ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

明日に架けるはしご

2006年03月31日 | 通信-その他・雑感

 知人のKさんから水曜日(29日)の夕方電話があって、「会わせたい人がいるんだけど、来ない?」と誘われる。Kさんの言う会わせたい人とは、女では無く男、中年のオジサンであったが、会いに行く。ジャズのライブハウスで0時過ぎまで飲む。
 その席で、Kさんから「基地の中に面白い店がある。日曜日に行こう」と誘われる。「基地の中の面白い店」には非常に興味をそそられたので、応諾する。
 Kさんの家を明日訪問するという予定も入っている。これは、Kさんとは直接の関係は無い。Kさんの奥さんと中学生になる娘に、もう2ヶ月以上も前から約束していたことなのだが、その約束がやっと果たせるのだが、彼らを相手にパソコン講座を行うことになっている。友人の、新婚の娘の、買ったばかりのパソコンにソフトをインストールするという作業も頼まれていて、これも明日行う予定となっている。
 見た目が優しそうに見える私は、このような「頼まれ用事」がちょくちょく入る。「頼まれ用事」は、仕事が忙しい時期にはできなくて延期していたことも多い。仕事が忙しかった時期に延期、または中止したことは「頼まれ用事」だけでは無い。ここ3、4ヶ月ばかりは映画も観に行っていない。その時間が作れない。美人人妻からデートのお誘いもあったが、すべて断っている。その時間も作れなかった。

 人妻からのお誘いは断っているが、ところが、断らない、断れない、断りたくない相手から3週間前にお誘いメールがあった。で、先週土曜日、久々にデートをする。相手は21歳の可愛い娘。美術展を観、おしゃべりし、食事をし、の5時間を過ごした。
 21歳は、自身の感性の良さがはっきりと見えないらしく、オジサンにそれを褒められてもはにかむだけである。「私なんか」とか、「私には無理」と思うこともいくつかあるらしい。まあ、私も若い頃は自分に自信が無くて、彼女と同じように、自分で自分の可能性を否定し、自分で自分に鎖を掛けるみたいなところがあったのである。おそらく、世の中の多くの人はそうなのだろうと思う。プロボクシングの亀田兄弟みたいに、若い頃から自信満々で、自分に不可能は無い、などと思っている人は僅かであろう。

 1970年に発表されたサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」は、世界的に大ヒットし、私も知っている。メロディーだけなら口ずさむこともできる。ただ、歌の内容は知らない。英語だから、私は英語が読めないから。それでもおそらく、「明日に希望を持って生きようぜ」といった内容であろうと、その題から想像する。
 さて、表題の「明日に架けるはしご」であるが、じつは、「明日に架ける橋」に続編があった、・・・というのはウソ。それは、21歳とのおしゃべり中に私が思いついたことである。高い所に大好きなケーキがあるが、手が届かない。そんな時はいろいろ工夫するだろう。考えて努力して何とか手に入れようとするだろう。はしごを思いつき、材料を探し、作って、架けて、1歩1歩登っていくだろう。つまり、「明日に架けるはしご」とは、自分の好きなもの、あるいは、自分の夢を手に入れるための「はしご」なのである。
 「自分にできることを探すのでは無く、自分の好きなものを探して、それを目指すようにしたら」というのが、オジサンが若い娘に助言したことであった。「高い所にバナナがあったら、サルだってはしごを登るぜ」とも付け加えた。

