ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

慶良間1渡嘉敷島

2010年09月24日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 先週、泊港の話を書いたが、その記事を書きあげたのは9月9日、それから3日経った12日に、埼玉に住む大学時代の友人KRから電話があり、「来週、沖縄に遊びに行く」と言う。「5泊6日」と言う。5泊6日もの間、マリンスポーツに興味の無いKRをどこに案内するか、沖縄の文化や歴史に興味の無いKRをどこに連れて行くか、などと悩むことはなかった。慶良間の旅と決めた。泊港を書いて、私が行きたくなったから。

 慶良間諸島は、渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島、慶留間島などからなる、那覇から船で1時間もかからない場所に位置する島々。沖縄の古い諺に「ケラマー見ーしが、マチゲー(まつ毛)見ーらん」というのがある。遠くの慶良間諸島は見えるが近くのまつ毛は見えないということ、理想ばかり見て、現実は見えないということにまで繋がる。それはともかく、「慶良間が見える」は、実際に那覇から慶良間が見えることから喩えにしている。実家のある泊から、アパートのある首里からも慶良間諸島はよく見える。

  KRから電話があった日、別件で電話した宮崎在の友人IYに、「KRが遊びに来るってよ」って話をしたら、「俺も行きたい」と言い、そして、KRから2日遅れてやってきた。ということで、慶良間の旅はオジサン三人旅となった。
 慶良間の旅、今回は阿嘉島一泊の旅としたかった。高校の頃から慶良間には何度も行っているが、そのほとんどは渡嘉敷島と座間味島で、阿嘉島には一度しかない。それと、阿嘉島とは橋で繋がっている慶留間島にはまだ行ったことが無いので、そこへも足を伸ばしたいと思ったのだが、あいにく阿嘉島の宿に空きがなく、しょうがなく、隣の座間味島に宿を取った。それにしても、夏も終わりかけというのに慶良間は人気があるようで、船便も混んでいて、高速艇に乗れず、しょうがなく時間のかかるフェリーになった。

 この項は座間味島の宿でアップしている。宿に無線LANが装備されているということを知っていたのでパソコンを持参したのだ。旅にパソコンを持って行くのは初めてのことだが、たまには旅先から、土地の空気を感じながらアップするのもいいな、と思う。
 座間味島の前に、阿嘉島へ寄った。座間味島と阿嘉島は昔懐かしい島、おそらく20数年ぶりだと思う。この二つの島については次に回すこととし、今回は、私が最も行った回数の多い渡嘉敷島について少し語ろうと思う。渡嘉敷島へは最近、2003年に行っている。その時の模様を既に一文にしている。タイトルは『雨に阻まれた初体験』。

 雨に阻まれた初体験

  昨年の6月、鹿児島の友人Nが遊びに来た。ダイビングをやりたいと言うので、一緒に渡嘉敷島へ行くことにした。生粋のウチナーンチュである私は、長年、沖縄に住んではいるが、スキューバダイビングは実は未体験。スキンダイビングも十数年やっていない。海水浴もここ数年経験無い。オジサンにとって海は、眺める対象となってしまっている。
 それが、今回のスキューバダイビング初体験、怖いとは思わないが、楽しめるかどうかという点では大いに不安があった。沖縄の海は、私が初めてスキンダイビングをした頃に比べると大きく変化した。十数年前に潜ったときもその様変わりにショックを受けたが、今回はもっと悲しい思いをするかもしれないと思ったのだ。(昔の珊瑚は、雑談「そびえ立つ珊瑚」の項を参考)
  友人Nがやってきた時期の沖縄は、まだ梅雨の最中。週末は雨、という天気予報は当たった。土曜日は朝から小雨が続いた。昼、渡嘉敷行きの船が出る港トマリンでNと待ち合わせ、久しぶりの挨拶もそこそこに乗船する。雨は、強くは無いが降り続けた。船上の間もずっと雨。渡嘉敷島に着いても雨。渡嘉敷島の夜は、台風かと思われるような激しい風雨。翌日も雨。海には入らない。ダイビングどころか、足を浸けることさえしたくないほどの冷たい雨と風だったからだ。結局、私のスキューバダイビング初体験はお預け、無期限の延期となったしまった。
 風が強いので、ひょっとしたら午後の便は欠航になるかもしれない、と宿の亭主が言うので、どうせ海に入れないんだからと予定変更。帰りの船を早めて、12時の便で帰ることにする。那覇に帰っても雨。2時頃、石嶺のバス停に着き、そこからアパートへ向かって歩いている間、またもや滝のような雨となり、オジサン二人ずぶ濡れ。もはや笑うしかなかった。
 翌日、午前中は小雨がぱらつく天気だったが、午後からはしだいに晴れ間が見え出し、空港に着く頃には、太陽がさんさんと照りだした。鹿児島の友人は、沖縄滞在54時間のうち、彼が青い空を見たのは、最後の、たったの2時間だけだった。

