ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

動けなくなる日は近い?

2017年09月29日 | 通信-環境・自然

 今年は9月になっても暑い。暑いのは例年のことだが、今年は一段と暑い。暑いと言っても7月8月の暑さに比べれば、まだ耐えられている。今年の7月8月は二段も三段も暑かった。毎日糞暑くて、根性無し農夫(私のこと)は毎日ヘバっていた。

 8月のある日、午前中の畑仕事を終えて行き付けの喫茶店に顔を出し、従業員のUさんに「歳のせいなのか知らないが、年々夏がきつくなってるよ」と話したら、「私もそうなのよ、歳のせいか、沖縄が暑くなっているのか知らないけど」との応え。Uさんは私より少し年上のオバサン、御亭主と2人で、家の小さな畑で農作業もしている。
 歳のせいもあるかしらないが、Uさんの言う通り沖縄が暑くなっているせいかもしれないと私も感じてはいた。で、沖縄気象台の(那覇の)観測データを調べる。
 2007年から去年2016年までの10年間、7月の平均最高気温は順に32.5、32.3、32.2、31.2、31.8、31.8、32.9、32.1、31.6、32.6となっている。2013年は突出して高いが、その他は概ね32.0前後。ところがどっこい、今年7月の月平均最高気温は33.2度、おそらく、確認はしていないが観測史上初の33度超えとなった。
 さらに8月の平均最高気温は、これも順に31.5、31.9、32.7、31.6、31.2、31.2、32.9、31.5、31.3、32.3となっており、32度台が2013年、2009年、2016年の3年で、それ以外の年は31度台である。ところがどっこい、今年8月の月平均最高気温は33.6度、おそらく、確認はしていないが観測史上初の33度超えとなった。
     

 台風18号は宮古島を中心に先島地方に大きな被害を与え、沖縄島の西方沖を通って倭国へ向かったが、9月13日から16日まで沖縄島もその影響で強風が吹き、断続的に雨が降った。そのお陰で暑さは幾分和らぎ、私も久々のぐっすり睡眠ができた。
 であるが、9月になっても12日までは糞暑かった。それは私の体がそう感じているのだが、これも沖縄気象台のデータを確認する。そして、それが正しいことが判明した。9月1日から12日までの12日間で何と、33度超えが7日もあった。
 13日からは台風18号の影響で一時期、一週間ほど、日の最高気温が30度未満となったが、19日からはまた30度台に逆戻り。19日から28日までの10日間はずっと30度台で、その内31度台が6日、32度台が3日あった。
 23日、ジーワ(クロイワツクツク)の声が聞こえた。夏の終わりを告げるセミだ。去年ジーワが鳴いたのは9月3日、白露の4日前、今年は白露の次の秋分となった。今年の9月の暑さをセミも感じているようだ。しかし、やっと鳴いたかと思ったら、鳴き声はその日の朝方の1回だけ、その後は今日まで聞こえない。彼らも13日から18日まで少し涼しくなったのを秋だと思ったのだが、その後の暑さに「あれーーーー?この気温どーしたのかなーーー、秋はまだなのかなーーー」と、土の中に戻ったのかもしれない。

 動物たちにカレンダーは無いはず。彼らは体で季節を感じているはず。体が「こりゃぁいかん」と感じたら避難するはず。人間の私にはカレンダーがあって、「今は9月だから種播きの準備しなきゃ」などと、体ではなく頭で考えて行動する。もしもこの先温暖化が進んだら、それでも私はカレンダー通り動けるだろうか?と少し不安を感じる。
     

