害が社会問題として大きく取り上げられた頃、父は工場から排出される煙や水について調査を求めたが、工場側は、最新の浄化装置を設置したので安全だということのみ言い張り、調査はうやむやにした。
 で、住民は怒った。工場撤去せよの運動が起こった。そして、工場側もついに移転を表明した。実は、工場側にとっては、老朽化した建物の建て替えと新設備導入が必要なことだった。しかし、そのことは伏せて「住民の安全のために我々は移転を決意しました。」と宣言し、「移転のためには新たな土地が必要です。町外れで良いので十分な広さの土地を提供して下さい。そうすればすぐに移転しましょう。」との条件を出した。工場側のこの手前勝手な提案に工場撤去を要求している住民達は怒りの声を挙げた。
 「何で我々が工場移設の為の土地を提供しなければならないんだ!」
 「たとえ町外れに移設したとしても、町外れに住む人々もいるんだ、国の利益のためならそういった一部の人間の犠牲はしょうがないということか!」
 「長い間、この町は工場のために不利益を被ってきたのだ、その不利益は国全体が責任を覆うべきものだ、なんでこの町だけが犠牲になるんだ!」などといった声。嘉島仙世は工場撤去運動市民団体の代表者の1人でもある。彼もまた声を挙げた。
 「私は自分の土地に公害の元凶があり、町の人達に迷惑をかけていることを心苦しく思っている。なので私は私の土地を返せと言っている、これは正当な要求だ。」と。嘉島仙世の怒った顔がスクリーンに大きく映って・・・ここで私の妄想はお終い。
     

 記:2016.9.23 島乃ガジ丸


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