ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

見聞録026 大きな栗の木の外で

2009年02月27日 | ケダマン見聞録

 ユイ姉の要望で、でっかい実が生る栗の木を想像した。
 「いいねぇそれ、1個でお腹一杯になりそうだね。」
 「この島にもこういう木があると楽しいんだがな。」
 「栗の木ってさ、オキナワにも無いからね。私、栗拾いなんてやったことないよ。あのトゲトゲ、落ちてきて頭に当たったら痛いだろうね。」
 「そりゃあ痛いだろうな、想像したでっかい栗の実だとすげぇ痛いぞ。あっ、そうだ、でっかい栗の実のトゲと言えば・・・。」
 ということで、ケダマン見聞録『大きな栗の木の外で』の始まり。

 ある星に、地球の栗と同じようにトゲトゲの実の生る木があった。地球の栗の実と違うのは、それはとても大きく、トゲも非常に固かった。
 その栗の実は、1個で十分な食料となる代わりに、収穫するためには危険を冒さなければならない。命をかけて食い物を得るんだ。男の仕事だな。それは危険な仕事なんだが、栗の木はあちこちに生えているから女子供だって安心はできない。ぼんやりしていると命を落とす。特に遊び盛りの子供からは目が離せない。実が生って、熟して、落下する頃になると人々は栗の木に近寄らなかった。「大雨洪水警報、暴風警報」なんてのが地球にはあるが、その星では「栗の実落下警報」なんてのが季節になると発令された。

  不良少年達には恐い遊びがあった。「大きな栗の木の下でゲーム」という名前で、実が熟した頃の栗の木の下にどれだけ長い時間立っていられるかという遊びだ。また、落ちてくる実をかわしながら栗の木の下を走り抜ける「大きな栗の木の下をゲーム」という遊びもあった。どちらも運試しとか根性試しみたいなもんだな。いや、命がかかっているからチキンレースであり、ロシアンルーレットみたいなもんだな。
 そういった遊びで死傷する少年達の他、うっかり目を離した小さな子供、実を収穫するために近寄った者たちが死傷する事故があったが、それはまれであった。ハブに噛まれる確率程度だった。実が熟した頃の栗の木の下は危ないと分かっているからだ。

 ところが、ある日、その「まれ」なことが連続して起きた。栗の木の近くで人が死んでいた。栗の木の実が頭に突き刺さり即死であった。栗の実が落ちる時期ではあったが、栗の木の実が落ちる場所からは少し離れている。実が斜めに落ちた可能性もあったが、事故では無く事件であると、警察の捜査で判明した。そして、同じようなことが7回連続して起きた。この事件は「大きな栗の木の外連続殺人事件」とセンセーショナルに報じられ、大きな話題となった。7人目の犠牲者が出た後すぐに、犯人が捕まった。
 犯人は科学者であった。彼は悪魔の実験をしたのであった。栗の木に意思を持たせ、その枝を振り、人にめがけて実を投げつけさせたのだ。意思を持った栗の木は伐採処分となり、科学者は死刑となった。科学者は死ぬ前に語った。「私はもうすぐ命を失うが、我が人生に悔いは無い。私の実験は大成功であった。」と。
     

 以上でケダマン見聞録その26、『大きな栗の木の外で』はおしまい。場面はユクレー屋に戻る。
 「狂気の科学者っているんだね。恐ろしいね。」とユイ姉。
 「おー、全く狂気の沙汰なんだがな、お前、その恐ろしさを十分認識して無ぇぜ。」
 「ん?どういうことよ。」
 「植物が意思を持って人間に襲い掛かるっていう恐ろしさだよ。例えば、ここの庭のブーゲンビリアが襲い掛かってくるんだ。鋭いトゲのたっぷり付いた枝をしならせて、鞭打ってくるんだ。これはよ、たぶん、死ぬほど痛いぞ。」
 「それは恐いね。痛そうだね。でもさ、もしも意思を持ったブーゲンビリアがいたとしてもさ、人間を敵にはしないと思うよ。切り倒されるのは嫌だからね。」
 なるほど、確かにそうだ。ユイ姉なら、人間を攻撃するブーゲンビリアなどさっさと切り倒してしまうに違いない。女は、っていうか、オバサンは、強い。

 語り:ケダマン 2009.2.27


600円の後悔

2009年02月27日 | 通信-その他・雑感

 中学、高校の頃はたくさん、浪人時代にもまあまあ、私は映画を観ている。名作といわれる映画は、ヨーロッパ映画も邦画も多く観ているが、それでも、その頃観た映画の半分以上はハリウッド映画だった。ハリウッドこそ映画の主産地、と私も思っていた。
 その頃はアカデミー賞にも興味があって、作品賞を受賞した映画の多くをたぶん、私は観ていると思う。過去のアカデミー作品賞をネットで調べ、確認してみると、リバイバル上映で観たものを含めて、『風と共に去りぬ』、『ベンハー』から『スティング』、『カッコーの巣の上で』まで、中学から浪人時代の間に15作品を私は観ている。

