ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

静かなるNO

2014年03月28日 | 通信-沖縄関連

 母の生前、亡くなる2、3年前のことだったと覚えているが、ある日、「今日は私が御馳走するよ」と寿司屋に誘われた。「寿司屋なら飲むべ」とバスで実家へ行き、母の運転する車で寿司屋へとなった。夏休みで来沖していた義兄も同席した。その帰り、私はバスで帰るつもりだったので寿司屋を出て、別れを告げようとしたら、
 「送って貰えよ、お母さんは車の運転が好きなんだ」と義兄が言った。「この人は何を言っているのだろう」と思った。年寄りが運転好きなんて本気で思っているのだろうか?そのまま家に帰れば5分で済むのを、私を送るとなると40~50分は運転しなければならない。まして夜だ、緊張の運転を年寄りが好むと本気で思っているのだろうか?もちろん私は、義兄の言葉を無視して、母に手を振ってバス停まで歩いた。

 父の生前、亡くなる1年ほど前のことだったと覚えているが、ある日、実家へ顔を出すと、父と姉夫婦との間に何か言い合いがあったみたいで、父が自分の部屋に入り、義兄と二人だけになった時、「お父さんがはっきり意志表示しないからいけないんだ」と義兄が言った。何があったか訊かなかったが、姉夫婦が父に何か要求をし、父はそれを嫌がったが、姉夫婦が強引に進め、それを父が怒ったということだろうと推察された。
 姉も義兄も要求がしつこい。私も何度か嫌な思いをしている。「それは嫌だな」と断っても、しつこく要求し、自分の思い通りに事を運ぼうとする。2人ともアメリカ生活が永い。アメリカ社会はそういう社会なのかもしれない。拒否する時は大声で、時には怒りを顔に表してまで「NO!」と叫ばなければならないのかもしれない。
 ウチナーンチュの概ねは大人しい。他人に何か頼まれて、それが嫌であっても強く拒否することはあまりない。たいていは優しい声で「それはできません」となる。父も母もウチナーンチュらしくそういったタイプである。他人に何か頼まれた時、「嫌」とはっきり言うと相手が傷付くかもしれないという優しさである。それでも嫌な時は嫌と言う。嫌の言い方が「それはちょっと嫌だなぁ」といった具合で、優しく静かである。そういった言い方が姉夫婦の耳には拒否には聞こえないのかもしれない。
          

 ウチナーンチュは概ね大人しい。「怒り心頭に発する」ようなことはあまり無い。「怒髪天を衝く」ような表情をあまり見ない。私が生まれてこの方、少なくとも私の周りのウチナーンチュで激しい怒りを表した人は、勉強しない私に手を焼いていた母の数回と、感情を顕わにすることを少しも躊躇しない姉の数回を覚えているだけだ。
  「普天間基地は県外移設」と言っていた現沖縄県知事が、「5年以内に基地の運用停止を要求しているから・・・公約違反では無い・・・」などと訳の解らない曖昧答弁を繰り返しても、それに対しウチナーンチュ達の概ねは激しく怒らない。「普天間基地は県外移設」を公約に選挙を戦い当選した議員達が、その公約を撤回してもウチナーンチュ達の概ねは激しく怒らない。だけど、激しくは怒らないが、強く「NO」とは思っている。そして、静かに「NO」と言っている。拳を振り上げたらその時点で平和でなくなる。「静かなるNO」は優しさであり、平和を愛する心の表れだ。その声を聞いて欲しい。
 ※怒り心頭に発する=「激しく怒る」(広辞苑) 
 ※怒髪天を衝く=「頭髪の逆立った、ものすごい怒りの形相」(〃)
          

 記:2014.3.27 島乃ガジ丸


墓参り

2014年03月28日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 日常で会う機会の多い親戚、父方の従姉2家族、母方の従妹1家族には口頭で、訪ねると不在だった叔父にはメモで、会うことの少ない父方の別の従姉にはメールで、普段は顔を合わせることは無いが、盆正月には仏前を拝みに来る親戚の2家族と、滅多に会えない千葉の弟、東京の叔父、岐阜の伯母には手紙で、我が家のトートーメー(位牌)をお寺に預けたことをそれぞれ報告した。ちなみに、手紙の内容は写真を添えて、

