ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

非紳士協定

2005年08月26日 | 通信-政治・経済

 念のために紳士協定を辞書で調べると、「紳士協約に同じ」とあり、その紳士協約を見ると「互いに相手を信頼して結ぶ取決め」とあった。
 公示前の選挙運動は確か禁止されていたはず。それは、国会議員の方々が自分たちでそうしましょうと決めた法律であったと記憶にあったのだが、どうやらそれは私の思い違いで、法律では無かったのかもしれない。ただの口約束だったのかもしれない。ただの口約束で、守る義務のない約束だったのかもしれない。公示前であるのにも関わらず、解散した日からずっと、私の近所では選挙カーの声がうるさい。
 政治家たちの口約束に紳士協定なんてものが存在するわけはないようだ。「互いに相手を信頼して・・・」なんてことはできないようだ。それはまるで、戦国時代の群雄たちによる戦略戦術みたいで、同盟を組んで、互いに不可侵の約束をしておきながら、あっさりと裏切る。裏切ることも、相手を出し抜くことも勝ち残るためには当然のことである。そういったわけで、政治家たちに紳士協定は無い。彼らの約束は全て、非紳士協定となる。
 先週の日曜日、朝の報道番組に各党の選挙責任者が揃って出演し、討論を行っていた。討論は、郵政民営化に対する立場、考え方の他に、年金問題、税の問題などもあった。各党がどういう考え方でいるのか私も興味があったので、聴いていた。細かい点があやふやなのは自民も民主も公明も一緒、社民や共産はもっとあやふや。
 たとえば、歳出の削減で、公共工事の無駄を無くすという点では皆同じだが、無駄かどうかをどうやって調べ、誰が判断するのか、無駄があったとして、どうやればその無駄が無くなるのか、というようなことは各党ともはっきりしない。手段が大事。それも的確で効果的な。単に、談合を無くすとか、自由競争入札にするとかだけでは問題は解決しないと思う。各党のマニフェストにはそういったことも細かく説明されているのだろうか。
 ところで、その討論の中で民主の議員が突出してマナーが悪かった。自民の議員が発言するとそれを遮ったり、発言している間も隣でブツブツ文句を言ったりしていた。いくら意見が違っていても、相手の発言の邪魔はしないというのが討論における紳士協定ではないのか。民主の議員の態度はみっともないし、見ていて気分が悪くなるものであり、そのせいでまた、民主の人気は落ちるだろうな、と私は心配したのである。
 悪口だけでは片手落ちなので、一つ褒めておきたい。名前は静かだが、その民主の議員と同じくらい煩い人と、時代の申し子(らしい)ホリエモンが出馬する選挙区で、民主の議員がインタビューに答えていた。真面目で熱意のある眼差しを見せて、「互いに頑張りましょう」なんて清々しく語っていた。彼はきっと民主の人気を上げたに違いない。

