ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

歯の生えない子供たち

2005年05月27日 | 通信-社会・生活

 ガジ丸通信4月の「操縦士の野望」で、マジンガーZやらガンダムのように、人間が中に入って操縦できるようなロボットも近いうちに実現するのではないか、なんていう内容のことを書いたが、ちょこっと体に装着するだけで、ひ弱な人間でも怪力の持ち主になれるような機械が先日のニュースで紹介された。どの程度パワーアップされるのか詳しいことは聞きそびれたが、それはまだ発明されたばかり、これからさらに改良が進めば、40キロのバーベルを持ち上げるのがやっとだった男が、100キロでも軽々と持ち上げられるようになるかもしれない。ラクして強くなりたいという男の願望の実現だ。
 その機械、愛知万博で披露されるという。明後日から3泊4日で万博見学を予定している私は、「これはぜひ見なきゃ」と喜んだのであるが、残念なことに、披露されるのは6月を少し過ぎてからのことらしい。私の万博見学が終わった後の話だ。ホントに残念。
 もう一つ気になったニュース。
 月曜日(23日)のフジテレビ、朝の情報番組トクダネで、乳歯が抜けた後に永久歯の生えない子供たちが増えているという内容のものがあった。そういった子供が10人に1人くらいはいるらしい。噛まなくても生きていける時代になったということだろうか。
 子供の頃、「未来人はこうなる」なんて想像画が子供向け雑誌に載っていた。体も手足も細長くなり、目は大きく口は小さい。頭はでかく顎は細い。それは、今テレビでやっているNOVAのコマーシャルで、「・・・異文化コミュニケーション・・・」なんて関西弁でしゃべっている宇宙人にそっくりなものであった。
 食料は全てロボットの手によって工場生産され、錠剤、あるいは流動食のようなものに加工され、ただ飲み込むだけで済む。噛む必要は無い。よって、歯は要らない。歯が無ければ口は小さくなり、顎は細る。錠剤も流動食も完全栄養食となっていて少量の摂取で済む。すると胃も腸も小さくて済む。体が細くなる。少量の摂取は排便も月に1回で済む。完全栄養食は余計なものが少ないので、雲子もウサギみたいに丸い粒かもしれない。
 月に1回、ぴょこと丸いのを一粒お尻からだして、ゴミ箱に放る。臭くも何ともない。彼らから見れば、旧人類の雲子はおぞましいものに違いない。何でこいつらは体からこんな汚いものを排泄するんだ。他の動物の肉を食っているし、体も臭いし、毛も生えているし、顎も張っているし、口の中には牙もある。他の動物とちっとも変らないではないか。こいつらと俺らは根本的に違う生き物ではないか、と考えるに違いない。
 しかしながら、遠い未来、もしもNOVAの宇宙人みたいな新人類たちが世界を支配するようになったとしても、腰をかがめて田植えする人、鍬を振り下ろして畑を耕す人、そういった旧人類の姿が消えることは無かろう。大地にはモグラやミミズが住み、田んぼにはタガメやゲンゴロウが住み、原っぱにはバッタやトンボ住んでいるなんてことを知っている旧人類は、おそらく、地球に住む限りは、未来人より強い。負けるこたぁ無い。