 家の財産処理が無事終了しました。
 「三年忌が済んだら家を処分して兄弟3人で財産を分けなさい」という父の遺言をその通り執行するため動いたのは一昨年10月でしたので、1年4ヶ月もかかってしまいました。だいぶ疲れましたが、今は気分晴れ晴れです。
 トートーメー(位牌)については寺に預けました。
 場所は首里観音堂、〒903-0825 那覇市首里山川町3-1 です。

 この中で最も大事な情報は、トートーメーを預けたこと、寺の名前、場所であるが、私が最も言いたかったことは、「今は気分晴れ晴れ」であった。

 トートーメーについては既に紹介済みで、その説明文を要約すると以下。
 ・・・・・・
 トートーメーは「祖先の位牌」のことで、『沖縄大百科』によると「尊いお方を意味する尊御前が訛ったもの」と説明されている。トウトウイオマエからトートーメーということ。トートーメーは「祖先の位牌」のことであるが、それは別称であり、位牌のことはイフェーと言うのが普通らしい。私の周りではトートーメーという言葉を多く聞く。
 仏壇の上段正面に屏位(へいい)と呼ばれる上下二段の位牌を収める木製の棚のようなものがある。屏位に祖先の位牌が並べられている。上段が男性の位牌、下段が女性の位牌と決まっていて、位牌は縦8センチ、横2センチほどの長方形の薄い板で、朱漆を塗られている。表面に戒名、裏面に俗名、享年などが墨、または金泥で書かれてある。 
 ・・・・・・
 トートーメーは家督を継ぐ際に重要なアイテムとなる。というか、トートーメーを継ぐものが家督を継ぐものとおよそ決まっている。なので、トートーメーというと、一つ一つの位牌ではなく、たいていは、祖先の位牌を全て収めた屏位のことを指している。

  家督を継ぐ際に重要なアイテムとなるトートーメーであるが、私はそれをさほど重要視してはいない。祈る対象の便宜的な「形」と捉えている。以前、ある霊園の管理者から聞いたが、「トートーメーはお墓の代理みたいなものです。いちいちお墓へ行くことを簡略化するためにお墓の形を模したものを家に置いて、家で墓参りができるようにしたものです」といった内容であった。私もかねてからそう認識している。
 私が「トートーメーは寺に預ける」旨のメールを姉に送った時、姉から「トートーメーを寺に預けることは父が反対していた、T(姉の次男)に継がせるべきだ、あなたは親不孝者だ」といった内容の返信があった。「父が反対していた」については確かに、まだ倒れる前にそう言っていたのを私も聞いている。が、死期を悟って遺言を残す頃には、その処分を含めトートーメーは私に任すとなっていた。それはともかく、「親不孝者」については「何を言ってやがる」というのが私の思いだ、再返信はしなかったが。
 姉は年に1~2回帰省していた。姉の夫や息子も年に1回は沖縄にやってきた。息子は私が墓に連れて行ったことが数度あるが、姉もその夫も、一度だって墓参りをしたことがない。自ら墓参りをせず、その夫に「沖縄に行ったら私の代わりに墓参りをして」と頼むこともしない。そんな人に「親不孝者」と言われても「何言ってやがる」なのだ。
     

 墓参り、倭国の風習では「彼岸参り」というのがあり、春秋の彼岸の際に「彼岸会の7日中に寺院や先祖の墓にまいる」(広辞苑)とのこと。映画やテレビドラマでそういったシーンを何度か見ている。『フーテンの寅さん』でよく観たと思う。倭国ではまた、故郷に帰省した折に墓参りしたりする。それも映画やテレビドラマからの情報。
  沖縄の彼岸では、少なくとも沖縄島中南部の風習では「彼岸の墓参り」というのはないようだ。トートーメーに御馳走を供えるくらいで済ませるみたいである。
 沖縄の風習で「グソー(後生)の正月」となっているジュウルクニチ(旧一月十六日)では、清明祭の盛んな首里や那覇では墓参りなどせず、彼岸とほぼ同じくトートーメーに御馳走を供えるくらいだが、清明祭の盛んでない先島やその他の地域では重箱にご馳走を詰め、家族親族揃って墓参りをし、三線弾いて、歌って、賑やかに祝うらしい。
 墓参り、首里や那覇を含めた沖縄島の中南部では年に2回ある。清明祭が最も大きな行事で、ジュウルクニチの先島などと同じように重箱にご馳走を詰め、家族親族揃って墓参りをし、賑やかに祝う。三線弾いて歌う家もたぶんあるだろう。

