ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

日本の良心『沖縄決戦』

2012年07月27日 | 通信-音楽・映画

 ここ数年、映画を観に行くことが減った。年に2~3本となっている。首里から宜野湾市我如古へ引っ越してからは、那覇に出ること自体億劫になっている。那覇にある実家へ週に1回、窓を開けたり、ベランダの鉢物に水をやったりしているが、それも面倒に思っている。畑に出る方がよほど増し、と私の心と体は感じているようだ。
 映画を観に映画館へは行っていないが、その代わりというか、宜野湾市立図書館でDVDやビデオを借りて映画は観ている。ここ最近は特に戦争関連を多く観た。

 『激動の昭和史 沖縄決戦』もその一つ。

 ビデオの裏表紙に映画の紹介文がある。そっくりそのまま引用すると著作権に関わるかどうか不明だが、映画の宣伝にもなると思うので許していただきたい。
 「1945年4月1日、米軍は沖縄を強襲した。海の色が見えなくなるほどの上陸用舟艇が嘉手納海岸に殺到する。日本軍にはもはや、これに対抗できる戦力はなかった。不沈戦艦と謳われた大和が特攻し、爆弾を抱えた戦闘機が米艦へ体当たりする。地雷をかかえ、戦車の前に身を投じる学徒兵。追いつめられたひめゆり部隊の集団自決・・・。沖縄の悲惨な戦いを再現した戦争映画超大作。」・・・流れはだいたいその通り。

 沖縄島上陸の数日前、3月26日に米軍は慶良間諸島に上陸し、地上戦はそこから始まる。既に大本営は沖縄を見棄てており、主力部隊を沖縄から引き上げている。沖縄戦は本土決戦を免れるための時間稼ぎと位置付けていたのだ。
 映画は慶良間諸島の集団自決を描き、以降、各地で悲惨な戦闘、殺戮される日本兵や沖縄民間人、自決を余儀無くされる人々を描き続けて行く。人々が死んでいく、人々が死んでいく、人々が死んでいく、画面の多くはそうであった。
 仲代達矢演じる高級参謀が、「勝てない戦、沖縄玉砕覚悟の時間稼ぎ戦」にそれでも一所懸命作戦を考える。考えながら彼にはずっと虚無感が漂っていた。それが印象的。

  東宝の製作で1971年7月に公開されている。監督は岡本喜八、脚本は新藤兼人、二人とも、私でも知っている有名な映画監督。出演者もまたオジサン年代にとってはオールスター総出演みたいで、小林桂樹、丹波哲郎、仲代達矢、加山雄三、酒井和歌子(可愛かったなぁ)、大空真弓、池部良、神山繁、岸田森、地井武男などなど。
 逃げた前知事に代わって赴任した島田知事(神山繁)、司令官牛島中将(小林桂樹)などは死を覚悟しての沖縄で、真摯に職務を遂行する。彼らには誇り高き侍を感じる。誇り高き侍であり、沖縄の行く末までも案じた海軍陸戦隊司令官大田少将(池部良)や、一緒に死なせてと言う女学生たちを追い払って自決した一兵士(地井武男)などはチムグクル(人を思いやる心)も兼ね備えた日本人だ、日本の良心を感じさせる。
 映画はまた、日本兵による集団自決の強要も描き、沖縄人に対する日本兵の酷い仕打ちも描いている。島田知事や大田少将、地井武男演じる一兵士らの生き様が史実であったかどうかは確認不要。日本の良心は今も昔も存在し、日本の悪心だっていつの世にも存在する。岡本喜八が日本の悪心も描いていること、それ自体が日本の良心とも言える。
          

 記:2012.7.27 島乃ガジ丸

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行


バナナ

2012年07月27日 | 飲食:果物・菓子

 多くても大丈夫

  宜野湾の畑、ナツヤにはバナナが20株ほどあって、今、7、8房の実を着けている。7月初めにその実の多くが黄色に熟していた1房を収穫した。1房には100~120本の実が着いていて、私はその中から20本ばかりを頂いた。
 仮に借りている西原の畑、ナッピバルにもバナナが数株あった。7月7日、去年までそこを借りていた友人のTが畑を案内してくれた際、奥にあったバナナの前に来ると、2房の実が着いていた。実はどれもまだ青かったが、その中から40本を頂いた。

