ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

吉の浦公園

2010年07月30日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 脱サラ農夫の友人Tは、日々の概ねは農作業に勤しんでいるが、彼と彼の仲間たちが共同経営している八百屋にも顔を出す。じつは、一年ほど前までは、彼が店にいる時間は多かった。今年の初め頃からだったか、彼の代わりに女性(オバサンだが)が店番を勤めることが多くなり、彼は今、ほとんど農作業に就いている。店番がオジサンからオバサンに代わったせいか、今、彼の店は以前に比べて客がずっと多い。Tは愛嬌があり、若い頃はたいそう女性にモテ、オジサンになってからも子供に好かれ、男性にも好印象を持たれている。それでもやはり、男よりは女の方が店番には向いているようである。

  吉の浦公園はTの店から真東へ行った吉の浦海岸にある。真東へ行く道は無いので少々回り道をするが、それでも車で2、3分ほどの道のり。吉の浦公園には海岸植物が多く植えられ、また自生の植物も多くあり、海鳥や昆虫も多く見られるので、それらの写真を撮りに、Tの店に行った際(月に2回ほど)は、たびたび訪れている。
 吉の浦公園についての資料が無い。中城村役場のホームページも見たが、詳しいことは書いていなかった。沖縄のことならほとんどのことが載っていて、私が大いに頼りにしている『沖縄大百科事典』にもその記載は無い。吉の浦公園は新しい公園で、『沖縄大百科事典』は1983年の発行なので、編纂時に間に合わなかったのであろう。
  吉の浦公園が(比較的)新しい公園というのは、資料は無いが根拠はある。その建設中の時に私はその現場に行っている。吉の浦公園の建設の一部に携わったのである。はっきりとした年は言えない(日記を調べれば判るが、調べるのが面倒)が、20年ほど前である。20年前は1990年、『沖縄大百科事典』よりずっと後になる。

 資料が無いということで、以下の記述は私が見て、知った範囲のこと。

 場所は中城村安里(友人Tからの情報)
 陸上競技場、野球場、テニスコート、体育館などの運動施設がある
 泳いでいる人を見たことは無いが、海水浴場がある。
 遊歩道があり、ジョギングができる。ジョガーはたびたび見かける。
 シーソー、ブランコなどの遊具施設がある。
 展望台があり、太平洋を悠々と眺めることができる。
 芝生広場があり、家族連れでピクニックもできる。
 100台は停められる駐車場がある。
 陸上競技場と野球場との間に小さな川が流れている。

 その他、私は確認していないが、園内の案内看板にはプールもある。
  このHPの動物の頁で既に紹介済みのオカヤドカリ、それが生息しているということでも有名・・・かどうか、少なくとも私は一度も目撃していない。ただ、工事に携わっている時、役所の人から「オカヤドカリの生息地である」と聞いた。
 海水浴場は白い砂浜が広がっていてきれい。他所から砂を運んで作った人工ビーチだ。泳ぐのに不都合は無いと思うが、海水浴客を私は見たことが無い。たまたま、私が訪れた日と、人々が泳ぎたい日が一致していなかったのかもしれない。
 海水浴場を南に行っても北に行っても、海岸は砂浜は減り、岩場が多くなる。その岩場で海鳥に出会うことが多い。岩場のごく浅瀬にはトビハゼがいる。

 真夏でなければ散歩するのに楽しい場所。真夏であっても私は散歩することがある。汗をダラダラかきながらだが、動植物の写真を撮っている。海鳥の数種、海浜植物はスナヅル、イボタクサギ、イソフジなどたくさん、トビハゼもここで撮っている。
     
     
     
     

 記:2010.7.22 ガジ丸 →沖縄の生活目次


父の想い

2010年07月30日 | 通信-その他・雑感

 先週水曜日にやっと、アパートの私の部屋の修理が始まった。大家が「一週間では終わるよ」と言っていたのに、その日で既に三週間が過ぎていた。三日後の土曜日の午後、アパートへ工事の進捗状況を見に行った。大工さんが二人、ちょうど三時休みを取っていたので、詳しく話を聞くことができた。「来週火曜日には終わるよ」とのこと。工事そのものは確かに、大家の言った通り一週間の仕事のようであった。
 大工さんの仕事が終わると畳屋さんが入る。でもたぶん、畳屋さんは既に畳の寸法を測り、準備はしていると思われるので、翌水曜日には畳も入っているはず。ではあるが、アパートで生活を再開するのは日曜日(8月1日)からとした。その前日の土曜日に、実家でちょっとした宴会を予定しているからという大きな理由があり、その他、実家の整理整頓、掃除がまだ少し残っていて、それを終えてからという理由もある。

