ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

咀嚼の効果

2017年10月27日 | 通信-科学・空想

 私は食べるのが遅い、子供の頃からそうであった。「何をだらだら食ってるんだ!兵隊なら殴られているぞ!」と親父によく怒鳴られていた。しかし、祖母と母は「よく噛んで食べなさい」という教えだった。私は父への反発もあって、よく噛んでいたかはどうかは覚えていないが、わざとのようにダラダラとゆっくり食べていた。
 オジサンとなってからは、よく噛むことに気を付けるようになり、特に、玄米食を始めた20年前頃からは自然によく噛むようになった。玄米はよく噛むと旨味が出てくることに気付き、「旨ぇじゃないか!」と知り、他のものもよく噛んで味わう癖が付いた。
 先日、試にと、一口当たりの噛む回数を数えてみた。口に入れる量で異なると思うが、私は1口の量が少ない(大さじ1杯程度)。それでも、豆腐のような柔らかいもので30回ほど、その他、煮た野菜や煮た薄切り豚肉などは60回ほど噛んでいた。
 
 昔、私の部屋にテレビがあった頃、テレビの食べ物番組などで、タレントが何かを食べて「柔らかくて美味しい」というセリフを何度か耳にしたことがある。別に「甘くて美味しい」というセリフもあった。「柔らかくて美味しい」、「甘くて美味しい」に私は「何言ってやがる、堅くて旨いものが多くあるぞ、よく噛んで感じるほんのり甘さの方が旨いぞ」などと、テレビのタレントと世間の一般論に盾突いていた。私1人の感性に限って言えば、私の意見は正しいと、玄米食を始めて20年経った今は自信を持って言える。

 その玄米だが、ここ1年ほどは、スーパーで玄米弁当なるものを買って食べたことは何度かあるが、家で玄米を炊いて食べたことは無い。300坪の畑を始めた約5年前から、玄米食から芋(サツマイモ)食へと徐々に移っていった。ただ、ここ数ヶ月、芋掘りをしていないので芋食もご無沙汰している。ここ数ヶ月はパンと麺類が多い。
 麺類では腰のあるウドンを好んで食べ、よく噛んでいる。食パンや菓子パンなどは「よく噛む」には不適だが、私が好んで食べているパンはほとんどが堅いパン。私が若い頃はフランスパンと呼ばれていたものが約5割、あるパン屋さんに置いてあるライ麦パンはとても堅くて、それが約3割、その他が約2割といった割合となっている。
 私の好物のライ麦パンは、普通のフランスパンの3倍位は堅い。その堅いものを噛んで噛み切って(私は、歯は丈夫な方)、咀嚼する。ライ麦パンはたぶん、一口100回くらいは噛んでいる。よく噛むとライ麦の雑味が出てくる、それが旨い。
     

 よく噛むことの効果は、前述したように、食物の旨味が判るようになるということだと思われる。芋(サツマイモ)はそう多くはないが、玄米一口の咀嚼回数はライ麦パンと同じく100回くらいだ。すると、玄米の雑味が出てくる、それが美味い。
 咀嚼とは何かを改めて広辞苑を引いた。その第一義に「かみくだくこと。かみくだいて味わうこと」とある。食事とは(私に限って言えば)まさしく「かみくだいて味わう」ものなのだ。飲むようにして食べていたら甘い、辛いなどといったインパクトの強い味を表面的に感じることはできても、噛み砕いて味わうことで得られるほんのりとした旨さを感じることはできないものと思われる。よく噛むと唾液が多く出る。唾液は殺菌効果があると聞いている。虫歯予防になり、免疫力アップにも繋がるのではないかと思う。
     

 記:2017.10.27 島乃ガジ丸


捌けた相棒

2017年10月27日 | ガジ丸のお話

 新しい安アパートは以前住んでいた首里石嶺のアパートに似て、1階2世帯の2階建てで、掃き出し窓のある部屋の外は小さな(3坪ほど)庭が付いている。庭は駐車場の傍にあり、フェンスで区切られている。私はその1階に住んでいる。
     
 引っ越してから数ヶ月後、私の庭の傍に若い女性がポツンと立っていた。可愛い女性であるが、髪の毛、化粧から見て「元ヤンキー」のような印象。私は、可愛い女性に声を掛けるのは得意な方なので、目が合うとすぐに「どうしましたか?」と訊いた。
 「ここ借りるつもりだったけど、断られちゃった。」と答える。確かに、1階のもう1世帯は空室となっていた。何で断られたかについては、「身分がちゃんとしていないからだと思う」と本人は言うが、見た目の影響もあるんじゃないかと私は思った。
     

 「住むところが無いの?」
 「今、借りているところがまだある。」
 「何処?ここから遠いの?」
 「歩いて1時間近くかかった、西原町の○○です。」
 「そこからここまで歩いて来たんだ、バスもあるだろうに。」などとユンタク(おしゃべり)している内に私は彼女に惹かれていた。で、
 「送っていくよ。」、「ありがとう。お世話になります。」となった。