 記:ガジ丸 2005.5.27


誰かの幸せのために

2005年05月20日 | 通信-沖縄関連

 古き良き時代の沖縄は、敷地の塀(主に石垣)もそう高いものでは無く、大人の目線からだと中を覗くことができた。門に扉は無く、いつも開放されている。塀沿いの道を歩きながら中を覗いて、家の人の姿が見えて、ちょっとユンタク(おしゃべり)したいなと思ったら誰でも中に入ることができる。開放されているのは門だけでは無く、建物もまた、嵐の日でもない限り戸は開け放たれている。門を入り、庭を通って縁側に向かいながら家の人に声をかける。 
 「ちゃーびらさい(ごめんください)」と言い、返事を待つことなく縁側に腰掛ける。
 「あね、誰かと思ったら純一郎じゃない。しばらく見なかったねぇ。忙しいのねぇ。」 
 「いやー、『誰が言っているの?お前が言っているんだ!YouSey民営化』がなかなか上手くいかなくてねぇ。忙しくて、帰ってくる暇が無かったさあー。」
などなどと始まり、しばしのユンタクタイムとなるわけである。
 縁側にはたいてい、お茶の入った急須と湯飲みが、黒砂糖などのお茶請けと共に用意されている。それらは、友人知人親戚、あるいは近所の人たちのためだけにあるのでは無く、ここを通り、喉が渇き、疲れていて、一時休息したいと願う不特定多数の誰かのためにでもある。
 「ちゃーびらさい(ごめんください)」と言い、返事を待つことなく縁側に腰掛けるのは、通りすがりの旅人であってもいいわけだ。
 「あら、見かけない顔だけど、旅のお方?」
 「そうです。すみませんが少し休ませてもらえませんか」
 「はいはい、どうぞどうぞ、どこから来たの?大和からねえ。大変だったねぇ。疲れてるでしょ?黒砂糖でも食べて元気出しなさいね。」などといった光景となる。
 旅人が休息した家がたまたま留守の場合もある。その場合でも、中に入り、縁側に腰掛け、しばしの休息を取り、そして、縁側にあるお茶とお菓子は、許可を得ずとも頂いていいことになっている。誰かの幸せのために用意されているのだ。役に立てばお茶もお菓子も本望というもの。
 そんなことができたのも、人が人を十分に信頼できる環境にあったからこそ。もしも、旅人が悪い奴で、家のものを盗んでいったとしたら、それはごく珍しい不運であったに違いない。そして、そんな不運は、宝くじの1等に当たるくらいの確率でしか起こらなかったに違いない。
 田舎では、今でも縁側にお茶とお菓子が用意されている地域もあると聞くが、そんな素敵な風習、現代の沖縄のほとんどの地域では、もはや廃れてしまっている。家を開けっぴろげなんかしておくと、宝くじの6等に当たるくらいの確立で不運に遭遇してしまう。
 「昔は良かった」・・・なんてことは、実は、無い。昔が良かったのはごく一部のことで、生活の大部分は現代の方がずっと良い。洗濯機がある、掃除機がある、テレビ、冷蔵庫があり、パソコンでインターネットができる。飛行機に乗って、その日のうちに東京へ行ける。電車に乗って懐かしの吉祥寺にもその日のうちに行ける。スーパーに食い物は溢れている。コツコツ働いていれば飢え死にすることは無い。こんな便利で楽な生活を捨てて昔の暮らしに戻る?なんてとんでもない。人情よりも食い物が溢れている今の方がずっといい、と私は思う。
 とは思うが、「金さえありゃ」という社会に生きている以上、ある日突然、首を絞められ、金を奪われ、海に投げ捨てられるかもしれないというリスクは常に伴っている。いつ交通事故に遭遇するか知れないし、不治の病に冒されるかもしれない。会社が倒産して路頭に迷う状況になるかもしれない。楽な暮らしの裏側にいつも不安を抱えているわけだ。
 そんな不安を抱えつつ、少なくとも日常の生活は平和でありたい、と望む。そのためには周りの人たちと仲良くするとか、困っている人がいれば助けてあげるとかすればいいのではないか、そんな宗教家みたいなことを最近考えたりする。見知らぬ誰かのためにお茶とお菓子を用意するなんてことも、実は、平和であることを望む心の表れだったのかもしれない。
 幸せになった不特定多数の誰かはきっと、自分を攻撃したりはしない。つまり、敵にはならない。敵がいなければ平和は保てる。平和が何よりと思う人にとって、誰かの幸せのためになることは自分の幸せのためでもある。平和よりも大事なものがあると思っている人も多いので、軽々しくは言えないが、靖国問題。A級の人を別にすれば隣近所も文句を言わないだろう、仲良くしてくれるだろうと私は思うのだが、そう簡単な問題では無いのだろうな。