 記:2006.3.31 ガジ丸


慌てる乞食は難儀する

2006年03月24日 | 通信-沖縄関連

 先週ついに、ガジ丸HPのデータ量がサーバー側の用意しているディスク容量を超えてしまい、アップができなくなった。今から思えば、その兆候は1ヶ月ほど前からあった。いっぺんにたくさんのファイルをアップすると、エラーになったのだ。しかし、それがデータ量の多さのせいだとは思わなかった。HP作成ソフトで見る限りでは、ガジ丸のデータ量は、サーバー側の用意しているディスク容量の半分以下だったからである。
 ところが、調べてみると、サーバーのディスクには不用ファイルがあるという。ファイルを書き直したり、入れ替えたり、場所を変えたりした際の古いファイルがそのまま残っているらしいのである。不用ファイルがたくさんあって、サーバーのディスクが満杯ということなのだ。そこで、その不用ファイルを削除することにする。検索したら不用ファイルは500以上もあり、その内、200ファイルばかりをいっぺんに削除した。
 ところが、「不用」ファイルは、その全てが「不要」ファイルというわけでは無かった。そういえば、HP作成ソフトのヘルプにも、「削除する場合は確かめてから」と書いてあった。確かめることを面倒臭がったお陰で、たくさんの必要ファイルが消えてしまった。各記事の背景が消えてしまった。読みやすいようにと変更した書式が元に戻っていた。
 ガジ丸HPのファイル数は700を超えている。どこがどのように変わったのか、どんな不備があるのかいちいち調べるのは面倒だったので、「えーい!鬱陶しい、全部新しく入れ直しちまえ」と、全てのファイルをあらためてアップした。
 ところが、いっぺんに多くのデータ転送には無理があったらしく、データ転送の途中でエラーになってしまった。その後は、サーバー側とのアクセスも出来なくなってしまいやがった。その修復に、あれこれ手を変え品を変え2時間余りもてんやわんやしたが、結局は、その日の内に直すことはできなかった。ガジ丸HPがこの世から消えた。
 最初のミスは、サーバー側に容量を増やすようお願い(有料)すれば済んだのだが、その何百円かをけちったばっかりに、小さな水漏れが大洪水となってしまった。早く直さなければという焦りもあった。そのお陰で、翌土曜日は、朝から難儀する。修復には6時間余りを費やした。まあ、つまりは、慌てる乞食は難儀する、ということだ。

 高圧的な国のモノの言いように腹が立つ。「計画は決まったことである」なんて、まるでバブルの頃の地上げ屋みたいである。「ここにマンションを建てることは決まったことだ。だから、早く出て行け」などと、札束をちらつかせながらチンピラが言う。それに似ている。濃い墨総理は、それがいかに下品なことであるかに気付かないのだろうか。
 普天間基地が危険なことはウチナーンチュが良く知っている。だから、早く返還して欲しいと思う。だからといって、島の別の場所に新たな基地を作ることは避けたい。いったん新しい基地を作ってしまうと、これまで60年間基地が居座ったように、この先60年間以上も基地が居座り続ける可能性が高くなる。ここは、慌ててはいけない。じっくり考えて、他に方法がないか知恵を出さねばならない。国がちらつかせる札束に眼が眩んではいけない。乞食になってはいけない。将来に難儀を残してはいけない。

 記:2006.3.24 ガジ丸


頭を垂れない稲穂

2006年03月17日 | 通信-その他・雑感

 今年、沖縄は暖冬であった。去年12月の23日までは記録的な寒さであったが、それ以降はまた、記録的な暖かさとなり、概ね暖かいまま春となってしまっている。
 暖冬とはいっても、この3ヶ月で10日くらいは寒い日があった。私はずっと羽毛布団1枚であったのだが、そんな寒い日に限ってびっしょり寝汗をかいた。・・・何故?
 たまにやっている気功のお陰で、私の体の細胞は、その隅々まで元気に働くようになっている。布団1枚では寒い、という日になると、細胞が勝手に動いて体を熱くしてくれている、のであろうと想像される。汗が滲む程度の、ちょうど良い加減で体を熱くしてくれるといいのだが、私の細胞はどうも、お調子者のようで、暴走するみたいである。
 月曜日、気温が急に下がって、非常に寒い朝であった。お調子者の細胞が暴走した。寝具は羽毛布団のみであったが、その布団が重く感じるほど汗で濡れていた。その布団を除けると、着ていたトレーナーもトレパンも、中のパンツもTシャツも汗でびっしょりだった。気化熱の法則(って、いうんだっけ)によって、体がヒジョーに冷たくなった。後で知ったことだが、その日は、気温が前日より7度も下がったのだそうだ。
 私は風邪をひいていた。その症状からして、本格的な風邪の予感がした。仕事には出るが、残業せずに帰って、暖かいものを食って、早めに寝る。予感はあっていて、症状はしだいに重くなっていった。とにかく、体を休める。ところがである、ただ寝ていただけなのに、翌朝、症状は軽くなり、仕事から帰って暖かいスープを一杯飲んでしばらくすると、症状は消えた。本格的な風邪ならば、治るには3、4日要すると思っていたのに。
 人間の自然治癒力というものは、元々は、「風邪や食中毒を治すのは朝飯前だぜ」というほどの力を持っていたのだと思う。それが、外からの助け(薬や注射)を借りるようになって、まるで、補助輪が無いと自転車に乗れない人のようになってしまったのではないか。自然治癒力が持つ本来の力が弱くなってしまったのではないかと思う。
 もう十年以上もの間、病気しても医者にかからない、薬を飲まない、を続け、自らの自然治癒力を鍛えている私は、本格的な風邪も、その症状が1割も出ないうちに、たった1日で治してしまうほどになったのである。「俺は偉い」と自画自賛するのである。そこで、じつは、「こんな丈夫な体に産んで育ててくれた母上、父上ありがとう」などと感謝しなければならなかったのだが、謙虚になるべきなのだが、しかし、私は頭を垂れない稲穂であった。「どうだまいったか、風邪菌め、俺の自然治癒力の力を思い知ったか。」などと思うのであった。その日、養生をしなかった私は、翌日の朝、風邪がぶり返した。