 バナナは概ねTがやったように青いうちに収穫し、青いうちに店頭に並べる。ナツヤのバナナは店頭に出すことは無く、自家消費なので黄色く熟すまで収穫はしない。
 Tのようなプロが何故青いうちに収穫するかというと、熟すると、鳥やコウモリに食われるからである。また、熟するといろんな虫が付いて、見た目が悪くなるからでもあると思う。自家消費の場合は、見た目は気にしない。鳥やコウモリに食われるのは困るが、1房100~120本のうち、数本が食われているのを見たら、「おっ、もう食べ時だ」と判り、収穫するわけである。120本を自分たちだけ(親戚知人に配るのも含め)で消費するのも大変なので、数本くらいは食われても構わないのである。

  果物の中でバナナは私の好物の一つで、去年までは時々買って食べていた。ところが今年の初め、ヤンバル(沖縄島北部の通称)の無農薬有機農家Iさんを訪ねた際、
 「収穫後にバナナは農薬にどぶ漬けされる、それを見てからはもう市販のバナナが食えなくなったよ」とIさんが語り、以来、私も市販のバナナを避けていた。
 ではあったが、市販で無い、収穫前も収穫後も一切の農薬を使っていない自分の畑のバナナならば何の心配も無い。ナッピバルのバナナも心配は無い。
 宜野湾の畑からはその後も10本ばかり収穫し、お陰で私は、7月初めからほとんど毎日バナナを2本以上食っている。それでもバナナに飽きることは無い。
 バナナは黄色くなって、黒点がぽつぽつ出た時が食い時である。であるが、房のバナナはほとんどが一遍にそうなる。一遍に20本も30本も食えない。バナナはしかし、皮の付いたまま冷蔵庫に入れると早く痛むし、常温で放っておくと溶けてしまう。ならばどうする?・・・保管方法はある。皮を剥いてラップに包んで冷蔵庫に入れとけば良い。風味が落ちること無く暫くは持つ。今、私の冷蔵庫にはそうやって10本ほどある。
      
      
 バナナ(banana):果物
 バショウ科の多年生草本 原産は熱帯アジア 方言名:バサナイ
 バナナといえば日本では果物であり、店頭に並ぶのもそうであるが、バナナを重要な主食として利用している国々もある。主食として利用されているバナナは甘くないらしい。カンショ(芋)の項でも述べたが、甘いものは主食になりにくいようである。主食になるバナナは、リョウリバショウという甘味の少ない品種とのこと。
 日本で普通に食されているバナナは果物として利用されている品種で、果実は熟すと黄色になり、芳香があって甘味が強く美味。

 記:2012.7.18 ガジ丸 →沖縄の飲食目次


雑草と太陽と土

2012年07月20日 | 通信-環境・自然

 300坪の農地を今、仮に借りている。「仮に」というのは地主さんの御好意だ。
 「いままで30坪ほどの畑をのんびりやっていました、素人農夫です。」
 「それなら急に300坪の畑は大変でしょう。しばらくやってみて、あなたができそうだと思って、長く続ける気持ちになってからでいいですよ、契約は。」
 ということであった。ありがたいことだ。いや、まったく「できる」という自信を持てる根拠はなにも無い。一人で手作業(機械を使わない)のつもりだ。それで、無農薬有機栽培を目指す。体力が持つのか、病害虫に勝てるのか、作物は順調に育ち、それなりの収穫はできるのか、どれも五里霧中、「とにかくやってみる」しかない。

 仮に借りている畑に、「仮」ではあるが早速名前を付けた。ナッピバルと言う。ウチナーグチであるということが判るように片仮名で書いたが、もしも看板を掲げるなら「なっぴばる」と平仮名にしたい。音として柔らかいので、見た目も柔らかくしたい。
 ウチナーグチの慣用句に「ナイルウッピドゥナイル」というのがある。「成る分だけ成る」という意。つまり、「できる程しかできない」、「できる以上のものは求めない」となる。いかにも怠け者のウチナーンチュらしく、「何が何でもできる以上のものを得てやる」という気概が無い。しかし、「自然に任せる、自然と共に生きる」とも捉えることができる。「無理しない」は我が身だけで無く、自然に対しても言っている。
 畑の場合で言えば、太陽も風も気温も雨も人間の無理が効くものでは無く、人間の手を加えることのできる自然は大地となる。よって、「自然に無理をさせない」は「大地に無理をさせない」ということだ。大地になるべく手を加えないようにと思っている。