 記:島乃ガジ丸 2005.5.20


時代の流れ

2005年05月13日 | 通信-沖縄関連

 琉球王朝時代の沖縄は、独立国ではあったが親分が三人いた。直接の上司のような小親分、その上にいる中親分、それらとは別途にアジアの大親分とも関わりを持っていた。
 小親分は薩摩藩、直接的に琉球の富を搾取していた。中親分は日本国、琉球を外国と見なし、薩摩藩が管理していることを認めていた。大親分は中国、時々挨拶に来る琉球をカワイイ子分と思っていたようで、10の土産に100のお返しをする、さすがアジアの大親分と言われる鷹揚な国であった。(今も鷹揚であって欲しいが)
 琉球王朝時代が終わり、沖縄が日本国沖縄県となってから80年程が過ぎて、別の親分がやってきて、沖縄を子分にし、土地を奪い、居座った。その親分の力は大親分をはるかに凌ぐものなので、超親分と呼ぶことにしよう。超親分は30年近く沖縄を支配した。
 とぅー ぬ ゆーから やまとぅ ぬ ゆー (唐の世から大和の世)
 やまとぅ ぬ ゆーから アメリカゆー (大和の世からアメリカ世)
 ひるまさ 変わたる くぬ うちなー (不思議なほど変わってしまうこの沖縄)
 これは、(民謡の好きな人にとっては)有名な琉球民謡、『時代の流れ』の一番。この歌を聞くと私は、私の大好きな民謡歌手、数年前に死んでしまったが、嘉手苅林昌(かでかるりんしょう)をすぐに思い出す。無表情な顔をした林昌がボソボソと唄う姿が目に浮かぶ。林昌を思い出すとまた、『時代の流れ』が真っ先に、耳の奥に聞えてくる。
 この歌は8番まであるが、「大和の世からアメリカ世」の後に「アメリカ世からまた大和の世」という歌詞は最後まで出てこない。つまり、沖縄の本土復帰の前に作られた歌だということ。歌詞の中に「パーマネント」、「踵高靴(ハイヒール)」、「タイトスカート」などの言葉が出てくることから、戦後10年から20年過ぎた頃作られたと想像される。作詞したのは林昌。私がそう思うように、世間でもこれは彼の代表作の一つとされている。
 嘉手苅林昌については思うところが多いので、また別の機会に書くことにしよう。
 「アメリカ世からまた大和の世」という歌詞のある歌を佐渡山豊が唄った。彼の代表作『ドゥーチュイムニー(独り言という意)』の中にその歌詞はある。はっきりは覚えていないが、本土復帰直後に発表されたものだと思う。
 沖縄の本土復帰、本土という言葉がいつから使われたのか知らないが、本土イコール日本国という意識は、生まれたときから私の脳の中にあった。が、『時代の流れ』を聴いたりすると、「沖縄の帰るところは本当に日本国なの?沖縄は沖縄に帰ればいいんじゃないの」などと考えたりする。本土復帰は1972年、その頃、沖縄独立党なんてのもあった。
 「また大和の世」になって30余年、その間、少なくとも平和であり続け、戦前よりもアメリカ世よりもずっと豊かにもなった。ほとんどのウチナーンチュが復帰して良かったと思っていることだろう。山が切り崩され、海が汚れ、町には犯罪も増えたなど悪いこともあるが、生活文化の本土化で、沖縄の心が廃れてしまうと心配する人もいるが、何しろ生きているのである。ヌチドゥタカラ(命こそ宝)なのである。のんびりはしているが、なかなかしたたかなウチナーンチュなのである。これから先も、時代がいかように変ろうとも、沖縄の心はきっと無くなるまい。明後日5月15日は本土復帰記念日。