 土曜日に予定している宴会は、実家の屋上の片づけを手伝ってくれた人たちの慰労会のようなもの。手伝ってくれた人に元同僚のMMとMTがいるので、ついでにもう一人の元同僚OMと現同僚OSさんと元アルバイトのSKさんを呼んで、職場仲間の飲み会も兼ねる予定。メンバーは他に、鉢物の処分を引き受けてくれた水道工事会社社長のGさん。
  屋上の片付けは主に、父が育てていた植物の処分であった。大小50鉢ほどあったが、そのうち小さなもの約20鉢は、その日までに友人知人に持って行って貰っていた。残りは30鉢ほどだが、大きい物は肉体労働者二人でやっと持てるほどの大きさ、一人で持てない物はその他にも3鉢あり、鉢が割れていて持ち辛いものもいくつかあった。
 屋上は三階建ての屋上、そこから重い物を階段を使って運ぶのは重労働であり、時間がかかる。ということで、トラッククレーン(トラックにクレーン装置が付いている建設機械)を頼んだ。クレーンで鉢物を吊り上げて、そのまま荷台に載せる。吊り上げて載せるを10回ほども繰り返して、屋上の植物全てが片付いた。
          

 50鉢もの植物全てを友人知人にあげたり、処分したわけでは無い。その花の咲きっぷりの見事さから父が自慢していたアデニュームの大鉢、父が繁殖させるのを楽しんでいたらしいミカンの木(たぶんカーブチー)は、10鉢以上もあったが、そのうちの3鉢、そして、ちゃんと実の付くビワの木の1鉢、計5鉢は私が所持することにした。
  50鉢の中には、「何でこんなものを父は育てていたのだろう」と思う物も多かった。そう言えば、生前訊いたことがある。「あれは、鉢植えには向かない木だぜ」とか、「利用しないなら邪魔になるだけだぜ」などと進言したことがある。父の答えは「もうそこにあるんだから、あってもいいさあ」であった。植物という生き物がそこに生きているというだけで、父は楽しんでいたみたいだ。そう言えば、2階のベランダや1階の駐車場には計10鉢以上のカネノナルキがあった。カネノナルキは簡単に増やすことができるので、増やしていく作業や、増えていくのを見ることが父の喜びであったのだろう。
 父の、そういった想いのこもった植物たちではあったが、息子はあっさり捨てる。それについては、父の入院中に父の了解を得ている。屋上の鉢物全てに水遣りをするのは、特に真夏はきつい仕事だ。私はともかく、従姉たちには無理強いできない。そう言うと、父も肯いてくれた。「みんなに迷惑がかからないようしてくれ。」とのことだった。
          

 記:2010.7.30 島乃ガジ丸


漫湖公園

2010年07月23日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 父の具合が悪くなって、最初(今回の件で)に病院へ行ったのは4月12日であった。その二日前の10日(土曜日)、模合(モアイ:正当な理由のある飲み会)が那覇であったので、ついでにたっぷりの散歩をしようと決め、そのついでのついでに実家へ寄り、父の顔を見、話をし、いつもと同じく元気であることを確認した。
 その二週間前には、介護認定の検査で、「お父さん、要支援2から要支援1になったんですよ。リハビリ頑張っているんですよ。」と役所の担当の人から聞き、「おう、これ以上元気になったら要支援1も貰えなくなるじゃないか、父さん、リハビリもほどほどにした方がいいよ。」なんて、三人で笑っていたくらいだったのに。19日には入院となり、それから約4週間後の5月13日には死んでしまった。命とははかないものだ。

 それはさておき、10日(土曜日)の話。
  12時過ぎ、バスで実家へ行き、父とちょっとユンタク(おしゃべり)して、実家からバスで奥武山公園へ行き、1時頃から歩き始める。予定は、奥武山公園を突っ切って漫湖公園へ渡り、漫湖公園をくまなく散策して、そこからそのまま歩いて桜坂劇場へ行き、映画を観て、7時半からの模合に出席することとした。
 奥武山公園北口から入り、ちょっと回り道して体育館方面へ行き、そこでソーセージノキの写真を撮り、漫湖公園へ渡る。漫湖公園は国場川で南北に仕切られている。その南側を先ずはぐるっと回って、川の北側へ渡る。そこで3時。映画まではまだ余裕がある。
  ところが、北側は予想以上に広がった。4時過ぎにはついに足がつり、早く歩けなくなってしまっていた。映画の上映時間は5時頃からであった。早く歩けない足ではとても間に合わない。で、映画は諦める。映画は諦めたが時間はある。そこで、かねてから「いつか調べにいかなくちゃ」と思っていた事を調べるために与儀の中央図書館へ向かう。漫湖公園から桜坂劇場までのほぼ中間辺りに中央図書館はある。そこへ5時過ぎに着く。既に体はバテバテであったが、図書館は5時で閉館だった。心もバテてしまった。

