最近、沖縄民謡をよく聴いている。民謡は、若い頃から時々聴いてきたので、何枚もあるCDの中に知っている曲は数多くある。ただし、ここで言う「知っている」は、曲のタイトルを「知っている」程度のことで、歌詞(1番だけのものも含め)まで覚えているものは少ない。何しろ歌詞のほとんどはウチナーグチなので、「方言を使ってはいけない」と子供の頃教育され、そのお陰でウチナーグチが話せないまま育ってきた私には、なかなか歌詞の内容が理解できず、したがって覚えにくいのである。
歌詞の内容が理解できないのには、たとえ沖縄語辞典を片手に語句の一つ一つを調べたとしても、「何を言っているのか訳が解らん」となる歌が多いという理由もある。
若い頃、『ダイサナジャー』を聴いて、ダイは大、サナジは褌で、語尾を伸ばして「大きな褌の人」となり、和語に喩えると大風呂敷、つまり、ほら吹きのことを歌っているのかと思った。しかし、母に尋ねると、「だらしない人という意味」との答えだった。
そうか、「大きな褌を引き摺って歩いている人」と捉えて、「だらしない人」となるのかと、沖縄語辞典で確かめることもせず、その時は合点した。
今回、改めて事典をひく。サナジャーは合点した通りであったが、ダイという言葉が無い。そもそも大はウチナーグチでウフと言う。したがって、ダイは大では無い。事典にはダユンという動詞があった。「だれる」という意味。ダイムンという名詞もある。「役立たず、だるそうにしている人」などのこと。そうか判った。ダイムンのムンは者という意味である。で、ダイは「だれた」という形容詞になるのだ。
ダイサナジャーは「だれた褌を穿いている人」となり、母の言う通り「だらしない人」という意味でもおかしくない。これで一件落着だ、・・・タイトルに関しては。
ダイサナジャーが「だらしない人」で正解だとしても、歌詞の内容は理解不能。「だらしない人がウムニー(芋きんとん)を前にして」何をしているのか不明。だらしない人が「クジラが寄って来ないか」と期待しているのは何故なのか不明。だらしない人が「お前たちのトートーメー(位牌)と俺たちのトートーメーはとてもよく似ている」と言うのは何故なのか不明、などなど、1番から9番まである歌詞の一つ一つがよく解らない。その上、1番から9番までの歌詞の間には繋りがほとんど無い。
歌詞は詩である。論理的表現で無くても良い、感覚的表現で良い。ということなのであろう。であれば、何となく雰囲気は伝わってくる。感覚的表現で、1番から9番まで脈絡のない歌詞は覚えにくいのであるが、英語の歌と思えば何とかなるかも。
なお、『ダイサナジャー』の歌詞は、『正調琉球民謡工工四(くんくんしい、三線の楽譜)』第四巻に載っている。男(だらしない人)と女の掛け合いの歌。
歌は、嘉手苅林昌のアルバム『ジルー』に収録されている。※男と女の掛け合いとはなっていない。また、歌詞は一部工工四のものと異なる。
参考までに言葉の説明、沖縄語辞典の記述から。
サナジ
ふんどしの卑称、普通はハドービ(肌帯)という。
越中ふんどしのことはメーチャーサナジ。
記:2011.7.31 ガジ丸 →沖縄の生活目次
参考文献
『正調琉球民謡工工四』喜名昌永監修、滝原康盛著編集発行