 私が子供の頃は我が家のシーミー(清明祭)も賑やかだった。母方の叔父家族が来て、従弟妹たち4人、父方の伯母家族が来て、従姉妹たち3~4人、我が家の子供3人も合わせて10~11人の子供が集まり、賑やかに騒いで遊んだ。別の日(清明祭は二十四節季の清明の期間に行われる)に叔父の家の墓、伯母の家の墓でも集まって遊んだ。
  シーミーは母が死んだあと、父が死んだあとも続いている。シーミーをやる日を従姉たちと相談して決め、その前に私一人で墓掃除をし、当日に備えている。
 墓掃除をする日が年にもう一回ある。旧暦の七夕(7月7日)、この日もたいてい私一人で墓に出向き、掃除をしている。ということで、私は年に少なくともシーミー前の掃除とシーミー、七夕の掃除で3回は墓参りをしている。シーミーでは御馳走を供えるが、掃除の時は、掃除前に手を合わせ、掃除後にお茶と菓子と花を供え線香を点てるだけ。
 墓の中には先祖の骨壺が収められている。骨壷の中にはもちろん遺骨がある。その遺骨に対し手を合わせるわけである。なので、私に言わせれば、トートーメー(尊い御前)の本体は墓に眠っている。よって、位牌よりはこっちが大事と思うわけである。
     
     

 記:2014.3.27 島乃ガジ丸 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


幸せの種

2014年03月21日 | 通信-環境・自然

 私が借りている300坪の畑なっぴばる、そこから徒歩、往きは15分、帰りは10分ほどの辺りに1軒のカフェがある。なっぴばるからカフェまで往きも帰りも同じ距離なのだが、往きは上り坂、帰りは下り坂なので時間的にはその差がある。
 カフェの名前は「カフェイオンカ」、そこで先日、3月8日に「種と農と食のお話会」という催し物があった。参加費は3500円、貧乏人にとっては高額であったが、友人I女史から「ぜひに」とのお願いメールがあったので、清水の舞台から飛び降りるつもりで参加した。飛び降りたらそこには思いの外多くの実りがあって、大いに満足した。

  「カフェイオンカ」での「種と農と食のお話会」、講師は2人、2人とも解り易い言葉で語ってくれたので、何が問題で、何が大事なのか私にもまあまあ理解できた。これからどうすればいいかというヒントもいくつかあった。良いお話会であった。
 聴衆はざっと数えて35名ほど、女性が圧倒的に多く、男は年配の、イオンカと関わりのあるらしい農夫が1人と、若い男が3人、若くない男(私のこと)が1人、そして、店のご主人の合わせて計6人だけ。若い男のうち2人は自然農法を実践している農夫らしかった。どちらもたぶんウチナーンチュ(人相と話ぶりから)。私もウチナーンチュ。であったが、会場にいる人々、店の人も含めて、圧倒的に倭人が多かった。

 「種と農と食のお話会」への参加を私に強く勧めたI女史も含め、会に参加した人(35~40人)のほとんどは「食の安全」に重きを置いていると思う。私はしかし、自然農法を目指しながらも「食の安全」についてはテーゲー(大概)である。なので、隣の薬剤が風に乗って私の畑に降りかかっても、それが微量であればちっとも気にしない。
 ウチナーンチュは概ねテーゲー気質である。テーゲーは「てきとう」と捉え、「きちんとしていない」とも解釈できるが、「程良い」と捉え、「ちょうど良い塩梅である」とも解釈できる。いずれにせよ、「そんなに厳しくしなくても」という気分だ。よって、「食の安全もそんなに厳しくしなくてもいいさぁ」となり、で、食の安全に厳しそうな「種と農と食のお話会」にウチナーンチュの参加者は少なかったのであろうと思う。
          