 私は当然、車で送っていくつもりであったが、車は何故か前に勤めていた会社の駐車場に置いてあった。で、2人で歩いて前の会社へ行く。が、会社は宴会でもあるようで、駐車場は一杯で、奥に停めてある私の車は出せそうに無かった。で、車は諦める。
 「バスで行こう。バスも覚えておくと役に立つよ。」となる。
 
 バスに乗って後側のシートに座る。座ると彼女はすぐにもたれかかって来た。「摩れた女だなぁ、夜のお仕事をしているんだな、きっと。」と思った。バスの中に客は我々以外に数名いたが、みな前の方の席で、後ろを振り向く人はいない。それもあってか、彼女はさらに大胆になり私に抱きつくようにベッタリくっつき、そして、目を閉じた。
 彼女は甘い匂いがした。甘い匂いは淫靡な匂いとなって私の脳を刺激し、私の股間を刺激し、そこはビンビンに堅くなった。彼女の腕が私の股間に当り、それを察知すると、彼女は上目遣いに私を見て、そこを手で撫でてニヤッと笑う。「刺激するんじゃないよ、こんなところで抱けるわけ無いだろ」と言うと、「そうだね」と大人しくなった。「摩れた女だなぁ」と、またも思った。やはり、元ヤンキーだったに違いない。
 その時、私にもたれていた体を起こして、窓の外を見た彼女は、「あっ、この辺だよ私の家」と言って、下車ボタンに手を伸ばした。その手を押さえて、
 「今は立てないから次のバス停にしよう。」と私は言う。
 「何で立てないの?」
 「下が立っているから。」というと、「あー、そっ」と彼女は納得した顔をしてニコッと笑った。あいにく、その時私はユルユルのズボンを履いていたのだ。
     

 1つ乗り越したバス停から歩いて彼女の家に向かう。田園風景を少し歩くと、すぐに建物が多く集まった集落になり、そこに彼女の住む家があった。建物は2階建てでまあまあ大きい。玄関から中へ入ると、右手の部屋に小さな女の子2人を含む一家族がいた。父親母親と思われる2人に会釈して、左手にある階段を彼女の後に続いて上がった。
 2階に上がるとダイニングキッチンがあり、その正面と左右にいくつかのドアがあり、そのドアの1つを彼女は指差して「あそこが私の部屋」と言う。バスの中での後始末をしてもらおうと、彼女の指差したドアへ歩きだした私を彼女は止めて、「先ずは、コーヒーでもいかが、そこに座って」と彼女は私を食卓の前に座らせ、お湯を沸かし、コーヒー豆をミルで挽いて、ドリップでコーヒーをいれ、私に飲ませてくれた。美味かった。
 その時、彼女の部屋ではない別の部屋のドアが開いて若い男が出てきた。男は私を見て軽く会釈して、階段を下りて行った。コーヒーを飲み終わる頃にはまた、別の部屋のドアから、別の若い男が出てきて、同じく私に会釈して、彼女を呼んで、少し離れたところでひそひそ何やら声を交わして、そして同じく階段を下りて行った。
 「同居人がいるんだ?今流行りのルームシェアーってやつか?」
 「そう、私の他にもう1人女の子がいたんだけど、2ヶ月前に出て行った。」
 「で、女1人では危険だからあなたも出て行くってこと?」
 「危険って?あれのこと?」
 「うん、男2人に襲われたりしないかってこと。」
 「Hはいいのよ。私は気持ち良くさせて貰っている方なんだから。」
 彼女はそう言いながら、使ったコーヒーカップなどを洗って、それを食器乾燥機の中に仕舞うと、私の方を向いて、「する?」と訊く。面白い女だと思った。捌けている。

 「いや、もう少し話をしよう。・・・だけど、引っ越そうと思ってるんだ。」
 「うん。出て行ったもう1人の女の子、ナツキって言うんだけどね、彼女、料理が上手だったの、私もまあまあ料理はできるから一緒に食事するのが楽しかったんだ。男は2人とも料理しないし、掃除とかもあまりしないし、Hタイム以外は楽しいことが無いのさ、だから、出て行く。来月にはさっきのアパートに越しているつもりだった。」
 「そういうことか。ところで、家賃を支払い、生活できる稼ぎはあるの?」
 「うん、それは大丈夫、昼間はスーパーで、週末は夜のお仕事している。」
 「それなら、私があのアパートの大家さんに話をつけてあげよう。」

 ということで、それから1ヶ月後、彼女は私の部屋の隣の住人となった。引っ越してから数週間後には、彼女は時々、私の部屋に上がり込んで、食事したり、酒飲んだりするようになった。一緒の時間を過ごすことが日を追う毎に長くなっていった。
 彼女は、女にしては正直だった。彼女の言葉は概ね真っ直ぐであった。最初会った時に「摩れた女」だと思ったが、それは間違い。大人になっても天真爛漫が残っていると言い換えた方が近い。「捌けた女だ」とも思ったが、それは概ね正しい。捌けた女は私の好物である。半年後には半同棲みたいになった。私に捌けた相棒ができた。
     