 浪人時代に『カッコーの巣の上で』を観て以来、ハリウッド映画を私は観なくなった。大学の頃は東京に住んでいて、近く(吉祥寺、中野、高円寺など)に入館料の安い名画座があり、貧乏学生はそこで、もっぱら邦画やヨーロッパの名画を観ていた。
  ハリウッド映画を観なくなったので、アカデミー賞にも興味が無くなり、『カッコーの巣の上で』以降のアカデミー作品賞受賞作を私は観ていない。以降の受賞作には、『ロッキー』、『ガンジー』、『プラトーン』、『ラスト・エンペラー』、『レインマン』など有名どころがたくさんあるが、少なくとも映画館ではそれらを観ていない。
 そんな中、ただ一つだけ、アカデミー作品賞受賞作を映画館で観ている。1992年受賞作の『許されざる者』、クリントイーストウッド監督の作品だ。
 クリントイーストウッドは、彼がマカロニウェスタンで『荒野の用心棒』などを演じていた時にファンになっている。その後の『ダーティーハリー』も好きだった。ということで、ハリウッド映画嫌いの私も「クリントイーストウッドならば」と、観に行ったわけである。しかしながら『許されざる者』、アカデミー作品賞を獲得した評判の良い作品であったが、私の感性には合わなかった。特別良いとは思わなかった。
          

  二十年ほど前から、観る映画はもっぱら邦画となっている。とはいっても、邦画に魅力的な作品が多くあったわけでもないので、映画を観る機会そのものが少なくなった。年に1回あるかどうかくらい。それが、桜坂劇場がオープンして、その会員になってからはちょっと増えた。それでも年に3、4回くらい。少ないのには理由がある。
 日々、やりたいことが山ほどある私は、映画を観る目的だけで那覇の街へ出かけることをほとんどしない。映画館のある那覇新都心も国際通りも私の家からは往復1時間程かかる。その時間を有効活用するには実家へ行く、飲み会へ行く、などのついでを要する。そういうついでは、月に1~2回ある。が、他に用があったり、父のパソコン講座に予定以上の時間がかかったりして、で、映画へ行けるのは3、4ヶ月に1回となる。
          

 映画を観る機会が減った理由がもう一つある。入館料だ。『おくりびと』は観たいと思っていた映画の一つだが、観なかった。『おくりびと』は去年の10月頃、新都心の映画館で上映され、最近まで久茂地の映画館で上映されていた。どちらも入館料は1600円だ。桜坂劇場は1000円、その差600円、インスタントラーメン6食分となる。6食は3日間の命と思って、で、躊躇する。ただ、『おくりびと』は前から良い評判を聞いており、600円をケチったのは失敗だったかと今、後悔している。
          

 記:2009.2.27 島乃ガジ丸


瓦版083 餅栗ぜんざい

2009年02月20日 | ユクレー瓦版

 今年の冬は史上稀に見る短かい冬であった。1年で最も寒い時期である2月の上旬から暖かい日が続いて、野山は既に春の匂いがしている。
 そんな暖かい、のんびりした週末の昼下がり、いつものようにブラブラ散歩をして、そのままユクレー屋へ、いつもよりだいぶ早い時間に着く。
 ユクレー屋に入ると、ケダマンが庭でのんびり日向ぼっこをしていた。
 「よー、気持ち良さそうだね。」と声をかける。
 「あー、ダラダラは気持ちいいよな。怠けない誘惑なんて俺には無いな。」
 「何だそれ、怠けない誘惑って?」
 「んー、ウフオバーが言ったんだよ。オバーは今日も畑仕事だ。『よく働くなぁ』って言ったらよ、『働きなさいって誘惑される』らしいんだな。」
 「ふーん、さすがだな。偉い人だね。人間の鑑だな。」と言いながら、しかし、私もどちらかというとケダマンと同類だ。暖かい、のんびりした週末の昼下がりは日向ぼっこも気持ちいい。ケダマンと並んで、芝の上に寝転んだ。
 そうやってしばらく、二人でダラダラしていると、店の方から声が聞こえた。

 「ケダーーー。」と呼ぶのはユイ姉だ。
 「おう、何だ?」とケダマンは顔を上げ、声の方向を見る。私も一緒に見る。ユイ姉はドアを半開きにして、顔だけ出してこっちを見ている。そして、小さく手招きする。
 「あー、ゑんちゅもいたの?二人ともちょっと来て。」
 「えっ、何だ、話ならこっちからでも聞こえるぞ。」
 「寒いからドアを閉めたいのさあ、中に入ってよ。」
 暖かい日なんだが、ユイ姉には寒いらしい。冷え性なのかもしれない。
 「人がのんびりと良い気分でいるというのに、まったく、面倒臭い奴だ。」とケダマンはブツブツ言いつつ立ち上がる。私もケダマンも、ユイ姉には毎日旨いものを食わしてもらっている恩義がある。言うことをきくしかない。