 以上が数年前の渡嘉敷島旅行記。

 さて、渡嘉敷島のデータ、渡嘉敷村のHPから抜粋。
 那覇の泊港から船が2種、高速艇とフェリーが出ている。
 フェリーは70分、高速艇は35分で渡嘉敷島に着く。
 面積は 19.2平方キロメートル、 人口は2010年現在 782人
 阿波連、渡嘉敷、渡嘉志久、前島の四つのがある
 その他詳細は渡嘉敷村HPに記載があるので、そこを参考に。
     
     
     

 記:2010.9.24 ガジ丸 →沖縄の生活目次


何も無い、ということは無い

2010年09月24日 | 通信-その他・雑感

 友人Iが大腸ガンで入院し、大腸の一部を切り取るという大手術を行った。幸い、手術は成功し、彼は今元気で、大好きなビールも飲めるようになっている。
 歳を重ねるほどに肉体は衰える。筋肉だけで無く、体を形成する細胞の一つ一つが老化して弱っている。骨も皮も、関節も筋も、脳も内臓も弱る。Iは煙草を吸い、酒を飲み、ストレスを感じる仕事をしている。それがさらに体を弱らせる。
 ガジ丸の唄の一つ、『病も山のように』の一節、

 これまで溜めてきたツケが来て 霞み目 難聴 歯周病
 もはや限界超えてる 血糖値 倒れても当然 高血圧
 誰のせいでもないのさ不摂生 運動しないで食うばかり
 そんなこんなでやっぱり歳とれば 病も山のようにやってくる

  仕事のストレスはほとんど無いが、I同様、煙草を吸い、酒を飲む私もまた、肉体はそれなりに衰えている。この30年で病院(歯医者除く)の世話になったのは、親指の爪先半分を切り落としそうな怪我で救急病院に1回、脂肪種の切除で2回、膝の関節炎で1回の計4回だけだが、じつは私にはおそらく、表に現れない病気があるに違いない。50過ぎた不摂生のオッサンに、何も無い、ということは無い、と思う。しかし・・・、
          

 私の考えでは、オジサンに限らず、人の体は絶えずガン細胞に狙われている。そしておそらく、ときどきガンになっている。そのガンが症状として表に現れる前に、体内の抵抗勢力たちが頑張って、ガンを治しているに違いないのだ。私はたぶん、何十回も体のどこかにガン細胞ができ、気付かぬうちに治っているのだと思う。
 私の考えでは、検査をするから病気が見つかる。見つかると、放っておけばそのうち勝手に治るものでも、薬飲んだり、手術したりする。薬や手術に頼ると体内の自然治癒力が弱まり、次に似たような病気になった時にはもはや、薬や手術に頼らなければ治せなくなる。そうなると、定期的に検査を受け、早期発見を心掛けなければならなくなる。
 何が言いたいかのと言うと、薬や手術によって、体が本来持っているはずの自然治癒力が弱くなるってこと。病気が見つかると薬漬けにされたり、手術されたりして、自らの生きようとする力を衰えさせているってこと。つまり、病気が見つからなければ、薬や手術に頼ることはない。で、私はこの30年、健康診断を受けていない。

  大腸ガンの手術をしたIは、それまで(手術は8月、その3ヶ月前には会っている)普通に元気だった。病気していそうな顔付でも体付きでも無かった。それが突然、「悪性腫瘍が見つかった、患部だけ取り除くには腫瘍が大きすぎる、大腸の一部ごと取り除かなければならない。」と言われたのだ。まさに青天の霹靂であったに違いない。「まさか自分がそんな病気になるなんて」と思ったに違いない。
 「まさか自分がそんな病気になるなんて」なんて、私なんぞが全くその類である。だから定期健診なども受けないのだ。私の体に「何も無い、ということは無い」とも思っているが、あったらあったでいいさ、死ぬ時は死ぬ時さ、とも思っている。

