ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

ダイサナジャー

2011年08月26日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 最近、沖縄民謡をよく聴いている。民謡は、若い頃から時々聴いてきたので、何枚もあるCDの中に知っている曲は数多くある。ただし、ここで言う「知っている」は、曲のタイトルを「知っている」程度のことで、歌詞(1番だけのものも含め)まで覚えているものは少ない。何しろ歌詞のほとんどはウチナーグチなので、「方言を使ってはいけない」と子供の頃教育され、そのお陰でウチナーグチが話せないまま育ってきた私には、なかなか歌詞の内容が理解できず、したがって覚えにくいのである。
 歌詞の内容が理解できないのには、たとえ沖縄語辞典を片手に語句の一つ一つを調べたとしても、「何を言っているのか訳が解らん」となる歌が多いという理由もある。

 若い頃、『ダイサナジャー』を聴いて、ダイは大、サナジは褌で、語尾を伸ばして「大きな褌の人」となり、和語に喩えると大風呂敷、つまり、ほら吹きのことを歌っているのかと思った。しかし、母に尋ねると、「だらしない人という意味」との答えだった。
 そうか、「大きな褌を引き摺って歩いている人」と捉えて、「だらしない人」となるのかと、沖縄語辞典で確かめることもせず、その時は合点した。
  今回、改めて事典をひく。サナジャーは合点した通りであったが、ダイという言葉が無い。そもそも大はウチナーグチでウフと言う。したがって、ダイは大では無い。事典にはダユンという動詞があった。「だれる」という意味。ダイムンという名詞もある。「役立たず、だるそうにしている人」などのこと。そうか判った。ダイムンのムンは者という意味である。で、ダイは「だれた」という形容詞になるのだ。
 ダイサナジャーは「だれた褌を穿いている人」となり、母の言う通り「だらしない人」という意味でもおかしくない。これで一件落着だ、・・・タイトルに関しては。
     

  ダイサナジャーが「だらしない人」で正解だとしても、歌詞の内容は理解不能。「だらしない人がウムニー(芋きんとん)を前にして」何をしているのか不明。だらしない人が「クジラが寄って来ないか」と期待しているのは何故なのか不明。だらしない人が「お前たちのトートーメー(位牌)と俺たちのトートーメーはとてもよく似ている」と言うのは何故なのか不明、などなど、1番から9番まである歌詞の一つ一つがよく解らない。その上、1番から9番までの歌詞の間には繋りがほとんど無い。
 歌詞は詩である。論理的表現で無くても良い、感覚的表現で良い。ということなのであろう。であれば、何となく雰囲気は伝わってくる。感覚的表現で、1番から9番まで脈絡のない歌詞は覚えにくいのであるが、英語の歌と思えば何とかなるかも。
     

 なお、『ダイサナジャー』の歌詞は、『正調琉球民謡工工四(くんくんしい、三線の楽譜)』第四巻に載っている。男(だらしない人)と女の掛け合いの歌。
 歌は、嘉手苅林昌のアルバム『ジルー』に収録されている。※男と女の掛け合いとはなっていない。また、歌詞は一部工工四のものと異なる。

 参考までに言葉の説明、沖縄語辞典の記述から。
 サナジ
 ふんどしの卑称、普通はハドービ(肌帯)という。
 越中ふんどしのことはメーチャーサナジ。

 記:2011.7.31 ガジ丸 →沖縄の生活目次

参考文献
『正調琉球民謡工工四』喜名昌永監修、滝原康盛著編集発行


大量消費推進媒体

2011年08月26日 | 通信-社会・生活

 地上デジタル放送が始まって、というより、貧乏オジサンがテレビを観られなくなってから一ヶ月が過ぎた。12~14日の旧盆に数時間ずつは実家にいて、実家には地デジ対応のテレビもあったが、侘びしい貧乏オジサンは1秒たりともテレビを観なかった。テレビを観なかったからといって、一人暮らしの侘びしい貧乏オジサンに不満は無い。
 中日の13日の夜、従妹の家で、彼女と彼女の娘の女子高生がテレビを観ていたので自然とそれが私の目にも入った。7月24日12時前以来のテレビだ。私は「韓国ドラマだな」と認識しただけで、その後はテレビに目を向けることはほとんど無く、もっぱらオバサンと少女とのユンタク(おしゃべり)を楽しんだ。今週日曜日、実家の掃除、整理整頓をやった。朝食時にテレビを観た。でも、15分で飽きて、消した。後はラジオ。