 記:2017.9.29 島乃ガジ丸


カラオケスナックその2

2017年09月29日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 2005年12月6日付沖縄の生活記事『カラオケスナック』で、既にカラオケスナックについては紹介済みであるが、そのカラオケスナックは少々色っぽい雰囲気を持ったスナックで、その後、先輩のGさんやIさんに誘われ、色気のほとんど無い、歌が中心のカラオケスナックへ行っている。行くたんびに私は「カラオケは嫌いです」と先輩方に申し上げていて、そのたんびに、このブログでカラオケへの不満を書いてきている。
 私は20代の頃までは友人達との付き合いでカラオケスナックへ行き、マイクを握って得意げに歌も唄っていたが、30代頃から嫌になり、40代以降になるとほとんど行っていない。月に1回開かれる模合(モアイ、正当な理由のある飲み会)でも、ほとんどカラオケスナックとなる2次会には参加せず、さっさと帰っていた。
 ここ10年だとカラオケスナックへ行ったのは片手で数える程しかないはず。日記を調べると、最近では2011年2月にGさんと、同年3月と5月にAさんとカラオケスナックへ行っている。Aさんは「飲みに行きましょう」と誘うので、最初はカラオケスナックとは知らず、現場に着いてから「カラオケじゃねーか」と気付く。そういうことがそれまでに何度もあって、「カラオケは嫌いです」と言っている私をしつこく誘うAさんに少々腹を立て、5月の時は「つまらないので帰ります」と捨て台詞を残してさっさと帰った。以後、Aさんからカラオケスナックに誘われることは無くなった。

 先週土曜日(2017年9月23日)、Gさんに誘われ飲みに行く。連れて行って貰った店は久々のカラオケスナック。色気のほとんど無い、歌が中心のカラオケスナック。色気のほとんど無いと書いたが、チイママは30代半ばの美人、彼女が色っぽいことをすることは無いが、彼女自身には十分の色気があった。・・・美人の話では無かった。
 店には先客が2人、60代半ばのオジサンが2人いて、既にガンガンとカラオケ三昧していた。我々が店に入った後すぐに年配の男女が4人、年配とは、もう爺様と呼んでも良い80歳位の男性と、それより少し下の男性1人、女性2人。彼らも歌った。
 もちろんGさんも歌い、店のママさんもチイママも歌った。我々が店に入ってから1時間ほども過ぎた頃、美人が2人入ってきた。この頁は美人の話では無いので大雑把に言うと、1人は北海道から旅行に来たという50代、もう1人はその友人で沖縄在住の30代の美人。彼女たちも大いに歌った。私は聞きたくない音楽をさんざん聞かされた。
 これが6年前なら「つまらないので帰ります」となったのだが、今回はカラオケスナックの雰囲気にこれまでとちょっと違った気分を感じた。ので、耐えられた。

 年配のグループの80歳の爺様が、歌い終わった後すごく幸せそうな顔をした。その隣に座っている彼より何歳かは年下らしい彼の奥さんもまた、幸せそうな顔して歌った。その2人を見ていて、「いいなぁ、老夫婦でカラオケ歌って幸せなんだ」と感じ、「俺にもこんな女房がいたらいいなぁ」と思ったのだ。「これまでとちょっと違った気分」というのはそんな幸せ気分。よく見ると、他の年配の客たちも幸せ雰囲気であった。
 これまで毛嫌いしていたカラオケであったが、歳取ると好きになるかもしれない。昔懐かしのフォークソングを歌いに行くかもしれない。その時は古い友人たちと一緒か、古い女友達の誰かと1日老夫婦の契約で行くかもしれない。なんか楽しそうだ。
     
     

 その翌日の日曜日、沖縄へ遊びに来ている埼玉の友人KRと、沖縄在住で今ではほとんどウチナーンチュと化している宮崎出身のKYと3人で飲みに行った。一次会は栄町の焼き肉居酒屋、二次会は同じ栄町の餃子の美味しい居酒屋、そして、三次会は桜坂へ行き、古いスナックへ入った。そこは婆様2人で切盛りしていて、色気のほぼ無いスナック。おそらく、カラオケが流行り出した頃はエイトトラックを使っていたのだろうが、今は前の日に行ったカラオケスナックと同じ最新型のカラオケシステムを使っていた。
 カウンターに先客が2人いた。我々よりはずっと若いと思われるオジサンとオバサン。その2人と友人2人が次々と歌った。そこでは、前の日の爺様の歌で感じた幸せ気分はあまり無かったが、オバサン(たぶんアラフォー)は上手で、煩くは感じなかった。
 カラオケがどうのというより、その店の雰囲気は私好みであった。婆様2人がニコニコ笑ってユンタク(おしゃべり)してくれる。私としては、カラオケを少し抑えて貰って、婆様たちとのユンタクをもっと楽しみたかったのだが、まあ、人の好みはそれぞれなのでそこは我慢。いつか、古い女友達と夫婦のふりして飲みに行こうかと思っている。
     

