私好みの映画を多く上映している桜坂劇場は、その会員になると一年ごとの更新時に2枚、誕生日に1枚の計3枚の招待券が貰える。その3枚、毎年無駄にすることが多いのだが、今回も10月23日が期限の2枚と10月末日が期限の1枚ともに19日まで手元にあった。その内の1枚を19日に知人のIさんにあげて、残る2枚の内の1枚を去った日曜日(21日)に使った。観た映画は『ニッポンの嘘』というドキュメンタリー。
終戦後、広島の原爆、原爆の後遺症、学生運動、成田闘争、原発問題、公害等を撮り、それを世間に訴えた90歳(1921年生まれ)の報道写真家が主役。
自民党政治家の演説でよく耳にした「一等国」、そうなるために戦後、日本国は政治も経済も頑張ってきた。そして、そうなった。お陰で私も大学進学ができ、就職して月20万円(零細企業だったので資格を持っていてもそれだけ)くらいは稼げ、酒をたらふく飲め、年に2回は安宿の貧乏旅ではあったが旅行することもできたと思う。
「一等国」が広辞苑にあった。「国際上、最も優勢な諸国の俗称」とのこと。「優勢」とは何か?「勢い・形勢などが他にまさっていること」(広辞苑)のようだが、ここではおそらく経済的、軍事的に「他にまさっていること」であろうと思う。いわゆる富国強兵を成し、それが世界のトップクラスであれば「一等国」ということだ。
日本は、建前上は軍隊を持ってはいけないことになっているが、現在の日本の軍事力は世界有数であろうと思う。経済的には長く世界のトップクラスにある。したがって、日本は「一等国」に違いない。焼け野原となった戦後、一所懸命頑張って、奇跡の復興を成し遂げ、高度成長期を経て「一等国」になって、それは長く続いている。
私は普通に、日本が一等国になったのは世界から「働きアリ」と揶揄された日本人の勤勉さ、真面目さによる国民の努力のお陰だと思っていた。しかし、国民の努力も当然あったのであろうが、経済界の意向を酌んだ自民党政治のお陰もあったのであろう。
自民党政治によって富国になり、何とか平和が保たれ、それによってほとんどの国民が幸せを得た、あるいは幸せだと感じたであろう。何しろ、マイホームを持ち、マイカーを持ち、家には電化製品が溢れ、世界の料理を口にでき、毎日酒が飲める。こんな裕福な国に生まれて良かったと思うだろう。そういうことが幸せの尺度であるならば。
一等国になったのは政財界の力と国民の努力のお陰だが、しかしながら、一等国になる過程で見棄てられた国民もいる。それを映画『ニッポンの嘘』は描いている。そのことが映画の主旨なのかどうかは解らないが、私はそれに気付き、そう感じた。
一等国が見棄てたものは、一等国になるために「足手まとい」となる者たち。頂上を目指し山道を歩くには「お荷物」となる者たち。経済的に役に立たない者を捨てる「姥捨て山」の姥となる者たち。一等国であるためには都合の悪い「臭いもの」の臭いものと見なされ蓋をされた者たち。そして、誰がそれらであるかは国が判断してきた。
「一等国」とはしかし、「裕福である」ということだけが価値基準であろうか?原発に頼らない社会の中で、高級料理は食えないけど美味い蕎麦は食える、毎日は飲めないけど週に2日は美味い酒が飲める。それで「一等国」とはならないだろうか?
記:2012.10.26 島乃ガジ丸