 「無ければ無いで済むテレビ」なんてキャッチコピーのコマーシャルを誰か作ってくれないだろうか。誰か?って、例えば、ラジオ大好きの人とか、読書大好きの人とか、散歩大好きの人とかだ。AKB48の可愛い子たちが集まって、ラジオを聴いて、何やらキャーキャー騒いでいる。「ラジオ好き 無ければ無いで済むテレビ」と字幕が映る。
  まあ、しかし、ラジオもマスコミの内なので、これでは「目糞、鼻糞を笑う」みたいになってしまう。うん、じゃあ、夕焼けの見える窓際に、菅野美穂が腰かけて静かに本を読んでいる。菅野美穂は難しい顔したり、ほほ笑んだり、顔だけで心を表現する。本を読んでそうなっていることが見ている人に伝わる。さらに、いかにも「読書って楽しそう」って気分も伝わる。そこで「読書好き 無ければ無いで済むテレビ」と字幕が映る。
 なんてことを考えたが、そのコマーシャル、何を使って人々に知らせるかってことになると、もっとも効果的なのはテレビとなる。パラドックスだ!
          

 「ラジオもマスコミの内、目糞、鼻糞」と書いたが、何が一緒かといって、見たくないもの、聞きたくないものも勝手に見せたり聞かせたりするところ。もちろん、私好みの音楽やら情報やらだけを番組にして欲しいなどとは思っていない。そんなことしたら観る人聴く人は極端に減り、テレビもラジオも商売が成り立たなくなる。
 ただ、テレビ観ない生活が一ヶ月過ぎて思うに、テレビは「あれも買え、これも買え、もっと買え」と大量消費を半強要している圧力団体のようだと感じる。「これが無いと幸せにならないぞ」とさりげなく脅しているようにも思える。

 もう一つコマーシャル。質素に、地道に、淡々と人生を歩いているナチュラリストの役がよく似合う高倉健さんに登場して頂く。山道を一人で大地を踏みしめるように高倉健は歩いている。鳥の声に耳を傾けたり、花の匂いを感じたりしながら歩いている。
  そんな中、今までとは違う風が体をすり抜けていくのを感じ、ふと立ち止まり、そして振り返る。そこには鹿、狸、リスなどの動物たちがこっちをずっと見ている。そこへ字幕が流れる。「脱テレビ 脱原発と 森は言う」、カメラは動物たちに寄り、鹿の目をズームアップする。そこから健さんにパン、健さんは空を見上げている。
 そのコマーシャル、何を使って人々に知らせるかってことになると、もっとも効果的なのはやはりテレビとなる。あー、何というパラドックス。
          

 記:2011.8.26 島乃ガジ丸


ふりかかる火の粉ども

2011年08月19日 | 通信-社会・生活

 私は平和を愛するので争い事を好まない。時々、横着乱暴運転の車にドキッとさせられて「このバカが!」、「アホ!」、「糞ったれ!」などと小さく怒鳴ったりするが、その他の場合も含め、面と向かって大声で怒鳴ったりすることはほとんど無い。
 目の前に「立ちはだかる壁」があったなら、無理してよじ登ったりはしない。迂回路があればそこを通り、迂回路が無ければ別の目的地を設定し、別の道を行く。どうしても向こう側へ行かなければならない、ということは無い。大地は大きく広がっている。行く道は無数にある。自由意思を持ち続けていれば、どの道を歩いてもきっと楽しい。
 「私は平和を愛するので争い事を好まない」と書いたが、「私は面倒臭がり屋なので争い事を好まない」と言った方が本当は正しいのかもしれない。だから「立ちはだかる壁」も避けるのだ。でも、いいのだそれで。赤塚不二雄先生もよく言っていた。「これでいいのだ」と。「生きていることが楽しい」のであれば、それでいいのだ。

 そんな私でも、歩いている時「ふりかかる火の粉」があったなら振り払う。火傷すると痛い、痛いと楽しくない、楽しくないと「これでいいのだ」とはならない。なので、振り払うことのできる火の粉は振り払う、つもりでいる。しかし、もしそれが、振り払うのが困難なほどの大量の火の粉であった場合は道を変える。道を変えることに抵抗は無い。繰り返すが、自由意思を持ち続けていれば、どの道を歩いてもきっと楽しい。
  しかしながら、そんな私でも、自由意思を侵害するような極悪非道の火の粉であれば、断固として戦う。「奴隷になるくらいなら死んだ方が増し」と思って戦う。
 現在、私にふりかかっている火の粉が3種ある。クロマダラソテツシジミとシロアリとアリモドキゾウムシといういずれも昆虫。この3種に対する対処方はそれぞれ異なる。クロマダラソテツシジミは振り払い、シロアリは難敵なので戦わず道を変え、アリモドキゾウムシは同じく難敵だが、これは生活に関わるので戦いを挑むつもりでいる。
          