 ちなみに、スナックとはスナックバー(snack bar)の略で「手軽に食事もできるバー」(広辞苑)のこと。バーとは、ここでは「カウンターのある洋風酒場」(同)のこと。カラオケスナックという言葉は広辞苑にないが、「カラオケを遊びの主要にしたスナックバー」(ガジ丸)のことと認識している。そういえば、私が若い頃のスナックバーでは、カラオケもあるにはあったが、遊びの主要ではなかった。おしゃべりが主要だった。

 記:2017.9.26 ガジ丸 →沖縄の生活目次


オオモンシロナガカメムシ

2017年09月29日 | 動物:昆虫-カメムシ・セミ

 地表でよく見る

 私の畑にカメムシの類はたくさんいる。例えば、フウセンカズラに群れるアカヘリカメムシ。ダイコン、キャベツ、カラシナなどに着くヒメナガメ。イネ科植物に着くホソハリカメムシ。ナス科の植物に群れるホオズキカメムシ。樹木の葉上でよく見るナナホシキンカメムシ。エダマメに群れるホソヘリカメムシ。サクナに群れるアカスジカメムシ。畑小屋周辺をウロチョロするビロウドサシガメなど、年に数度はお目にかかっている。
 上記のように季節によって、あるいは育てている作物によって見られる種類は異なるものが多いが、季節によらず、作物によらずよく見るカメムシもいる。

 オオモンシロナガカメムシはたいてい地表を歩き回っていて、畑でよく見かけるカメムシの1種。よく見かけて1度写真を撮って、それで済ませていたが、何度か見た内のその半分くらいは別種のオオシロヘリナガカメムシだったかもしれない。両者良く似ているらしいので、私には別種と気付かなかったのかもしれない。
 じつは、『沖縄昆虫野外観察図鑑』にはオオシロヘリナガカメムシが紹介されていて、最初は、私が撮った写真のものはオオシロヘリナガカメムシと思っていたが、オオシロヘリナガカメムシの説明文の中で、オオモンシロナガカメムシが良く似た近似種として紹介されており、私の写真のものがどちらなのか迷っていた。で、新たに西原町立図書館にあった『日本原色カメムシ図鑑』を参考文献に加え、調べてみた。
 同図鑑に「(オオシロヘリナガカメムシ)は前胸背側縁の隆起条が幅広く黄白色を呈す・・・オオモンシロナガカメムシにはそれがない」とあった。私の写真のものをマジマジと観察した結果、それはオオモンシロナガカメムシであろうと判断した。
 
 オオモンシロナガカメムシ(大紋白長亀虫):半翅目の昆虫
 ナガカメムシ科 本州~九州、沖縄島に分布 方言名:フー(カメムシの総称)
 名前の由来は資料が無く不明。カメムシは広辞苑にあり、椿象、または亀虫の漢字が充てられている。椿象は不明だが、亀虫はその形を亀に喩えたのだと思われる。ナガはナガカメムシ科という一群があり、体が細長いことからきていると思われる。
 オオモンシロに大紋白という字を充てたのは私の想像。今回から新たに参考文献に加えた『日本原色カメムシ図鑑』に「翅は・・・先端近くに不規則な白色の大きい紋がある」とあり、「大きい紋が白い」ことから大紋白ではないかと思われる。
 常時参考にしている『沖縄昆虫野外観察図鑑』には、オオシロヘリナガカメムシが紹介されていて、本種オオモンシロナガカメムシはその中で近似種として補足的に記載されているだけ。『日本原色カメムシ図鑑』には両者の違いが書かれており「(オオシロヘリナガカメムシ)は前胸背側縁の隆起条が幅広く黄白色を呈す・・・オオモンシロナガカメムシにはそれがない」とのこと。両図鑑の写真を見ると、両者は良く似ているが、オオシロヘリナガカメムシにはシロヘリがあり、オオモンシロナガカメムシにはそれがない。
 体長10~12ミリ。大型のナガカメムシとあったが、確かに、図鑑で他のナガカメムシを見ると、その大きさは4~8ミリのものが多い。分布は『日本原色カメムシ図鑑』に詳しくあり、本州、四国、九州、対馬、南西諸島、小笠原諸島とのこと。