 さて本題。300坪の畑で私が目指している自給自足は、外からなるべく何も入れずに作物が採れること。何も入れずの「何」は肥料類もあるが、大本の種もある。
  肥料は今の所、有機堆肥、腐葉土、父が残した鶏糞がある。鶏糞は液肥にしたものを育ち盛りの作物にたまにかけているが、今ある分が無くなったらもう買うつもりはない。有機堆肥と腐葉土は苗木の植付け時や育苗用の土作りに使っている。果樹園と薬草園が概ね仕上がるまでそれらはまだしばらく使う予定。私の自然農法もテーゲーだ。
 種は自家採取で賄うことを当初から予定している。去年育てた作物の内、ウズラマメ、ミヤコジマアズキ、ダイコン、シュンギクなどを自家採取し、それぞれ播いてみたが、ダイコンとシュンギクはまったくダメ。それらはF1と呼ばれる一代交配種で、採取した種は発芽しにくいとのこと。F1の種はまた、放射線照射したもの、化学薬品に漬けられたものなどがあるとのこと。つまり、自然の種では無いということ。私の自然農法はテーゲーだが、種に関しては拘ってみようかと思っている。きっと幸せの種になるはず。
          

 記:2014.3.21 島乃ガジ丸


耐性人

2014年03月21日 | ガジ丸のお話

 耐性人誕生

 先々週参加した「種と農と食のお話会」ではTPPの問題も一つ提起された。豆腐などを買うと原材料名に「大豆(遺伝子組み換えでない)」と今は表示されているが、農産物が完全自由化されると「遺伝子組み換えでない」が表示されなくなる可能性がある。そうなると、我々は安全かどうか不明なものを知らずに食べることになる。
  遺伝子組み換え作物だけでなく、種子の段階でいろいろ化学処理された作物、収穫までの間にいろいろ化学処理(殺虫剤や除草剤を撒くなど)された作物も現在既に氾濫しているので、食の安全はこの先ますます厳しい状況になっていく。
 などといったことを講師の2人は話していた。
     

 「種と農と食のお話会」に参加するよう勧めてくれた友人のI女史、彼女は料理屋の女将であり、自ら料理して客に提供する立場であることから「食の安全」には深い関心を持っているようだ。「隣近所の農薬も無くなってくれるといいのにね」と私の畑の作物の心配もしてくれている。でも、じつは、私の畑は自然農法にこだわるが、隣近所の畑が除草剤撒こうが、殺虫剤撒こうが私は何の文句もない。それによって、私の畑にも風に乗って微量の薬剤が降りかかっているかもしれないが、それでも構わない。
 農夫としても人間としても、隣の人は私の大先輩だ。その人に文句を言えるほど私は農夫としての経験も知識もない。「自分が嫌だから」といって、「私の言う通りにしろ」なんて言えない。自分の畑で何をどう作るかはその人の自由である。

 同じことになるが、「種と農と食のお話会」の内容、例えば「市販の種は化学処理されていて安全ではない」といったことなど、大宜見で有機農業をやっているTさんも興味があるだろうと思い、先日、その旨電話した。Tさんはむろん興味を示し、その時の資料を郵送することになった。本題はそれで終わったが、話の中で「隣近所の農薬について私はさほど厳しくないですよ、隣人と仲良くすることの方がもっと大事と思っている」といったことを言うと、「そんなことでは安全な野菜はできない」と、いつになくきつい口調で意見された。「食の安全」について真摯に取り組んでいるんだなぁと思った。
 「食の安全」ももちろん大事だが、私はそれより優先するものがあると思っている。何よりも先ず、自由と平和。それから幸福。世の中が平和で、個人の自由が束縛されないのであれば、幸せは個人の裁量と努力で得ることができる。
     

  幸せの形はいろいろあると思うが、健康はその一つだと思う。健康のためには「安心安全」な食べ物が大いに役立つ。つまり、食の安全は健康のため→健康は幸せのため→幸せは自由と平和が保たれていれば掴むことができる、という順序になる。
 私の幸せのハードルは低い、元気で食っていければ良い。食うのも粗食小食だ。世界中の多くの人(特に飽食人種たち)が私と同レベルのハードルであれば、食料が不足することは無いはず。科学的処理(薬も遺伝子組み換えも)しない自然の、昔から伝わる種から生産される量の作物で人々は生きていけるかもしれない。
 しかし現実は、飽食人種たちの欲望は留まることなく続き、科学的処理された作物がさらに増えていくだろう。そして、そういった作物を食べ続ける人類は自然治癒力が衰え、生きる力が弱まって行くかもしれない。いや、あるいは・・・、