 漫湖公園は広かった。前に、浦添大公園を紹介した際、「浦添大公園はあまりに広いので、浦添大大公園と改名した方が良かろう」と書いたが、漫湖公園はそれよりさらに広かった。漫湖公園については『沖縄大百科事典』に記載がある。以下。

  漫湖公園 (まんここうえん)
 場所:那覇市古波蔵
 面積 :43.93ヘクタール (陸地部分 16.0ヘクタール)
 1977年に工事を開始する。
 漫湖に飛来する野鳥が多い。

 ちなみに漫湖(マンコと読む。口にしにくいかもしれないが。)も同事典にあり、
 元那覇港湾の一部。
 深く真玉橋まで湾入する湖形の部分。
 現在ではほとんど埋め立てられ、地図の上から漫湖の名は抹消された。
 漫湖の一部で真玉橋から明治橋に達する水路は国場川の下流となっている。

  浦添大公園の面積が37.4ヘクタールなのに対し、漫湖公園は43.93ヘクタールとやはり広い。ところが、そのうち陸地部分は16.0ヘクタールとのこと。中央部を川(元は湖だったらしい)が流れていて、その川の部分が面積の6割方を占めているということになる。だったらそう広くはないじゃないかと思うかもしれないが、ところがのところが、川の両岸に細長く公園は作られていて、その距離が長いのだ。端から端を往復するだけで相当長い距離を歩くことになる。歩き慣れた私が途中でバテたくらいだ。

 漫湖公園の岸にはマングローブが広がっている。まだここで紹介していないヤエヤマヒルギもあるだろうと思うが、どれがヤエヤマヒルギなのか判らずにいる。花や実の写真が撮れていないのだ。このあいだまで花の時期だったが、行く暇が無かった。
     
     
     
     

 記:2010.7.17 ガジ丸 →沖縄の生活目次


映画「やさしい嘘と贈り物」

2010年07月23日 | 通信-音楽・映画

 今週日曜日に弟から印鑑証明書、戸籍謄本などが届いて、銀行やら郵貯やらの相続手続き、保険会社の保険金受取手続きなどの書類が概ね揃って、今週月曜日、朝からその書類等を整理し、銀行の分、保険会社の分をまとめ(郵貯は書類に不備があったのでできなかった)、「よし、今日で2つは終えよう、あと、税務署に行って不動産相続について相談しよう」と決め、髭も剃り、午後一番で小雨の中、傘を差して出かけた。
 銀行は徒歩5分とかからない場所なので歩いて行く。着くと閉まっていた。「何で?」と一瞬考える。授業中であるはずの小学生たちが歩いていた。それで気付いた。その日は休日であった。私の勤める会社は正月三が日、子供の日、旧盆のウークイ(送りという意味、最終日)、大晦日以外の祝祭日は休日では無い。なので、祝祭日に気付かないことが多い。何という祝祭日なのかも分からないことが多い。その日は海の日であった。

 休日なのであれば保険会社も税務署も休みであろう。前日、たくさんの鉢物や不要物を片付けてゴミだけが残った屋上の掃除も、雨なのでできない。畑仕事もできない。午後の時間がぽっかりと空いた。ということで、久々に桜坂劇場へ、映画を観に。
 父の具合が悪くなって実家へ通い始めて二日後の4月14日、父は元気だった。歩行器を使えば風呂にも一人で入れた。「大丈夫か?」と訊くと、「うん、もう大丈夫だ」と元気に答えた。で、安心して、映画を観に行ったのだが、それ以来の映画。

  今回観た映画は『やさしい嘘と贈り物』、夫婦愛、家族愛の物語。寂しさのあまり自殺をも考えている孤独な老人が、ある日、老女と出会い、恋をする物語。恋愛の物語がどうして夫婦愛になるのかというと、老女は実は、老人の妻であり、老人は記憶喪失でそのことをすっかり忘れているという設定。そこに、老夫婦の子供たちも絡んでくる。
 そんな歳とって、それほど恋愛に夢中になるか?と心の乾いた私は思うが、そんな歳とって、それほど恋愛に夢中になる老人も世の中には多くいるのだろう。もっとも私は、独りが寂しいなどとあまり思わないし、寂しいから死にたいなんて、おそらく死ぬまで思うことはないだろう。何しろ、私の周りにはマジムン(魔物)達がウヨウヨいる。