 記:2017.9.16 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄昆虫野外観察図鑑』東清二編著、(有)沖縄出版発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『名前といわれ昆虫図鑑』偕成社発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『学研生物図鑑』本間三郎編、株式会社学習研究社発行
 『昆虫の図鑑 採集と標本の作り方』福田春夫、他著、株式会社南方新社社発行
 『琉球列島の鳴く虫たち』大城安弘著、鳴く虫会発行
 『日本原色カメムシ図鑑』友国雅章監修、全国農村教育協会発行


カメジロー

2017年09月22日 | 通信-音楽・映画

 畑仕事が全然間に合っていないので、休んでいる余裕はないのだが9月19日映画を観に行った。休んでいる余裕はないのに何故映画?かというと、手元に映画の只券が2枚あって、その期限が迫っていたからという理由による。いや、それよりもっと大きな理由がある。「観たい映画があった」という理由。観たい映画は『・・・カメジロー』。
 その日はしかし、映画『・・・カメジロー』の前にもう1本観た。特に観たいと思った映画ではなく、『・・・カメジロー』が始まる時間の少し前には終わるからという理由だけで選んだ『ボブという名の猫』、そういう理由で選んだので、その映画に関する感想は特にない。「麻薬中毒になったら立ち直るのに大変なんだなぁ」といった程度。
 何故、1日に2本も映画を観たか?については、那覇(桜坂劇場がある)に出掛けるのが面倒で、映画の只券2枚は1日で使ってしまおうと思ったから。
     

 さて、本命の『・・・カメジロー』、正確に書くと『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』という題、「米軍」には「アメリカ」と振り仮名がふってある。
 『ボブという名の猫』を観終わってエントランスホールに出ると、人がたくさんいる。チケットを買う客がずらっと並んで映画館の外にまで続いている。そして、『・・・カメジロー』を上映する、桜坂劇場では最も大きなホールA(2階にある)へ上がる階段に人がたくさん並んでいる。当初、火曜日(18日)に観に行く予定を立てていたが、『・・・カメジロー』は人気があると噂に聞いていたので、翌日に順延とした。平日でも並ぶほどの客がいる。並んでいる人々を見て気付いた。「あっそうか、カメジローを知っている人は私より年上の人達、既にリタイヤした人達だ、平日も休日も関係無いんだ」と。
 『ボブという名の猫』が終わって『・・・カメジロー』が始まるまでには20分ほどの時間差があって、その間に、近くの公園で一服する予定だったが、それは中止。チケットを買うのに並んで、ホールに入るまでも並んで、ホールAの中へ入る。客はそれでも七分の入り。七分はしかし、桜坂としては珍しい大入り。
 ホールAの入口にチケット確認する係員がいた。若くて美人だ、ということで私は声を掛ける。「今日は平日だから空いているかと思ったら混んでますね」と。
 「はい、お陰さまでありがとうございます。」と彼女は言って、中へ入る私の後に付いてきて、七分入りの中を見回した後、「でも、今日はまだ少ない方です。休日は満席になります。昨日までの連休も満席でした。」とのことであった。

 『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』のカメジローは瀬長亀次郎のこと。戦後から沖縄の日本復帰前後にかけて活躍した沖縄の政治家。瀬長亀次郎に私がキャッチフレーズを付けるとしたら「ウチナーンチュが最も愛した政治家」となる。
 「ウチナーンチュが最も愛した政治家」は、亡くなってから15年も経っているだろうか、今でもまだ人気は衰えないようである。入場者数は既に1万人を超えたとのこと。この先10月、11月、あるいは12月までのロングランを予定しているとのこと。ウチナーンチュの人権を守るために不屈の闘志で、非暴力の闘いを続けた政治家。そんなカメジロー(私の祖母は亀さんと呼んでいた)が今でも愛されている。それに私は大いに感動した。もちろん、何度も目頭が熱くなったほど映画にも私は感動し、大満足した。
     

 記:2017.9.22 島乃ガジ丸


余命1年

2017年09月22日 | ガジ丸のお話

 今年3月25日の深夜、午前1時過ぎに目が覚めた。いつものように小便。歳相応に私も頻尿になっている。であるが、小便で目が覚めるのはたいてい午前2~3時頃、「今日は早いな、昨夜水分(アルコール入り)を飲み過ぎたかな」と思いつつトイレ、ベッドに戻ってすぐに地震、ラジオを点けるとしばらくして情報があった。震度3とのこと。
 地震の前に目覚めるとは、小便のお陰ともいえるが、野生人を目指している私にもとうとう危険予知能力が付いたかと勝手に判断し、ニヤリと笑って、また夢の中。