 「おう、何だ、何の用だ?」(ケダ)
 「正月の餅がが残っていたからね、ぜんざい作ろうと・・・」
 「おー、ぜんざいか、食う、食う、食う。」(ケダ)
 「まだ、話は終わってないよ。それに、まだできてもないよ。これから作るんだよ。でさ、たくさん作るからさ、あんた、ゑんちゅと一緒にひとっ飛びして、ジラースーのとこへ行ってきてちょーだい。もう船は着いてるはずよ。」
 「ジラースーはケータイ持っているだろう?電話すれば済むだろうよ。」(ケダ)
 「ジラースーがね、栗を持ってきてるのさ、それを早く取ってきて欲しいのさ。それからついでに、そこにいる新さん、勝さん、太郎さんやジラースー、ガジ丸、シバイサー博士、もちろん、ゴリコとガジポも含めてね、なんかにも伝えておいてね。」
 「あー、分ったよ。そうか、栗か、俺、大好きだぜ、栗ぜんざい。」(ケダ)
 「餅だけでなく、栗も入れるわけだね。」(私)
 「そう、餅栗ぜんざいだね。」
     

  ということで、ケダマンと、その背中に乗った私は港へひとっ飛び。ユイ姉の言う通り船はもう着いていた。荷物の運び出しの最中だった。
 ジラースーから袋入りの栗の実を受け取る。ユクレー島もオキナワも亜熱帯気候にあるので、マテバシイの実など食えるドングリはあるが、栗の木は育たない。ジラースーが持ってきたのは倭国産、時期はずれということもあって、皮の剥かれた加工品。
 その後、シバイサー博士の研究所へ寄って、博士はいつものように寝ていたので、ゴリコにぜんざいパーティーのことを伝え、ユクレー屋に戻る。

 豆は既に火にかけられてある。ユイ姉は栗と水を鍋に入れ、何やら味付けして、それを火にかけると、手が開いたようだ。カウンター席の我々の前に来て、しばし休憩。
 「餅と栗が一緒なんて盆と正月が一緒に来たみたいなもんだな。」(ケダ)
  「そんな大げさな。」(ユイ姉)
 「両手に花と言ってもいいよ。可愛い系と美人系の二人。」(私)
 「あー、そりゃあいいな。二人とも食べちゃうぞーってな。」(ケダ)
 「あんたたち、ホントに品が無いね。呆れるさあ。」(ユイ姉)

 などと、ユンタク(おしゃべり)している間にぜんざいはできあがり、電話連絡してあったマミナが来て、ガジ丸一行、シバイサー博士一行もやってきて、みんなでぜんざいをご馳走になる。さすが料理上手のユイ姉、ぜんざいはとても美味しく、パーティーは大いに盛り上がった。シバイサー博士がお代わりする際に、「餅と栗のぜんざい、もちっとくり。」と駄洒落を発した時には一瞬冷たい風が吹いたが・・・。
     

 語り:ケダマン 2009.2.20


程良い酔い加減

2009年02月20日 | 通信-社会・生活

 私は酒が好きである。愛していると言ってもいいくらいだ。私の部屋には常に数種類の酒がある。日本酒、泡盛、ワイン、ウィスキー、ブランデーは消えたことが無い。他にシェリー、焼酎、ラム、ウォッカなどもたびたび存在する。
 愛していると言ってもいいくらい酒好きの私だが、ベロンベロンになるほど酔うことはあまり無い。若い頃から酒は多く飲んでいたが、生来の体質が酒には強く、ベロンベロンになることは少なかった。ただ、アルコールを分解する能力には限界があるようで、意識は確かでも、飲んでゲーゲーすることは、若い頃はよくあった。
 飲んでゲーゲーしたのは、酒の旨さを知らなかったせいだと思う。実は、自慢するわけでは・・・あるけれど、私は大学生の頃に密造酒(当時は犯罪だった)を作っている。泡盛やウィスキーを飲んで、それらを旨いと感じていたので、日本酒も旨いに違いないと思って、日本酒を作った。それは、想像していた通り、旨いものであった。
 などという経験を経て、二十代前半の頃から酒は実に旨いものであると私は認識しており、それからは、ゲーゲーするのは酒に対して申し訳ないと思うようになり、その結果、飲んで、ある程度酔ってくると、もうこれ以上は、と手が止まるようになった。