  父の形見のソテツが枯れかかっていた。原因はクロマダラソテツシジミ。それを振り払うために農薬を使った。数回散布した。しかしもう手遅れだったかもしれない。それから一ヶ月が経った今でも回復の兆しは無い。小さな鉢に入って枯れかけていたのを地植えにして、一旦は生き返らせたソテツ、二度目の奇跡を期待している。
 部屋にシロアリが発生して、1万円以上分のシロアリ殺虫剤を床下にたっぷり撒き、床下のシロアリは見えなくなった。と安心していたら、先日、恐ろしいことが起きた。台所の流しの上の戸棚を開けようとしたら開かな い。何とかこじ開けると、中はシロアリだらけだった。大きな巣ができていた。シロアリは床下から壁を伝い、天井の木材を食いながら棚に下りてきたということであろう。天井に本隊がいるに違いない。そのうち天井の木材がボロボロになって、ドサッと落ちてきて、寝ている私を押し潰すかもしれない。シロアリに押しつぶされて死んだとなれば、あの世で「何て情けない死に方をしたんだ、恥ずかしい。」と両親に怒られてしまう。で、シロアリからは逃げることにした。
 アリモドキゾウムシは、私の命の糧である甘藷を食害している。収穫した甘藷の6割以上は食えない甘藷となっている。これは何が何でも何とかしなければならない。平和主義者の私も断固戦う決心である。まだしかし、具体策は見えていない。
          
          
          

 記:2011.8.19 島乃ガジ丸


お勧め民謡 ヒヤミカチ節

2011年08月19日 | 沖縄03音楽芸能・美術工芸・文学

 何年か前に、どこぞのテレビ局、またはラジオ局が主催したのだと思うが、「私の好きな民謡」とかいう企画があって、その第一位になったのが『ヒヤミカチ節』。
 私の好きな民謡はいくつもあるが、『ヒヤミカチ節』は私の中でも文句無しに上位に来る。なので、ウチナーンチュの好きな民謡第一位が『ヒヤミカチ節』であることには大納得した。ちなみに、その時2位が何だったか、3位が何だったかは記憶に無い。

 子供の頃、朝、学校へ行かなくてはならないのになかなか起きないでいると、祖母がやってきて、「ヒヤッ、ヒヤッ、ヒヤッヒヤッヒヤッ、ヒヤミカチウキリー、ヒヤミカチウキリー」と歌いながら私の掛け布団を剥ぎ、敷布団を持ち上げ私を転がし、それでも起きないでいると、後ろから私の両脇に手を入れ、力ずくで私を起き上がらせた。そういうことが何度もあり、で、自然に私はその歌を、その個所だけは覚えた。
 祖母が「ヒヤッ、ヒヤッ、ヒヤッヒヤッヒヤッ、ヒヤミカチウキリー、ヒヤミカチウキリー」と歌っている歌が、『ヒヤミカチ節』という題であることもすぐに知った。あるいは、祖母が歌う前から知っていたかもしれない。それほど当時有名な歌、確か、あるラジオ番組のテーマ曲でもあり、ほとんど毎日耳にしていたような覚えがある。

 ヒヤは「えい!」という風に勢いを付ける時に出す気合のようなもの。ヒヤミカチュンという動詞もある。「ヒヤ(えい、それ)と言う」(沖縄語辞典)のこと。私は言語学者でも、沖縄語学者でも、何の学者でも無いのだが、素人考えで解説すると、ヒヤミカチはヒヤミカチュンから転じた副詞、「えい!と気合を入れて」という意味になる。
 『正調琉球民謡工工四(くんくんしい、三線の楽譜)』第二巻から、その歌詞。

 名に立チュル ウチナー(沖縄) 宝島デムヌ(宝島だもの)
 ククル(心)打ち合わち ウ立チミソリ(御立ちになってください)

 (ヒヤ、ヒヤ、ヒヤヒヤヒヤ、ヒヤミカチウキリー、ヒヤミカチウキリー)

 以上が1番、歌詞は6番まである。2~5は省略して6番、

 ナナクルビ(七転び)クルビ(転び) ヒヤミカチ ウキリ(起きなさい)
 我シタ(我らの)クヌ(この)ウチナー シケ(世間)にシラサ(知らせよう)

 (ヒヤ、ヒヤ、ヒヤヒヤヒヤ、ヒヤミカチウキリー、ヒヤミカチウキリー)