 8月17日深夜、時計を見なかったので正確には知らないが、たぶん、午前1時か2時頃、ガラスの割れる大きな音に目が覚めた。眠いので横になったままま考えた。「何だ何が割れたんだ?部屋に割れるものはあるが、勝手に落ちるようなものは無いぞ、外か?庭に風鈴があるが、風鈴が割れるような小さな音ではないし、風鈴は今も鳴っているから割れてはいない、何だ何だ?あの世からのお知らせか?」と思いつつ、気にはなったが、起きて調べることはせず、眠いのでそのまま寝入ってしまった。
 ガラスの割れる大きな音の正体は翌朝、起きてから気付いた。食器棚のガラス戸が勝手に落ちていた。勝手に落ちた訳も判明した。何の不思議も無いことであった。
     
     

 危険予知能力が備わることはとても嬉しいことで、もしも、あの世からのお知らせがあったとして、それが「気をつけろ、もうすぐ大地震が起きるぞ」といったことならそれも嬉しいことで、「お前、そろそろ死ぬぞ」という知らせでも有難いと思っている。
 ところが、霊感なるものは私に無縁で、ユーリー(幽霊)、マジムン(魔物)の類に出会ったことはかつて一度もない。なので、そういう類の存在は信じていない。であるが、何かワサワサしているものがいる雰囲気を感じたことは過去に何度かあった。なので、そういう類の存在は「もしかしたらいるかも」といった程度には思っている。
 「もしかしたらいるかも」と思っているので、もしも母や父の霊が異次元のどこかにいて、この世のことをある程度感じることができるのであれば、と想像して、であれば、母や父、及び祖父母が喜ぶであろうと思い、時々位牌を訪ね供え物をしている。
 位牌は首里にある観音堂という寺に預けてある。年に何回位牌を拝みに行っているかを数えてみたら、正月(旧正)、旧盆は初日から最終日まで合わせて4回、祖父母、父母の命日4回、清明祭、春秋の彼岸、月見、冬至の計14回あった。平均月1回強だ、先祖も「まあまあ良くやっている」と喜んでくれているのではないかと思う。
     

 霊感なるものには無縁の私、と思っているが、かつて、若い頃から「ひょっとしたらそうではないか」といったようなことを何度か感じたことはある。
 母があの世へ行ってから今年は10年目、10月には満10年となる。じつは、母が逝く7ヶ月ほど前(2007年3月)から私の周りにワサワサ雰囲気があった。部屋の中で霊か何か判らないモノが運動会をしていて、煩くて(音を立てていたわけでは無い、雰囲気が何か煩く感じた)、夜中何度も目を覚まして、寝不足となる日が何日もあった。そのワサワサ感は三週間続いた。それから1ヶ月ほど経った4月20日、母が入院したと聞いて、病院へ行って担当医の話を聞く。母には膠原病という持病があり「余命1年」とのことだった。実際には、そう聞いた半年後の10月18日に母は亡くなった。
 それ以後、ワサワサ雰囲気をほとんど感じていない。あるいは、たとえ感じたことがあったとしても忘れている。オジサンとなってから霊を信じなくなっているので、多少のワサワサがあっても印象に残らず、すぐに忘れてしまう。例えば、父の死の前にもひょっとしたらワサワサ雰囲気があったかもしれないが、まったく忘れてしまっている。私の関心は母に対してはまあまああったが、父に対しては少なかったせいだと思われる。
     

 関心が濃いか薄いかでいえば、私は、父よりも母が好きであったことは確か。そして、同じ意味で言えば、母よりもなお、自分のことが好きである。これも確か。
 私は母より自分に関心がある。母の死の7ヶ月前にその予兆であるワサワサ雰囲気を感じたならば、より関心の深い私自身なら1年位前に予兆のワサワサ雰囲気はきっと現れるはず。つまり、私が次にワサワサ感を感じたら、その1年後が私のその日となる。
 ワサワサ感を感じて1年後ということは、今日ワサワサ感を感じたとしても私には残り1年の命があるということになる。1年あれば終活は余裕でできる。
 
 記:2017.9.14 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次