 恋愛に夢中になる老人という設定はさておいて、妻の献身的な愛情には感動する。夫婦愛もここまでくれば、何より換え難い宝物となるに違いない。二人の間にある宝物、普段は目に映らなくとも、たまに現れてくれるだけで二人は幸せに違いない。
 そんな夫婦、私の周りの同級生たちには少ない。「あいつらはそうかなぁ?」と2、3人の顔が思い浮かぶ程度だ。愛が熟するにはまだ若いのかもしれない。従姉夫婦は仲が良いと思う。彼らもまだ60代なので、映画の夫婦並みではないかもしれないが、あと10年もすれば何より換え難い宝物が手に入るに違いない。頑張ってね。
 このガジ丸通信で、私は時々姉の悪口を書いているが、弟を召使のように扱う姉と、召使のように扱われることが大嫌いな弟はウマが合わないのだ。ただ、私には嫌われている姉だが、社交的なので友人は多い。そして、夫と息子を愛している。息子を愛するがあまりに多少常識を逸脱することがあるのかもしれない。そしてまた、姉の夫も妻を愛している。なので、常に妻をかばう。これも麗しき夫婦愛、だと思うが・・・。
          

 記:2010.7.23 島乃ガジ丸


瀬長島

2010年07月16日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 瀬長島は那覇空港の近くにある。私の実家から那覇空港まで車で15分程なので、瀬長島へは20分もかからない距離となる。でありながら、その存在を私が知ったのは今から約25年ほど前のこと。私は元々地理不案内人間なので、例えば、「今度の飲み会は○○病院の斜め向かいだ」とか、「集合場所は那覇市立○○小学校の正門前だ」などと言われても、一般的には有名らしい○○病院や○○小学校の場所を知らないことが多い。
 瀬長島を知ったのは遅かったが、瀬長(せながと読む)という名前は耳に馴染み深い。小学生の頃から知っている。友だちや先生や親戚にそのような名前の人がいたというわけではない。じつは、政治家にそのような名前の人がいたのだ。「小学生のくせに政治家を知っていたのか」と感心するかもしれないが、当時の小学生でその政治家を知っていたのは少なくないはず。それほど有名な政治家であった。私の場合は特に、祖母が彼の熱狂的なファンで、「カメさんが演説に来たさあ、だー、一緒に行こう」などと付き合わされたこともあるくらいだ。カメさん、その政治家の名前は瀬長亀次郎という。
 瀬長亀次郎についてはいずれ別項で語るとして、今回は瀬長島。

 『沖縄大百科事典』に瀬長島の記載がある。要約すると以下。

  豊見城市にある無人島
 沖縄島南部西岸、那覇空港の南約1.5キロメートルにある小島
 面積0.19平方キロメートル、最高標高30m
 米軍の弾薬庫として接収されたが、1977年に返還される
 対岸とは埋立てによって陸続きとなる
 瀬長の旧は瀬長島にあったが、米軍による接収にともない、民は対岸に移る。

 今回『沖縄大百科事典』を開くまで知らなかったことだが、瀬長島は歴史的に由緒正しき場所らしい。瀬長グスクという記事が同事典にあった。

  瀬長グスク
 瀬長島にあるグスク
 瀬長按司の居城であった
 『琉球国由来記』によれば瀬長の嶽、志茂田巫(のろ)火神、志茂田の嶽、その他由緒ある個所がグスクを中心に存在した。

 そんな瀬長島の存在を私が知ったのは上述した通り約25年前のこと。当時、農業を勉強するために通っていた場所が瀬長島のすぐ傍にあり、「近くに浜遊びのできる場所があるよ」と、農業の師匠に連れて行って貰ったのが最初だ。
 その数年後には、中国人の留学生(若い女性)三人と親しくなって、彼女たちの住むアパートが瀬長島の近くにあったことから、何度か遊びに出かけた。
  瀬長島は特に観光となるような施設はない。釣り人はよく見かけるが、海水浴客は、少なくとも私は見たことが無い。野球場などの運動施設があり、草野球をやっていると聞いている。浜辺でバーベキューを楽しむグーループもいるらしい。
 那覇空港が近いので離発着する飛行機を間近に見ることができ、飛行機好きの子供には楽しい場所かもしれない。また、小さな島だが、海岸から島の中心部に向かうと草木が生い茂り、チョウやトンボなどが多く見られる。去年(2009年)瀬長島を散策した際、私の住む近辺ではほとんど見ることのできないギンヤンマを数匹見つけた。
     
     
     

 記:2010.7.10 ガジ丸 →沖縄の生活目次