 記:2010.9.24 島乃ガジ丸


こうこうしたい時

2010年09月17日 | 通信-その他・雑感

 「こうこうしたい」は、「孝行したい時に親は無し」の孝行では無い。不肖の息子は、そういうことはあまり思わない。母親は、尊敬できる人であったが、人生の価値観で私とはいろいろ確執があった。父親は、指図好きな人で、指図されるのが嫌いな私とは性格が合わなかった。それでも、実家を離れ、アパート暮らししてからは、適度な距離を保っての付き合いができたと思う。互いに憎み合うことはこれっぽっちも無く、会えばいつも、にこやかな時間を過ごすことができた。それが私の親孝行のつもりだった。

  アパートの、私の部屋に白蟻が発生して、避難を余儀なくされ、7月の一ヶ月間、実家で暮らした。実家で一晩寝るのは10年ぶりくらい、二晩以上続けて寝るのはアパートへ越して以来初めてで、17年ぶりくらいとなる。
 母が死に、父が死に、誰もいなくなった実家に一ヶ月。元自分の部屋を整理し、父の部屋の本棚を整理し、門前を整理し、ベランダや屋上を整理し、物置を整理し、居間を整理し、台所の棚の一部と冷蔵庫の中を整理していくうちに、あることに気付いた。
 壊れて使えない運動器具が父の部屋にある。大きいので部屋の邪魔になっている。できれば処分したかったのであろうが、重いので、女の母には持てず、右半身が多少不自由な父にも持てず、よって、そのままにしておいたのであろう。処分すべき重い物は玄関前にもある、壊れたマッサージチェア、これもずっと置きっぱなしだ。重くは無いが処分すべきか直すべきか悩んだと思われる壊れた扇風機や自転車もあった。
  室内の床の一部に塗料が塗られている。父が塗ったと思われる。仕事としたならばまったく金の貰えない、逆に損害賠償を要求されかねない不味い出来。コーティングの残ったフローリングには使えない塗料を使ったせいだ。
          
          
 居間にはDVDレコーダーがあるが、使われた形跡が無い。DVD媒体が1枚も無いことからも使ったことが無いということが判る。電気屋さんに勧められて買いはしたが、年寄二人には、その使い方を覚えるのが面倒であったようだ。

 不要な物は処分したい、壊れている物を直した方がいいかどうか判断したい、ところどころ塗装の剥げた床に塗料を塗り直したい、などなど、父も母も「こうこうしたい」と思うことがいくつもあったのだろう。私が一緒に住んでいれば、それらを私に頼んだに違いない。木工を趣味としていたので、塗装の知識も私にはある。
 年に数回しか顔を見せない息子に、「会社の景気はどうだ?」、「元気ねぇ、ちゃんと食べている?」、「お中元の品、好きなもの持っていけ。」、「天ぷら作るから持って帰りなさい。」などと二人は言い、息子の近況を聞き、世間話をしているうちに、普段「こうこうしたい」と思っていることを言い忘れてしまうのだろう。
 荷物運びや塗装では無い他の雑用で、父には何度か呼び出されたことがある。しかし、母にはそれが無かった。「こうこうしたい」と思った時も、肉体労働で疲れている息子を呼び出すことに遠慮があったのかもしれない。その母が、亡くなる一年ほど前、「年賀状をパソコンで作ってくれない?」と電話してきた。その前年も同様のことを頼まれ、その時はやってあげたが、その年は仕事が忙しくて、断った。滅多に頼み事をしない母であった。やってあげれば良かったと、その半年後、母の病気を知った時に後悔した。

 記:2010.9.3 島乃ガジ丸


泊港

2010年09月17日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 前にガジ丸HPの何かの記事に、「高校の校歌はある程度記憶しているが、小学校、中学校の校歌は思い出せない」といったような内容の文を書いたが、小学校の校歌の一節に泊港が出てきたことは覚えている。校歌では、泊港を「とまりみなと」と発音した。とまりみなとで思い出した。歌い出しは「泊港を前にして、小金の森を背なに負い」だった。うーーん、その後は出てこない。愛校心の薄い奴である、私は。
 泊小学校の校歌がいつ頃できたのか不明だが、泊港(とまりこう)は歴史が古い。『沖縄大百科事典』に記載がある。13世紀には既に港として整備され、泊港のある泊村は琉球王朝時代には物資の集散地として、首里王府の直轄地となり栄えたとのこと。