 記:2005.8.26 ガジ丸


晩立

2005年08月19日 | 通信-環境・自然

 昼間たっぷり汗をかいて、夜シャワーを浴びた後に飲むビールは、何物にも代えがたいほどに旨い。が、夏の間は、夜になっても部屋の気温が33、4度あるので、ビールを飲むと、どっと汗が噴出す。なもんで、夏の間はビールのあとのシャワーとなる。
 休肝日明けの昨日、塩コショウした鶏モモ肉とアスパラガスのソテーに、その日収穫したばかりのシークヮーサーを絞った一皿をメインディッシュにし、酒を飲む。最初の一杯はビール。この時期には珍しくシャワーの後のビールであった。
 2、3日前から朝夕涼しい風が吹く。珍しいことだと思う。「やっと朝夕は涼しくなったね」なんて挨拶は、例年だと9月の終わり頃の話だ。今年はまた、台風が少ない。先島諸島へは既に2個ばかり影響を与えたようだが、沖縄本島へは1個も来ていない。去年は観測史上最多の台風襲来であったのに、である。それもこれも温暖化などの地球環境破壊の影響なのかと不安に思う。熱帯は熱帯、温帯は温帯、寒帯は寒帯の気候が、毎年毎年、多少のぶれはあっても同じようにやってくる、ということがしだいに失われ、毎年毎年、世界のあちこちで異常気象が起き、そのうちメチャメチャになるのでは、と不安に思う。
 子供の頃、夏の気象の特徴の一つに「夕立」というのがあった。太陽がガンガン照りつける夏の日、夕方になって急に雲が湧き出して激しい雨を降らせる、なんてことがよくあった。青い空に入道雲、夕方の雷は夏の景色であったと思う。それが、そういえば最近あまり経験しない。「夕立」はもしかしたら、今の子供たちにはピンと来ない言葉なのかもしれない。そのうち、広辞苑から「夕立」は消えて、古語辞典に載るかもしれない。
 私は車以外にバイク(250cc)も持っているが、バイクは晴れた日にしか乗らない。カッパを着るのが面倒なのと、雨に濡れたバイクの手入れが面倒だからである。晴れた日の多い最近はたいていバイク通勤となっている。今週もそうであった。
 今週は仕事が忙しく、月曜日は7時過ぎまで、火曜日は8時前までの残業となった。火曜日の帰り、急に雨となった。カッパを着てのバイクは、この10年で2回目のこと。もしかしたら夕立があるかもしれないと予想はしていたが、まさか晩立(ばんだち:造語)とは思わなかった。晩立はしかし、今年は何回かある。晩立だけでなく昼立、夜中立も何度かある。ただ、夕立があまり無い。沖縄の夏の気候が変わってしまった。
 フジテレビ、日曜日朝の情報番組で、有名なコメンテーターがよく口にする「日本の常識は世界の非常識」という意味が、私にはよく解らない。「この言葉はもう何年も前に私が発明したものだ。」と彼は自慢げに言い、そして、よく使う。まあ、彼は憲法9条のことを概ね指して言っているのであろうが、国のあり方が一つの常識にとらわれる必要は無いと私は思う。その国にはその国の政治があって当然だと思う。ただ、地球環境について言えば、人類、だけでなく生物の全てが等しくその影響を受ける問題であり、人類の全てが共有する常識でもって対処しなければならないものだと思う。
 思わぬ晩立で、カッパを着てのバイク運転をやる羽目になり、たったそれだけの面倒な思いをしたというだけで、地球環境のことまで考えてしもうた沖縄のオジサンであった。

 記:2005.8.19 ガジ丸


大鉈を振るう

2005年08月12日 | 通信-政治・経済

 若い頃、測量会社でバイトをした。測量士が指示した所に棒、または大きな物差しを持って立つのが主な仕事。測量士が指示する所は畑であったり、一般の道であったり、民家の庭先であったりもしたが、多くは藪の中。高さ2mを超え、先の見えないススキの中を突き進むなんてこともよくあった。
 距離を測る測量の場合には、蔓延った雑草が邪魔になる。そういう時には除草作業をする。測量士の位置から自分が立つ位置までの直線にある雑木雑草を取り除く。その際、使う道具は大鉈。刃渡り3、40センチ、柄の長さ150センチくらいの大鉈を、ゴルフクラブを振るような形で振りかぶって、地面ぎりぎりを走らせ、雑草をなぎ倒す。大鉈を1回振るたんびに、たくさんの雑草がバタバタ倒れ、辺りは見る見るうちに視界が開けてくる。「大鉈を振るう」という言葉は、そのような状況をいうのだと、私は思った。
 「大鉈を振るう」を広辞苑で引くと、「思い切って省略・処理する。」とある。実際に大鉈を振るって草木をなぎ倒した感覚からいうと、まさしくその通りで、「思い切って」振りかぶり、振り下ろして、景色を一変させ、爽快な気分を味わえる。雑木雑草に対し大鉈を振るう場合は、概ねそういった爽快感を味わうことができる。しかし、雑草に混じって、切って捨てるには忍びない植物が混ざったりしていると、なかなか「思い切って」は難しい。雑草の刈り方に手加減が加わり、結果、中途半端な除草となる。
 濃い墨改革も、道路公団のケースを見る限りでは何か中途半端で、「思い切って省略・処理する。」というわけにはいかなかったようだ。さすが自民党ということだろう。いろいろなしがらみで鉈を思いきり振り下ろすことはできなかったのであろう。
 郵政民営化も、自民党との交渉のあいだにあれこれ修正されて、中途半端なものになりそうだな、と思っていたら、濃い墨総理は、こればっかりは譲れないようである。大鉈を振るって、衆議院を解散したどころか、反対派議員の一掃までやろうとしている。その大鉈の真の狙いは、長年の自民党支配によって生まれた悪癖、あるいは悪習ともいうべき政官癒着の構造を断ち切ることにあるのだと、私は想像しているので、その為の大鉈振るいなら大いに結構と思っている。かつて自民党を応援したことはないが、濃い墨総理が、大鉈を振るい、悪い慣習をバッサリと切り捨てて、国民に見えやすいすっきりとした政治を目指しているのであれば、ちょっと期待してもいいかな、と思っている。
 それにしても民主党の情けないことといったら、もう見捨ててやろうかとまで思ってしまうくらい。濃い墨が「濃い墨流郵政民営化」のカードを切って、選挙という勝負を挑んできたのだ。なんで「小禍多流郵政民営化」のカードを出さない。そんなカードを持っていなければ「郵政民営化不要論」でもいい。濃い墨の挑戦には真正面から受けて立って欲しいと思う。そうすれば、選ぶ方も選びやすいというもの。逃げるな!小禍多。逃げたら負けるぞ。「郵政」は選挙の争点にしない、なんて、情けないことを言ってくれるな。
 今回の大鉈振るいは、日本国の膿を出すためのものと解釈し、その為に、ある所では大きな痛みが伴うかもしれないが、それには国民も耐えて欲しい。ただ、その矛先(この場合は刃先というのか)が、弱者へ向かわないように強く願う。注視していたい。