 耐性菌を広辞苑で引くと「ある薬物に対して強い耐性を有する細菌」とある。耐性を持たなかった細菌が生き延びるために変異してそうなったのだろう。であるならば、人間の細胞にも「生き延びるために変異する」力はあるはずだ。農薬のたくさんかかった野菜を食べ続けても、あるいは、遺伝子組み換え作物を一杯食べ続けても元気で生き続ける人間がそのうち出てくるはずだ。彼らはつまり、耐性人ということになる。
 例えば、花粉症なんて私が東京に住んでいた35年ほど前はちっとも耳にしない言葉だった。化学肥料で育った軟弱野菜を食べ続けて免疫細胞の衰えた人々が罹っているのだろうと思っている。でもしかし、軟弱野菜を食べ続けても次世代の人間に花粉症は減っているかもしれない。細胞が変異し花粉症に強い耐性人が誕生しているかもしれない。

 耐性人クーデター

 耐性人誕生は人類の進化といえる。自分で掘った落とし穴に自ら落ちて怪我をしているのが現代の人類なら、次世代の人類は、前世代の人類が掘った落とし穴に落ちたとしてもほとんど怪我しないような体になっている。
 前世代の落とし穴は様々な種類がある。食でいえば上述したように遺伝子組み換え、農薬、、化学肥料、科学処理された種などからできた作物。それらは知らず知らずのうちに人間の体を蝕み、病気という落とし穴に引きずり込んでいる。
 耐性人はそれら全てに耐性を持っているから、彼らにとってはさほど危険ではない。柔らかくて味の薄い野菜をどんどん消費していく。柔らかくて味の薄い野菜に不足しているビタミンやミネラルなどの栄養素はサプリメントで補う。それで彼らは健康な体を保っていける。「すげぇ!」と一般庶民は思ったが、「しまった!」と思う奴らもいた。

 思惑が外れたのは、農薬漬けや遺伝子組み換えなどの不健康野菜が世の中に蔓延るよう画策していた支配者階級の人々だ。彼らは、一般庶民には不健康野菜を食わしておきながら、自分達は雇いの農家に作らせている健康野菜を食っていた。
 彼らの思惑はこうだ。庶民の人口は減らないで欲しいが、長生きはして欲しくない、子供を産み、育て終わり、労働力としての価値も消えたらさっさと死んで欲しい。人口は減らないで欲しいのでそれを賄うだけの食料は生産する必要がある、で、遺伝子組み換え技術などによって大量生産できる作物を世に蔓延らせた。そして、その作物を食べ続けていったら長生きできない、70歳位でぽっくり死ぬようにも仕組んだ。なのに・・・。
     

  世界は、前世代人たちが滅びいく中、耐性人がどんどん増えていく。耐性人は元気だった。よく食べ、よく働き、そのうち政財界の実力者となるものも出てきた。耐性人にとって「健康野菜」と「不健康野菜」の区別は「健康」か「不健康」かでは無く、「非効率で値段が高い」と「効率的で安い」である。「効率的で安い」は経済的に優位で、政治的にも優位となる。数だけでなく力においても耐性人は前世代人の優位に立った。
 そしていつのまにか、世界の支配者層も耐性人が独占するようになる。自分たちだけが健康で長生きできるようにと思っていた旧支配者層たちであるが、その子供たちに耐性人が産まれることはなく、そのうちこの世から消え去ってしまった。この支配者層の交代劇を「耐性人の無血クーデター」と後の人々は語り伝えた・・・というお話でした。

  ちなみに、日本の江戸時代の隠れキリシタンみたいに、密かに「健康野菜」を自ら作り続け、自ら食べ続ける庶民の一派もあった。彼らにとって「健康野菜」と「不健康野菜」の区別は「健康」か「不健康」かというよりも、「美味しい」か「不味い」かである。
 彼らの中の一家族の、ある日の夕食の席、
 「母ちゃん、昨日、晋三くんの家で誕生会があったさー、その時に出されたサラダの野菜さー、トマトもレタスもキュウリもみんな変な味がしてさー、美味しくなかったよ。母ちゃんのサラダが一番だな、やっぱ。」と子供が言った。
 「昔ながらの野菜には栄養がたっぷりだからねぇ、食べても美味しいのよ。それよりも大事なのは、食べ物に感謝して、楽しく頂くこと。幸せを感じながら食べるとね、体も心も元気になるのよ。食べられる野菜たちも嬉しいと思うよ。」と母が応えた。
     