 『沖縄大百科事典』にある泊港の説明を要約すると以下、

 泊港は本土復帰(1972年)前までは独立した港であったが、以降は那覇港の一部。
 ちなみに、那覇港は、那覇埠頭、泊埠頭、新港埠頭、浦添埠頭の4つからなる。
 古くから天然の良港であった。
 13世紀には首里王府によって、港の公館が建てられ、中国との貿易港ともなった。
 14世紀後半には、那覇港が貿易港となり、泊港は内国船の港となった。

  歴史ある泊港は今でも、沖縄を旅して、沖縄島近辺の離島(慶良間諸島とか渡名喜島とか久米島やら)まで足を伸ばした人なら概ね知っている港。それらの島々へは泊港から船が出ているので、慶良間や久米島へ船で行く場合は泊港へ行かざるを得ない。
 泊港には南岸と北岸があり、南岸側に大きなターミナルビルがあって、そこからは主に久米島航路の船が発着していた。北岸のターミナルビルは小さくて、そこからは主に慶良間諸島航路の船が発着していた。今も当時とそう変わらないと思うが・・・調べた。
  現在の発着場は、南岸の奥から南北大東島、久米島フェリー、粟国島フェリー、渡嘉敷島フェリー、座間味島フェリーと並んで、北岸は渡嘉敷島や座間味島の高速艇となっている。フェリーの発着場が南岸にあるのは車の出し入れが便利だからだと思われる。
 各乗船券の発券場は南岸のターミナルで全て購入できるが、渡嘉敷島や座間味島の高速艇は北岸のターミナルでも購入できる。

 今の南岸のターミナルビルは私が若い頃のものに比べると遥かに大きい。トマリンという愛称も付いている。ビルの中にはホテルがあり、土産物屋、飲食店、スーパーなどのテナントがいくつもあり、那覇市の行政組織の一部も入っている。
 北岸のターミナルビルも私が若い頃のものより少々大きくなっているかもしれない。いつごろか不明だが、建て替えられたものと思われる。それとは別に渡嘉敷行き高速艇の発券場が近くに建てられていたが、これは、昔は無かった。昔と言えば、北岸には砂山があった。建設用資材の砂だ。小学生の頃、その山で遊んだことを覚えている。
 北岸と接するようにして泊漁港がある。30年ほど前に那覇市の漁業生産流通の拠点として整備され、最近ではイユ(魚)市場なる海産物の小売店が集合する施設もできて、魚が新鮮、安い、美味いなどと、ちったぁ名の知れた場所となっている。

  高校二年生の時に久米島キャンプ、三年生の時に慶良間諸島(渡嘉敷だったか座間味だったか阿嘉だったか、それらのどれか)へキャンプに行ってから、久米島へは5、6回、慶良間諸島へは10回以上私は行っている。久米島へは一度飛行機で行っているが、その他は全て船旅、泊港から出て、泊港に帰っている。
 高校二年生の時から数年間は、久米島や慶良間諸島にキャンプや合宿で毎年のように行っていた。その頃は、それぞれの船は小さく、久米島航路は片道5時間ほどであった。10年ほど前に久米島へ行っているが、その時は船も大きくなっていて、片道3時間ほどとなっていた。慶良間諸島も片道2時間近くはかかっていたと記憶している。泊港の時刻表を調べると、現在は片道70分、高速艇だと35分とのこと、速ぇー。

  のんびりとした船旅、まだ未成年であった時も、私は良い先輩達に勧められ、たいていビールを飲んでいた。デッキに出て、風に吹かれながらビールを飲む。その時見た青い空や青い海の映像はとても印象的で、今でもその映像が浮かぶ。がしかし、船に乗ったり降りたりした際の映像がまったく浮かばない。なので、今の南岸と大きく違う当時の南岸の景色が思い出せない。北岸はたぶん、当時と現在とそう大きくは変わっていない。
 慶良間行きの船を見送った、若かりし頃の映像が鮮明に思い浮かぶ。当時友達付き合いしていた女性が、大学のサークルの合宿で慶良間に行くというのを見送った。船が岸壁を離れて、船首の向きを変えるまで彼女を見ていた。彼女も私を見ていた。その彼女の顔が脳裏に焼き付いている。「自分にとって大切な人かも?」と思わぬでもなかったが、当時私には恋人がいて、愛欲の世界に溺れていた。・・・本題とは関係ない話だが。