 記:2005.8.12 ガジ丸


イチャリバ人間

2005年08月12日 | 通信-社会・生活

 イチャリバは出会えばという意。沖縄のことわざ(なのか、あるいは言い回し)に「イチャリバ(イチェーワとも) チョーデー ヌー ヘダティヌ アガ」というのがあり、「出会えば 兄弟 何の 隔てが あろうか」といったような内容。
 旅人が道を歩いていて、土地の人と出会う。一応、会釈する。と、
 「ィヤーヤ、マーンチュガ?(お前は、どこの人か?)」などと訊かれ、それから少し立ち話をし、「イチャリバ チョーデー ヤサ(であるさ) ユクティイケー(休んでいきなさい)」となり、家に呼ばれ、お茶とお菓子をご馳走になり、しばしユンタク(おしゃべり)する。などといったことが昔はあったのかもしれない。今はそんなこと、あまり期待できない。が、きっと、まだ沖縄のどこかで、無いことは無い、と思う。
 「出会えば兄弟」なんて気分でいると、争いごとがなかなかできない。本当の兄弟ならケンカはしょっちゅうだが、義兄弟と思うとケンカのしにくい距離感となる。良い距離を保っての「出会えば兄弟」はまた、相手が自分と同じ人間であることを前提としている。
 今年もまた、8月15日が来る。世界の情勢を見ると平和はまだ遠く感じるが、日本人も朝鮮人も中国人もアメリカ人もインド人もアフガニスタン人もイラン人もイラク人もパレスチナ人もイスラエル人も、その他の国の人々も皆、イチャリバ人間で、お互いがお互いを人間であると認め、理解することが平和への道では無いか、と今考えている。
 戦争をしたがるのは人民では無く、一部の強欲な権力者であると思う。人民は彼らに洗脳されて、扇動されてしまうのであろう。中国の指導部が行った反日教育などもその一種だと思う。もしも、中国の若者たちと日本の若者たちにたくさんの交流があり、お互いがお互いを深く理解しあっていれば、中国の指導者が何と言おうと、
 「それは違う。過去はそうだったとしても、我々は同じ人間として平和に付き合う」などということになる可能性が高いと思うのである。
 尖閣諸島は中国、台湾、日本で共同開発し、そこにいる三方の駐留員たちが月に1度、スポーツや文化で交流する。たまには互いの国から若い人たちを呼んで大合コンをやり、三国一の花嫁選びなどもする。竹島は韓国(できれば北朝鮮も)との共同所有とし、そこでも年に何度かイベントをやる。文化で、スポーツで、人間として交流し、互いの理解の場とする。韓国語を学ぼう、日本語を学ぼうなどという合宿もあって、いつも賑やか。
 このように、争いの種でさえも逆に利用して交流を深める。といったようなことで平和な世の中が築けないものかと、私は思う。「あー、この島があるからこれらの国々は仲が良いんだ。だから東アジアは平和なんだ。」ということになれば、もしかしたら、島に対してノーベル平和賞が与えられるなんて、前代未聞のことが起きるかもしれない。
 まあ、隣のお兄さんが実は殺人鬼であったなんてことが起こる今の世で、判断力の弱った年寄りを騙して金を奪うような今の世で、「出会えば兄弟」などと甘っちょろいことは言っていられないのかもしれないけど、少なくとも、「出会えば殺せ」なんていうような状況にならないような世の中であり続けて欲しいと思う。平和ボケといわれようが。