 ある公共工事の現場代理人(工事を施工する業者の現場監督のようなもの。代理とは、社長の代理という意味)をやっている同僚のTに、「役所の人に竣工(工事が終わったということ)書類の確認をしてもらうので、一緒にきてください」と頼まれた。面倒な工事だったので、書類も面倒なので、一人では難しいのだろうと思い、ついていく。
 民間の大手の土建屋に、下請け業者の人間に対し威張り散らすお偉いさんがたまにいるが、役所の人でそういうような人を、私は久しぶりに見た。施工業者に対し、役所の担当者は絶大な権力を持っている。それだけの重い力であれば、それは頭を垂れるのに十分であろう。それが、まあ何とも居丈高、いるんだな、まだ、こんな人が。

 記:2006.3.17 ガジ丸


マチゲー見ーシガ

2006年03月10日 | 通信-沖縄関連

 マチゲーとはウチナーグチ(沖縄口)で「間違い」のこと(別の意味もある。それについてはこの後、述べる)を指す。これは江戸弁に似ている。「親分、それに間違げぇ無ぇですぜ」と、岡っ引きの手下が言ったりするのをテレビの時代劇で耳にする。マチゲー見ーシガはだから、「間違いは見えるけど」といった意味で、その後に、「まあ、その程度は許してやろうぜ」という心が含まれている。テーゲー(大概)の心。
 「キラマー見ーシガ、マチゲー見ーラン」という沖縄のことわざがある。この場合のマチゲーは「間違い」という意味では無い。マチゲーは「睫毛(まつげ)」のこと。キラマーは「慶良間は」という意味(キラマで慶良間、マーと伸ばした横棒「ー」が助詞の「は」になる)になり、全体では、「慶良間は見えるけど睫毛は見えない」ということになる。
 慶良間とは慶良間諸島のこと。渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島などの島々からなり、その海は世界有数の透明性を持ち、ダイビングスポットとして有名。沖縄島の南西に位置し、ごく近いところにあるので、島々の影は沖縄島から良く見える。その慶良間諸島は見えるのに、睫毛は見えない。遠くのことは見えるのに、目の前のことは見えない人のことを戒めて言う場合に使う。それは距離的なことだけで無く、時間的なことも含まれる。また、夢ばかり追わず現実を見よ、ということも含まれているのかもしれない。
 絵を描いて、それを7年前に買ったスキャナーでパソコンに取り込んだら、全体にノイズが多く、そのノイズを消したら変色してしまった。スキャナーは使えないなと思った私は、描いた絵をデジカメに写してパソコンに取り込んだ。1枚の絵につき6枚の写真を撮った。近くから明るいところで、日差しのあたるところで、日陰でシャッターをたいて、の3枚、離れたところから同様に3枚、どれかが使えるだろうと思ったが、どれも満足のいく出来にはならなかった。写真加工のソフトでいじってみたが、だめだった。
 描いた絵をきれいにパソコンデータにするのは無理かと半ば諦めていたのであるが、月曜日、出勤したら、職場に去年買った電話、ファックス、コピー、スキャナーの機能の付いた機械があることに気付いた。それで描いた絵をスキャナーすると良い出来のデータになった。「うー、こんなところに最新型のスキャナーがあったとは、迂闊であった」と反省したのであるが、こういうのを「睫毛は見えない」と言う。
 隣の若い女は、越してきてから約1年になるが、生活の時間帯が違うみたいでほとんど顔を合わせたことが無い。これまで5、6回くらいではないだろうか。顔を合わせば挨拶はするが、話をしたことは無い。なので、まじまじと顔を見たことが無い。日曜日、畑仕事をしていたら、彼女が降りてきて、顔が会った。挨拶をした。その時、いつもよりはほんの少し長い時間、顔を見た。可愛い子であった。こんな近くにこんな可愛い子がいたのに、1年も気付かずにいた。こういうのも「睫毛は見えない」と言う。
 耐震偽装に気付きながら「まっ、いいか」と許していた発注者、談合に気付きながら「まっ、いいか」と許していた役人などの心は、自分にも不利益が及ぶことに対しては、見ても知らん振りしているに限るといった心。こういうのは「睫毛は見えない」と言うのではなく、「間違いは見えるけど知らん振り」といった意味で、「マチゲー見ーシガ、知ランフーナー」とウチナーグチでは言う。そういう大人が、今、増えているのだろう。

