先々週の木曜から土曜日までの三日間デイサービス施設でアルバイトをした。多少の傷は心に負っても体に負っても平気な私は、まあ、早く言えば、心も体も大雑把にできている私は、気遣いの必要な仕事は向いていないということがよく解った。
この人は右の膝が曲がらないので・・・、この人は左腕がリウマチなので・・・、この人は食事ができないので・・・、などとあれこれ覚えなければならないことが一杯あったが、うっかり忘れてしまう。ベテランスタッフの一人にしょっちゅう注意された。
長く肉体労働をしていたので力仕事は苦にならない。老人一人持ち上げたからといって腰が痛くなるなんてことも無い。その面ではスタッフの役に十分立ったと思う。私は頭が良い(自分で言うのもなんだが)ので頭脳労働も得意だ。お年寄りたちと話していて、その人が何に興味を持ち、何を語りたがっているのかを理解することができる。その面ではお年寄りたちの役に立てたと思う。私の体は人の役に立つに足りている、私の頭も人の役に立つに足りている、しかし、私の心はどうやら不足しているようだ。
最終日、三日目の土曜日、私はギターを弾いた。人前でギターを弾いたのは20年ぶりくらいのことだ。ギターを弾いて歌った。お年寄りたちと合唱した。声を発する力の無い人、耳が聞こえなくて歌えない人、寝たきりの人などを除いて合唱したのは3人のお年寄りだけだったが、声を出せない人も耳を傾けていてくれたと思う。良い時間だった。良い時間に参加できて私も嬉しかったが、お年寄りたちも喜んでくれたと思う。
私は、このバイトをする前、年寄の楽しみは食うことだろうと思っていた。ところが昼飯時、施設のまかないのHさん(私とは旧知の料理上手おばさん)の料理は美味しいはずなのに、お年寄りたちは皆、そう楽しそうでは無い。ただ黙々と食っている。ゲームをしている時や歌っている時に比べると、食事の時は笑顔の量が少ない。で、それは何故か?と考えた。お年寄りたちの喜びは何なんだ?と考えた。バイトの分際で。
たった3日間のバイトの分際で、これから生意気なことを言う。「実際に仕事としてやっている私達は世話を見るだけで精一杯なのよ、一人一人のお年寄が何を望んでいるかなんて考える余裕は無いのよ。」なのかもしれないが、生意気を言う。
食事をしている時、風呂に入っている時、トイレに行く時など、お年寄りたちはスタッフの世話になっている。「世話かけて申し訳ない」とたぶん思っている。
ゲームをしている時は、「スタッフと一緒に楽しんでいる」と、思ってはいないかもしれないが、(たぶん)心のどこかで感じている。歌っている時は、「楽しい時間に参加して、私も協力している」と、思ってはいないかもしれないが、(たぶん)心のどこかで感じている。私と話している時、「この男は私の話に興味を持ってくれている」と、思ってはいないかもしれないが、(たぶん)心のどこかで感じている。
そういった面で、私がこの3日間でもっとも強く印象に残ったのは一人の老婆とユンタク(おしゃべり)している時のことだ。「Tさん、私にウチナーグチ(沖縄口)を教えてくれませんか?」と頼んだ時、Tさんはとても嬉しそうな顔をした。「あー、そうか」と思った。「自分も人の役に立っている」という喜びなんだ、と思った。
記:2011.11.25 島乃ガジ丸