 ベロンベロンになるほど酔うことがあまり無い私は、酔って失態、ということもあまり無い。私の友人には、飲んで、酔って、時々我を忘れて、たびたび失態をやらかし、周囲の顰蹙をかう男がいるが、私から見ると、彼は酒が好きなのでは無く、酔うのが好きなのではないかと思う。重ねて言うが、私は酒を愛している。なので、酒の味が解らなくなるほど酔ってしまうのは、酒に失礼と思う。で、私は、概ね程良く飲む。

  酔って失態をやらかした大臣には、既に辞めてしまったので、今さら何だかんだと言うことも無いのだが、マスコミの報道を見ると、「薬のせいにしているが、実際は酒であろう。」とかいう論調も多い。それについてはちょっと気になる。それでは、酒が悪者になってしまう。酒は悪くない。絶対悪くない。酒を悪く飲む奴が悪いのだ。
 マスコミの力は強いので、酒は悪いという風潮が世間に広まることを私は恐れる。煙草は悪いという風潮がマスコミを通じて広まったみたいにだ。

 程良く酒を飲むと気分が良い。飲んでいるこっちが気分良いので、周りも楽しくなる。ウチナーグチのテーゲーは、「テキトー、いい加減」というマイナスの意味にも使われるが、「良い按配、程良い」という良い意味でも使われる。私がこのHP上で使っているテーゲーは、概ね後者の意味で使っている。程好く酒を飲むと、程良い酔い加減となる。自分にも他人にも優しい気分になる。世界が平和になる。繰り返すが、酒は悪くない。
          

 記:2009.2.20 島乃ガジ丸


墓穴の掘り方

2009年02月14日 | 通信-政治・経済

 郵政民営化に賛成だの反対だの、国民は理解していなかったのどーのこーのと、阿呆太郎総理が相変わらず「毎度お騒がせ」しているが、それとは別に、かんぽの宿の一括譲渡問題も、先週からお茶の間をお騒がせしている。
 落札金額が妥当なのかどうか、入札に不正があったのかどうか、その真相は、私には不明だが、非難を浴びている西川総裁と、それを糾弾している破吐野馬大臣とでは、私の感覚では少なくとも、西川総裁の方が大いに信頼できる。

 二人の顔を見て先ずそう思う。「外見で人間を判断するのはいかがなものか」と叱られそうだが、顔は男の履歴書とも言うので、全く的外れということもないだろう。少し補足すれば、私の判断は外見からだけでは無い。おそらく、二人のこれまでのテレビに映し出された言動も判断材料となっている。「偏見、先入観は良くない」とも言われそうだが、これまでの彼の言動を見て、「破吐野馬大臣は思慮の足りない人、お調子者、パフォーマンス好き」などとういうレッテルを私は貼っている。
 破吐野馬大臣は国会答弁などで勇ましい。ここぞとばかりに西川さんを攻撃する。郵政民営化の過程については、政府にも大きな責任があるはずだ。それは棚に上げて、「いいもん見っけ、これをとことんやっつけよう。俺の株が上がるぜ。」と思ってのパフォーマンスとしか思えない。いかにも、「俺は憤っている」という彼の芝居は、いかにも、「私はアホです」を露呈しているに過ぎない。「しゃべることで墓穴を掘る」の代表は阿呆太郎総理だが、彼もまた「しゃべることで墓穴を掘っている」一人のように見える。政府の管理に問題は無かったのか自らを省みることも必要だぜ、親分。

  労働者の解雇が続いている。「不況で消費が減り、生産も減った。よって、解雇。」という図式だろうが、無職の人が増えるということは、普通の生活を営む消費者が減るということ。消費者が減るということは、つまり、社会全体の消費量が減るということ。
 企業経営者は労働者を解雇することで、社会全体の消費量を減らしている。当然、自社製品の消費量も減る。ではあるが、この場合は、企業経営者が「墓穴を掘っている」ということにはあたらない。車もテレビも過剰に生産する必要は無い。需要が無いと判断したら生産縮小する。それはあたりまえの経営だと思う。社会全体の消費量をどうやって上向きにするか、失業者を労働力の足りない業種へどうシフトさせるかは政治の問題だ。

  人間が普通に社会活動を続けるのに必要な消費は、衣食住、光熱費、電気通信費、交通費など無くなることはない。その消費は、けして贅沢品などではない。車の代わりに自転車で良いし、大型液晶の代わりに小型ブラウン管で良いし、ブランド物の代わりに衣料スーパーの安い服で良い。少なくとも、人が生きるのに必要な消費は減らない。
 ホームレス状態の人が増えるということは、普通に社会活動をする人間の数が減るということ。人が生きるのに必要な消費まで減るということ。そうなると社会全体が沈んでいく。貧乏人を増やすことで日本社会が墓穴を掘っている。政治の問題です、総理。
          
          

 記:2009.2.14 島乃ガジ丸