 記:2005.8.8 ガジ丸


数段違い平行棒

2005年08月05日 | 通信-社会・生活

 女子の体操種目にある段違い平行棒を想像していただきたい。その段違いの棒は高いのと低いのとの2本で構成されているが、それが何本も、たとえば10本とか20本とかの段違いで並んでいると想像していただきたい。棒はどれも同じように細く、そして長い。
 それぞれの棒の上を、何人もの人々が歩いていると想像していただきたい。低い段の棒の上を歩く人がいて、中くらいの高さの棒の上を歩く人がいて、高い段の棒の上を歩く人がいる。細い棒の上を歩いているのであるが、それはそれぞれが、自分の環境と同程度の高さで、それぞれの人生を歩いているのと同様であると考えていただきたい。高い段であればあるほど、そこの環境は、美味しいものや大きな家や、きれいな服が手に入るものであると想定しておいていただきたい。
 日本人の多くが上位の段にある棒の上を歩いている。白金の奥様たちの中には、合計数百万もする衣類、装飾品を身につけて歩いてらっしゃるのもいる。私なんか、今の格好を金額にするとパンツ、靴下まで入れて1万少し超えるくらい。時計や装飾品を身につける習慣がないので、いつもそんな程度。でも、そんな私でも、世界的に見れば、上位の段にある棒の上を歩いていることになる。白金マダムからは遥かに下だが。
 さて、そこで、バブルが弾けて、不況が続いたところで、日本国民がこのさい、一斉に今、自分の歩いている段から1段下がった生活レベルにしたらどうだろうか。
 「あら、別に何百万もする指輪をしなくたっていいのね。十万の指輪でも、周りの人たちは私を羨んでくれるのね。そしたら、1段下がったっていいわよ。」といった具合。
 先日、フジテレビの朝の情報番組で少子化の問題を話題にしていた。日本の人口が今の半分になれば、日本の国土に余裕ができるではないか、日本の大地が無理せずに十分な食糧を生産できるではないか、住宅地にも余裕ができて庭付きの家に住める人々が増えるじゃないか、などと、私は単純に考えていたのだが、少子化の及ぼす影響はそんな甘いものでは無く、日本国民の生活に深刻な問題をあれこれ起こすらしいのである。
 少子化の原因をテレビでいくつか挙げて、その中にはお金の問題も含まれていた。子供を育てるのはお金がかかるから産みたくない、ということなのである。私は、「それは違うだろう。昔はもっと貧乏だったのに、子供は多かった。しかも、りっぱに育てた。昔に比べれば今は、お金に限って言えば余裕があるじゃないか。」と思ったのである。
 ところが、生活レベルの問題なのである。今のレベルを維持しようとすると、子供が産めないのである。既に高い方の段の上を歩いている人たちにとっては、クリスチャンディオールもプラダもエルメスも生きていく上では欠かせないものなのである。それらを犠牲にしてまで子供を産むことはできないのである。下の段を歩いているお父さんだって、晩酌のビールを犠牲にしてまで、「もう1人子供」なんて考えにくいのである。
 繰り返すことになるが、日本国民が一斉に1段下がった生活レベルにしたらどうか。子供の1人や2人増えたとしても、十分に生活することができるようになると思うのだが。 1段下がった生活レベルにすれば、「なーんだ、500円のTシャツでもいいわけね。」などと心にも余裕が生まれるような気がするのだが、しかし、まあ、それは無理というものだろう。私だって、もう1段下がって、その日暮らしになるのは嫌なのである。

 記:2005.8.5 ガジ丸