 記:2005.5.13 ガジ丸

 参考文献
 『正調琉球民謡工工四』喜納昌永・滝原康盛著、琉球音楽楽譜研究所発行


こんな世間に誰がした

2005年05月08日 | 通信-社会・生活

 南の島で生まれ育った私は、割合のんびりした性格で、5分、10分の遅れはちっとも気にならない。周りの友人たちには30分、1時間の遅刻も許容範囲内にある者が少なくない。また、自分が遅刻するのと同じくらい、相手が遅刻するのも気にならない。自分もたまに遅れるくせに、相手が遅れるとすごく不機嫌になるのは概ね女性に多い。「15分くらいいいじゃないか」、「その言い方が嫌なのよ」、「そっちだってたまに遅れて来るじゃないか」・・・なんて言い合いになる。まあ、たいしたことでは無いが。
 東京に住んでいる頃、「駆け込み乗車は危険ですのでお止めください」とアナウンスがあるのにも関わらず、大学の友人たちは駆け込み乗車をした。改札から電車が見えたりすると駅の階段を全力疾走したりする。運動会でもないのに全力疾走する経験のあまり無い南島の土着民はあたふたし、「デートの約束があるわけでもないのに、何でそう急ぐんだ」と疑問に思いつつ後に何とか付いて行く。東京でも、沖縄の友人たちと一緒の時は、少なくとも終電でないかぎりはあまりそういうことは無かった。電車は、また来るのだ。
 沖縄では1分1秒を惜しんでまで無理なことはしない、沖縄の電車(あったとしたら)の運転手は2、3分の遅れなど気にはしない、だから、沖縄では無理なことをしての事故はあまり無い。よって、沖縄は良いところである。・・・なんてことを言いたい訳ではない。沖縄のいい加減さは、それはそれでまた、別の事故を生む。“いい加減”のせいで起きた事故は、「テキトーでいいさあ」といった沖縄の雰囲気が起こす事故なのである。
 現在の日本国、その社会を形作っているのは政府や官僚だけでは無い。学者や文化人だけでも無い。言うまでも無く、われわれ国民の全てが社会の形成に関わっている。拝金主義も競争主義も、多くの人々が持っているそういった個々の雰囲気を総合した結果、社会全体がそのような気分で動いているのだろう。1分1秒を惜しみ、1円でも多く儲けようと考える。右の人よりも優位に立ち、左の人よりも多く得をしたいと思う。勝ち組み負け組みなどといった言葉に対し右往左往してしまう。今、この国はそんな雰囲気にある。
 脱線事故の現場近くにある顕花場で、現場の整理にあたっているJRの若い職員に掴みかかっているオジサンの映像がニュースで流れた。内容は忘れたが、ずいぶんと酷いことを、罵詈雑言と言ってもいいほどのことをオジサンは若い職員に浴びせていた。この若い職員に直接的な責任は無い。責任は会社の体質にあり、会社の体質は社会の体質を反映している。社会の体質は、我々一人一人が作り出したものである。身内を亡くしたオジサンの怒りは、若い職員にだけでなく、社会全体にその矛先が向けられるべきものだと思う。
 「こんな世間に誰がした」と唄いながら、私はテレビを観、旨いものを食い、旨い酒を飲んでいる。事故直後、JRの職員がボーリングやゴルフを楽しんでいたということについて、今朝のテレビの報道番組でも強く非難されていたが、彼らが楽しんでいたのと同じように、私も事故のニュースを見ながら酒食を楽しんでいた。私にとって事故は対岸の火事であるように、彼らにとってもそういう感覚だったのかもしれない。末端で働く彼らにも事故の責任があるとしたら、こんな世間の形成にいくらか荷担している私にも、いくらかの責任がある。まるで、正義の味方のように彼らを強く非難していた報道番組のキャスター、評論家たちは、自分自身には微塵の責任も無いと思っているのだろうか。

 記:ガジ丸 2005.5.8