 記:2014.3.11 島乃ガジ丸 →ガジ丸のお話目次


体を傷つけるもの

2014年03月13日 | 通信-科学・空想

 2週間ほど前、友人のタクシー運転手Hと久々に会った。去年の暮から2、3度電話したが、取らなかったのだ。それには訳があった。「脳梗塞の疑いで入院していた」とのこと。「俺たちもそんな年齢になってしまったか」と溜息が出た。
 それから10日後の先週水曜日、友人のMから「Kが心筋梗塞で緊急手術となった」旨のメールがあった。メールをくれたMも数年前から原因不明の発疹が手に出て、今も治療中だ。HもMもKも高校の同級生。オジサンたちはこれまで生きてきた間に受けたあんなこんなの傷が溜まっていて、それが病気となって現れる歳、なのだと思った。

 これまで生きてきた間に、すぐに気付く表の傷がたくさん、すぐには気付かぬ内の傷がたくさん、体のあちらこちらに我々はたぶん受けている。それらの傷は治るものもあり、治らず溜まってしまうものもある。例えば、体の内部でいうと、血管の不具合(動脈瘤とか、血栓とか、小さな出血とか)は何度も(私が思うに、頻繁に)起きている。体の自然治癒力に関わる栄養やら細胞やらが頑張ってそれらをいつも治してくれている。
  であるが、何らかの原因で免疫力が弱っている時などは、それらの傷は残る。残った傷はたとえ小さくても、傷の上に傷が重なり、いつか命にかかわる大きな傷となる。
 免疫力を弱める何らかの原因の一つにはたぶん、「食の乱れ」があると思う。薬漬け栄養不足の野菜や穀物を食べ続けることによって、我々は生きる力を弱くしている。私が農業を始めるにあたって自然農法を目指したのは、「昔ながらの栄養豊富な野菜を食っていたい」という想いが強かったからだ。それで免疫力が強くなれば、多少の無理はきくだろうと思ったからだ。タバコ吸ってもいいよね、酒飲んでもいいよね、ってこと。
           

  タバコも酒も体に負の影響を与える。少々は良いが過ぎるとダメらしい。ではあるが、私が思うに、タバコも酒も心には良い影響を与える。もちろん、憂さ晴らしでがぶ飲みする酒はダメだし、チェーンスモーカーみたいな吸い方はダメ。酒は楽しく飲んでこそ心の薬になる。肉体労働で汗をかいての休憩時間、クルザーター(黒砂糖)を齧って、お茶を飲んで、空を見上げて一服する。その時のタバコもたぶん、心の薬になる。
 私は医者でも無ければ科学者でも無い、体の仕組みと健康について詳しく調べた訳でもない。よって、それについて自信を持って何か言えるような立場では無い。私が語ることはテーゲー(大概:いいかげん)である。と断っておいて言いたいことを言うと、
 人が受ける心の傷、パワハラ、セクハラ、モラハラ、虐め、期待の重圧など、まとめて言えばストレス、それから受ける心の傷は体にも悪影響を与え、病気の元になる。

 従姉のM姉さん、I姉さんは共に心に傷を負い、M姉さんは体全体に、I姉さんは言語に不具合がある。どちらも前夫との不具合関係(DV等)が原因だと聞いている。伯母の告別式の日、M姉さんの妹K子が来ていたので話を聞くと、「もうほとんど家に閉じ籠り放し、歩くのも100歳の婆さんみたいだよ」と言っていた。M姉さんはまだ60代半ばだ、心に受けた傷がいかに深いものだったかということが想像された。
 言語に不具合があるI姉さん、離婚して里に帰り、しばらくして体は元気になった。でもまだ、上手くしゃべれない。心の傷が脳の傷として深く残っているのだろう。
          

 記:2014.3.14 島乃ガジ丸