 母の葬儀や父の葬儀の時、本家筋のT兄さん(父の従兄にあたるが、年齢は父より私に近いのでオジサンでは無く兄さんと呼んでいる)から詳しく聞いたが、私の家は元々泊村の住人で、琉球王朝の時代は下級武士(上級武士は首里に住む)で、T兄さんの親の代までは物資を運ぶ船乗りであったらしい。泊港を拠点にし、そこから名護へ行き、那覇から食器などを運び、ヤンバルの薪などを那覇に持ち帰ったとのこと。
     
     
     
     
     
     

 記:2010.9.9 ガジ丸 →沖縄の生活目次


プロの自覚2

2010年09月10日 | 通信-社会・生活

 父の借金相続手続きにおける銀行員とのやりとりで、初めに「これこれが必要です」と言われ、書類を揃えて持っていくと、「あれが足りない」と言われ、足りないものを揃えて後日持っていくと、「これが足りない」と言われ、足りないものを揃えて再度持っていくと、今度は、「前に取って貰った書類は期限切れで無効です」と言われ、そんなこんなで、書類提出を終えたのは、取りかかってから二ヶ月も過ぎてからだった。
 最初に、必要書類を全て提示し、各書類の有効期間はどれだけということも明示し、客に時間的、金銭的負担をかけないのがプロの銀行マンであろうと、前にこのガジ丸通信に書いたが、書類提出を終えた日、「お前にプロとしての自覚はあるのか!」などということは言わず、「随分手間取りましたね」と、若い銀行員の言い訳を聞いた。「本部の指示と公庫側の指示が異なっていて、私も混乱してしまいました」とのこと。
 まあ、そう言い訳する分、彼も私に対して悪いとは思っているわけだ。債務相続手続きが完了した後、預金相続手続きが待っているが、「その時はスムーズに行くようお願いしますよ」と言うと、「頑張ります」と答えてくれた。それで良しとする。

 知人のGさんが「新しいパソコンを買う、どういうのがいいのか判らないから付き合ってくれ」と言うので、先日、パソコンショップやら大型電気店やらを3軒巡って、10万円也のデスクトップパソコンを購入する。以前から「7は良いですよ」とGさんには勧めていたので、それで購入に踏み切ったのであろうと私は思っていたのだが・・・。
  「エーユーの営業マンに『インターネットも速くなるし、携帯電話料金も安くなる』と勧められてプロバイダーをエーユーに変えたんだが、そうしたら今まで使っていたパソコンが使い物にならないほど遅くなった。営業マンに文句を言うと、『パソコンを新しいのに買いかえれば大丈夫です』と言うんだ。それで、買うことにした。」とのこと。
 携帯電話会社のエーユーがインターネットプロバイダーもやっているということは、テレビコマーシャルも流しているので私も知っている。ガレッジセールの二人が出ているやつ、「でーじ速い」とか言っているやつ。そのCMを見る限りでは、エーユーのインターネットは「速い」が売り物のようだ。ところが、XPパソコンでは「でーじ遅い」、私も試してみたが、尋常じゃない程に遅く、フリーズしているのではないかと思ったほど。
          

  それにしても、Gさんは可哀そうである。電話料金がいくらか安くなるのかもしれないが、パソコン購入金額10万円は想定外の出費である。それまでXPパソコンを使って、何の問題も無くインターネットやメールができていたのに、10万円を使い、そして、私に新パソコンのセッティングも頼まなければならない。データの移動やら、新しいメールアドレスの登録やら、旧パソコンとのLAN設定やらだ。相続手続きなどやることがいっぱいあって、命の糧である畑仕事もままならないほど忙しい状況にある私にとっては大きな迷惑である。私が忙しいということを知っているので、「申し訳ない」という気持ちがGさんの顔に強く現れる。悪いのはエーユーの営業マンなのに。
 プロの営業マンならば、「XPでは効果がありません。7であれば速いです。」と初めに断るべきであろう。そして、「プロならエーユーの新メールアドレスをアウトルックにセッティングすることくらいはやっておけ!」と、忙しい私は言いたい。
          

 記:2010.9.10 島乃ガジ丸