 私が愛聴しているラジオ番組『民謡でちゅううがなびら』の、確か6月23日慰霊の日にこの曲が流れた。曲が流れる前に「沖縄戦で焦土と化した故郷の、人々の心を元気付けるために作られた唄」と紹介された。「そうだったのか!」と私は初めて知り、そして、感動した。寝坊した子供を起こすための唄ではなかったのだ。で、調べる。
 『琉球列島島うた紀行』に「(作詞者の)平良新助氏(1876~1970)は、1953年、ロスアンゼルスから帰郷。ふる里の惨状を目のあたりにし、人々に希望と誇りをもたそうとこの歌をつくったという。」とあった。
  殴られ、叩かれ、蹴飛ばされ、踏みつけられ、叩き潰されてもなお、起ち上がろう、ということだ。1953年といえば、戦争が終わってまだ8年しか経っていない。米軍の占領下でもあり、ウチナーンチュの多くは貧乏で、差別され、虐げられる日々を暮らし、明日への希望も薄かったのかもしれない。そんな時に『ヒヤミカチ節』。
 今聴いても元気が出る唄だ。当時の人達はどんなにか慰められたであろうかと想像すると、胸が熱くなる。ウチナーグチを知らないと意味が解らないというのが残念だが、『ヒヤミカチ節』、東日本大震災の被災地にも届けたい。
     

 記:2011.7.4 ガジ丸 →沖縄の生活目次

参考文献
『正調琉球民謡工工四』喜名昌永監修、滝原康盛著編集発行
『琉球列島島うた紀行』仲宗根幸市著、琉球新報カルチャーセンター編集発行


台風時の過ごし方

2011年08月12日 | 通信-社会・生活

 台風9号は稀に見るのろのろ台風で、沖縄島は8月4日昼過ぎに暴風圏に入り、暴風圏から抜けたのは丸二日近く経った6日の昼過ぎであった。暴風圏の中、車を運転するのは嫌いなので、4日昼後から6日のお昼まで私は、倒れた物置を立て起こすために1分かそこら外に出ただけで、あとはずっとヤーグマイ(家籠り)であった。
  ヤーグマイしているあいだ何をしていたかと言うと、炊事、食事、雲子、歯磨き、入浴など以外はほぼパソコン作業。先ずは、撮り貯めてあるたくさんの写真と図鑑とを交互に睨めっこしながら、正体不明の植物や動物たちの正体追及作業に励んだ。正体不明はざっと数えて植物400種、動物200種ばかりある。最初の3時間で判明したのはその内たったの4種だけ。いつ果てるともない作業だ。疲れてしまった。
 「3時間でたったの4種」には訳がある。現在私の家にある図鑑は6冊、それらは全て私の所有物だが、他に私の所有物ではない参考文献は職場に8冊ほど、図書館には、数えたことは無いがたぶん10冊以上ある。「この写真の植物はこれだ!」と、私の所有物である図鑑の写真だけではなかなか特定できないのだ。で、いつもなら職場や図書館の図鑑を借りているのだが、暴風圏だった二日間は職場も図書館も休みだった。

 私の父は31の歳でマイホームを建てている。鉄筋コンクリート造り二階建ての立派な家だ。・・・と改めて考えると、31歳で鉄筋コンクリート二階建てを新築するなんて、今年一畳ばかりの畑小屋を手作りするのがやっとの私など比べようも無い。「父さん、あんたは偉い!」と思う。いや違う、その手柄の半分は主婦をしながら働き続けた母のお陰なので、「父さん、母さんあんたたちは偉い!」と言い直そう。
 私の両親は初のマイホームを建ててから15年後、父が46歳の時に二度目のマイホームを建てている。それが現在の実家。二度目のマイホームは最初と同じ場所で、建て坪は倍以上の鉄筋コンクリート三階建てとなった。最初の家を潰しての新築であった。建ててから15年しか経っていない前の家を潰したのには訳がある。
 父31歳のマイホームは安普請であった。沖縄の建築業者の技術が未熟だったということもあろう、当時の沖縄の建築資材、鉄筋、セメント、砂などの品質が粗悪であったということもあろう、建ててからすぐに雨漏りがした。あちこちいろいろと補修したが、台風の際の、横殴りの激しい雨の場合は雨漏りは続いた。

  雨漏りのする家で台風時は大騒ぎとなった。雨戸を閉め、雨戸が飛ばないよう釘で打ち付け、畳をあげ、雨漏りのしない場所へ積み、バケツやら鍋やらを雨漏りのする個所に置いた。祖父母、両親、従姉(一緒に住んでいた)、兄弟家族一同、雨漏りのしない場所に集まった。その頃は台風になるとほぼ決まって停電した。ローソクの灯りの中、家族との会話、時には誰かが語る幽霊話を聞きながら台風の時間を過ごしていた。
 台風時、中学生になってからは映画を観に行ったりもした。映画館は稼ぎ時でたいてい開いていた。ビデオが普及するようになるとビデオを観たりもした。しかし、オジサンとなった今は、暴風の中外出する気はさらさら無く、ビデオもなかなか観る気にならない。地デジ化になってテレビも観られなくなった今は、ヤーグマイして植物動物のお勉強ばかり。「若さが無いね」と言う人もいるが、若くないのでしょうがない。
          
          

 記:2011.8.12 島乃ガジ丸 →今週の画像