 記:2006.3.10 ガジ丸


自然治癒力機能付き

2006年03月03日 | 通信-科学・空想

 先週月曜日、重症食中毒に襲われ、ミジグス(水糞)を一晩中 垂れ続けた。夜8時に最初のトイレ、爆裂した噴出物は固形物のいくらか混じったもの、これが、その1時間後の3回目からはほとんど水となる。下痢は翌朝までに8回続いた。水を飲んだだけでも腹がグルグルするので、水もほとんど飲めない。それでも、下痢はする。馬の小便のように激しい勢いで水分が尻から噴出される。このまま水を飲まなければ干からびてしまうのではないか、脱水症になってしまうのではないかと心配になる。で、少し飲む。飲むと下痢をして、飲んだ量の十倍くらいの水分が出される。ヘトヘトになる。
 それにしても、いったい、体のどこにこんな水分があるのだろうかと思う。いやいや、人間の体の70%は水分だと言うので、水分がいっぱいなのは解る。が、その全てが絶対必要な水分では無いということなのであろう。余分な水分、あるいは、万が一のための予備水分があるということだ。体のどこかに予備水分を溜めておく予備タンクがあるのか、または、体の細胞一つ一つに僅かずつ予備水分があるということなのかもしれない。
 まあ、とにかく私の体から出されたのは、そういった予備水分であったということにしよう。それも、細胞の一つ一つから搾り出された古い予備水分。ということは、私の体の細胞は古い予備水分を吐き出して、リフレッシュしたということになる。ということは、私の体の自然治癒力機能は、細胞までも掃除する高機能なものであると言えるのだ。

 旧デジカメが壊れて、それを、買ったカメラ屋さんに持っていって見せたら、「内部の故障ですね。修理には1万円から2万円ほどかかりますね」と言われた。で、新デジカメを買うことになったわけだが、その店には、古いデジカメ高価下取りという張り紙があった。そこで、「このカメラはいくらで下取りできますか」と訊くと、「千円です」との答えだった。千円が高価なのかどうか人によって受け止め方が違うとは思うが、私にしてみれば、「えっ!これまで数年もの間役に立ってきたカメラが、たったの千円ってか!」という軽い衝撃だったので、下取りには出さないことにした。写真を撮る機能は失くしたといっても、その色形には愛着がある。部屋に飾っておくことにした。
 日曜日は掃除の日、棚に飾ってあった旧デジカメの埃を拭き取る。「そういえば、電池を入れっ放しだったな」と思い出し、電池を抜くことにする。その時ふと、もう一度試してみるか、とカメラの蓋を開けた。そのカメラは蓋をスライドさせて開けるとスイッチがオンになる仕組みになっている。ところが、その機能そのものが壊れていて、蓋をスライドさせてもスイッチが入らない状態だったのだ。私が何十回と試しても、カメラ屋の人があちこち弄りながら何度試してもダメだったのだ。ところがそれが、まあ、なんとも。
 旧デジカメのスイッチは、元気だった頃と何ら変わらず、すんなりとオンになった。記録カードを入れ、ファインダーを覗き、シャッターを押す。写真は撮れている。何度も試す。写真は普通に撮れる。なんとも、まあ、不思議なことが起きたのである。
 機械にも自然治癒力機能があるということなのだろうか。そっと休ませて置いたら、勝手に歪んだ歯車が元に戻ったということなのだろうか。これはすごいことである。たとえ故障したとしても、休ませば元に戻るのである。これから先の未来は、自然治癒力機能付き機械の時代となるであろう。機械の体内に常駐しているミクロのロボットが、勝手に故障を直してくれるといった仕組み。これはきっと、機械の革命になるに違いない。

 記:2006.3.3 ガジ丸