  これまでの30坪の畑でも(概ね)無農薬有機栽培であったが、除草はこまめにやっていた。コウブシやカタバミ類の根絶はとうに諦めているが、ハイキビ、ススキ、センダングサ類は見つけたらすぐに除去し、今のところそれらはほとんど無い。
 それらはほとんど無いが、コウブシやカタバミ類の他、チドメグサ、オヒシバ、メヒシバ、ハイクサネム、マツバゼリ、オニタビラコ、タンポポ、ハイニシキソウなどがあちらこちらにがあり、木の下、バナナ畑の周辺、敷地の隅っこなどには多くある。
 300坪の農地を借りるのはまだ先のことと 思っていた先月下旬のある日、宜野湾の畑の、普段は放ってある木の下、バナナ畑の周辺、敷地の隅っこなどに蔓延っている雑草の除去をやった。沖縄の夏は収穫、植付などがあまり無く、どちらかと言うと農閑期にあたり、やることが無い。ので、いつもはやらないことに取りかかったのであった。

 4月下旬にシマラッキョウを収穫した個所を5月下旬に耕した。すると、シマラッキョウを植える前はホクホクしていた柔らかい土が、その時は酷く固くなっていた。私は、作物が土壌の養分を消費したせいで固くなったのかと思って、有機農家の知人Tさんに電話し、その旨尋ねた。「収穫した後、土壌を太陽に晒しっ放しだったのが原因だよ。土壌はなるべく日に当てないようマルチングした方が良い」とのことであった。
 木の下、バナナ畑の周辺、敷地の隅っこなどの雑草の除去をしている時に気付いた。そこの土は柔らかかった。雑草は太陽から土を守っているようであった。
          
          

 記:2012.7.20 島乃ガジ丸


古酒の店

2012年07月20日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 今年3月の模合(もあい:正当な理由のある飲み会)はメンバーの1人Tが発掘した店で、泡盛をメインとした飲み屋。名前を「名もなき店」という。
 その飲み屋が、沖縄広しと言えど(広くはないか?)そうは無い店、たぶん、他に類を見ないのではないかと思われるような店。酒好きの私は、酒飲んで感動することがある。あるといってもまだ日本酒で2度、ウィスキーで1度、泡盛で2度、今思い出せるだけで言えばその5度だけ。しかしその日は一晩で3度も感動した。
 日本酒の2度はどちらも極上の吟醸酒で値段も高かった。ウィスキーの1度はスコッチの30年物、これも高かった。泡盛の2度はどちらもクース(古酒)、これもまた高価なもの。思えば、10年ほど前までは高価な酒もまれにだが飲む余裕があったのだ。今はもうビールをけちって発泡酒しか飲めない日々となっている。

 私の落ちぶれた話はさておき、「名もなき店」で一晩に3度も感動した酒はいずれも泡盛のクース、クースとは泡盛を3年以上寝かしたものを言うが、『沖縄大百科事典』の記事を借りると、「泡盛を長期間密閉容器に貯蔵した酒。ことばでは表現できないような芳香を発し、ほとんどアルコール味を感じさせないまろやかな甘味を呈する酒」とある。この記事を書いた人はこよなく泡盛を愛し、極上のクースを飲んだ人なのであろう。
 その辺のスーパーに行けば、クースは手に入る。安いものだと一升瓶で3千円位のものがあるが、四合瓶で数千円のものも含めて、その程度では「ことばでは表現できないような芳香を発し、ほとんどアルコール味を感じさせないまろやかな甘味」には至らない。四合瓶で1万円を超えるものだと、「うむ」と肯き、笑みも漏れる。

  さて、「名もなき店」で一晩に3度も感動した酒はいずれも「芳香を発し、ほとんどアルコール味を感じさせないまろやかな甘味」であった。「芳香」は、泡盛の持つアルコールの刺激臭が微塵も無く、上品に甘い。うっとりする甘さ。私が言葉にすれば「和装の吉永小百合がにっこり微笑んで出してくれた上品な和菓子の匂い」となる。
     

 「どこからこんな旨いクースを手に入れるのですか?」と店長に訊いた。
 「店じまいするマチヤグヮーをあちこち回って入手しました」との答え。

  マチヤグヮーとは小売店であり、今のコンビニのようなもので生活に必要ないろいろなものを置いてある店。倭国でいう雑貨屋に近いかもしれない。そこはまた、その横町の情報が集まる場所であり、横町の人々が情報交換をし、ただユンタク(おしゃべり)する場所であり、店主と客の数人がお茶を飲みながら時間を過ごす場所でもあった。
 マチヤグヮーはコンビニに押され、しだいに少なくなった。つまり、マチヤグヮーはどんどん店じまいしていった。マチヤグヮーのほとんどは酒も販売していて、泡盛も多く置いてあった。古いマチヤグヮーには当然、売れ残りの古い泡盛もあった。
 泡盛のクースは概ね甕に貯蔵して何年も寝かせるのだが、瓶の泡盛でも環境が良ければ旨いクースになるらしい。それを店長は狙って、買い入れたのだそうだ。他にも酒造元が何かの記念で出したビンテージ物を買い、それらも長く保管しているとのこと。
 泡盛をこよなく愛す店長のいる店、酒の好きな人は肴もおろそかにしない。クースがあまりに美味くて何を食ったか覚えていないが、肴もたぶん美味しかった。
     

 記:2012.7.8 ガジ丸 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『泡盛の文化誌』萩尾俊章著(有)ボーダーインク発行


テントの下の献身:高江

2012年07月13日 | 通信-沖縄関連

 辺野古高江へ最初の訪問をしたのは6月2日(土曜日)、その一週間前の5月26日に映画『ラブ沖縄』を観て、沖縄のために献身している人々を激励しなくちゃあと思って出かけた。沖縄に遊びに来ていた埼玉の友人Kと、彼の同僚Tさんが同行。
 じつは、Tさんは子供の頃以来の、30年ぶりだったかの沖縄ということで、私が映画『ラブ沖縄』を観る前までは、海洋博公園の「ちゅら海水族館」などの観光を予定していた。私の一存による予定変更だが、二人とも快諾してくれたのであった。
 辺野古高江へ2度目の訪問をしたのは6月30日(土曜日)、私の畑の近くに住んでいて、今年になって懇意にして頂いている平和運動家の爺様Hさんと、彼と一緒に暮らしている婆様Mさん(二人は夫婦では無い)に頼まれてのこと。たまたま沖縄に出張で来ていた鹿児島の友人Nが「土曜日空いている」というので彼も同行した。 
 高江は2007年7月2日から座り込みを開始している。2度目の訪問の翌日、7月1日には6年目を迎えることを記念してのパーティーがあると言う。辺野古もだが、非暴力の座り込みで5年間も基地建設を阻止し続けている。何という強さ!だと思う。
          

  高江の座り込み運動をしている団体は、手元の資料を見る限りでは「ヘリパッドいらない住民の会」のみ。その会には、以前は代表を置いていたらしいが、今はいない。それは何故かということを聞き忘れたが、代表を置くと、その代表が狙われるからではないかと思われる。リーダーの動きを封じて、運動を衰退させようと考える奴がいるのでは。
 ヘリパッドが作られると、近辺住民に害(事故や騒音など)が及ぶ。なので住民は当然嫌だと思う。ヘリパッドはまた、ヤンバルの自然にとっても害だ。なので当然、自然を愛する人々も嫌だと思う。嫌だと思えば抗議し、建設を阻止しようとするのは当然の行為である。その行為に対し国は「工事を妨害している」と裁判所へ訴えたらしい。その裁判で被告とされた14名の内、以前会の共同代表であった2名が有罪となったらしい。

  私が訪れた6月2日も6月30日も、高江はのんびりとした雰囲気であった。何故かと訊くと、「6月まではノグチゲラの繁殖期なので工事は行われない、7月からは我々も24時間態勢となり忙しくなる」とのこと。ノグチゲラとは世界でもヤンバルの森にしかいない貴重な鳥(キツツキの仲間)、彼らも建設阻止に加勢しているようだ。 
 10日(火曜日)、座り込みの人々の隙をついて、防衛局の車両が工事車両搬入のために高江のゲート前に陣取り、「作業を再開した」とマスコミに発表した。でもまだ、少なくとも今のところ工事再開の動きは無いとのこと。テント下の献身は続いている。
 最後に、興味ある方々のために、それぞれの会の連絡場所を紹介しておく。

ヘリ基地反対協議会
〒905-0015 名護市大南1-10-18-202  TEL&FAX 0980-53-6992
命を守る会
〒905-2171 名護市字辺野古座り込みテント村意見書係  FAX:0980-55-3131
ヘリパッドいらない住民の会
〒905-1201 沖縄県国頭郡東村高江上新川85-2  TEL・FAX 0980-51-2688
          

 記:2012.7.13 島乃ガジ丸

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『在日米軍司令部』春原剛著、株式会社新潮社発行