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 2017年10月の沖縄、日中、陽が射していると「バッカじゃないの?」と太陽に怒鳴りたくような天気が続いているが、朝夕は幾分涼しくなり、窓を開け、扇風機で外の空気を流し込めば、夜はグッスリ眠れている。グッスリ眠れると私は多くの夢を見る。夢はハッキリクッキリしたものも多く、そのいくつかは起きても覚えていた。
 上の文章は10月に見た夢の1つ。何年かぶりの淫夢で、登場した相手の女性が可愛かったし、夢の内容も概ねはクッキリ覚えていたので文章にした。あらすじとしては上記の通り、細かい所は、覚めてから想像し付け加えた箇所も多くある。他人の夢の話などつまらないかもしれないけど、せっかく書いたのでブログに載せることにした。

 ちなみに、摩れるは「世の中でもまれて純真さを失う。馴れ馴れしくずるくなる」(広辞苑)という意、捌けるは「世なれていて物わかりがいい」(〃)という意。2つとも別の意もあり、上記の意は2つとも、広辞苑ではその第三義として載っている。

 記:2017.10.21 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


アトモンチビカミキリ

2017年10月27日 | 動物:昆虫-甲虫目

 さらに小さなカミキリムシ

 先週の記事『アヤモンチビカミキリ』で「カミキリムシを触るのは嫌であった」と書いたが、もうたっぷりオジサンとなった今でも、カミキリムシを好んで触ったりはしない。畑には時期(梅雨時)になるとゴマダラカミキリが頻繁に姿を見せる。そいつらはシークヮサーの木に卵を産み、その幼虫が幹に入り込んで木を枯らす、農夫の敵である。

 ここ2、3年姿を見せていないが、近所の大先輩農夫にN爺様という御人がいて、爺様がまだ毎日のように畑に来ていた頃のある日、爺様の畑を訪ねた。爺様は主にシークヮーサーを栽培している。爺様は、私に畑を案内しながらシークヮーサーの枝にしがみついていたゴマダラカミキリを見つけると、90歳前とは思えない素早さで、右手でむんずと掴み、左手でその頭を掴んで首から先を引き千切って退治しているのを見た。
 「凄い、野生人だ」と私は大いに感心した。私もいつか爺様のような逞しい人間になりたいと思った。しかし、それから3年ばかり経っても、全くできずにいる。

 先週紹介したアヤモンチビカミキリは体長10ミリ内外と小さなカミキリムシであったが、今週紹介するアトモンチビカミキリはさらに小さなカミキリムシ、体長はわずか5~7ミリ内外。その程度なら私は手で掴める。見つけた時は手袋をしていたが、素手でも大丈夫と思う。一昨年(2015年)私の畑で見つけたものだが、私は捕まえてもその首をへし折ることはせず、写真を撮ったら逃がしてやった。何しろ小さくて首を摘むことができなかった、からでは無く、本種が農夫の敵であるとは思えなかったから。
 
 アトモンチビカミキリ(後紋ちび天牛):甲虫目の昆虫
 カミキリムシ科 四国、九州、南西諸島、台湾に分布 方言名:カラジクェー
 名前の由来は資料が無く正確には不明。漢字表記の後紋は私の想像だが、『沖縄昆虫野外観察図鑑』に「上翅後方に黄白色の大型紋がある」とあり、そこからアトモン(後紋)だと思われる。チビは体長が5~7ミリ内外と小さいからであろう。カミキリムシについては、その漢字表記が天牛、または髪切虫と広辞苑にあり、「口の左右に鋭い大顎があって、竹木類を咬むことがある」ということから髪切だと思われる。
 『沖縄昆虫野外観察図鑑』に「各種の枯枝に、・・・きわめて多い」とあったが、ボンヤリ者の私の目には付かないようで、2015年の1回切り、本種を見ていない。
 その近似種のアヤモンチビカミキリとの違いも書かれており、「アトモンチビカミキリは上翅後方に黄白色の大型紋があることで・・・区別される」とあった。
 体長は5~7ミリ内外。寄主は不明。成虫の出現、倭国では5月から7月。
 
 横から

 記:2017.10.13 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄昆虫野外観察図鑑』東清二編著、(有)沖縄出版発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『名前といわれ昆虫図鑑』偕成社発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『学研生物図鑑』本間三郎編、株式会社学習研究社発行
 『昆虫の図鑑 採集と標本の作り方』福田春夫、他著、株式会社南方新社社発行
 『琉球列島の鳴く虫たち』大城安弘著、鳴く虫会発行
 『日本原色カメムシ図鑑』友国雅章監修、全国農村教育協会発行
 『原色昆虫大圖鑑』中根猛彦他著、株式会社北隆館発行


理想の住まい

2017年10月20日 | 通信-環境・自然

 去年の夏も糞暑かったが、今年の夏はそれを上回るバカ糞暑い夏だった。今年の7月の月平均最高気温は33度を超えた。8月もまた33度を超えた。確認はしていないがおそらく、7月も8月も沖縄気象台観測史上初の33度超えになったと思われる。
 実家で暮らしていた頃、私の部屋にクーラーは無く、東京で暮らしていた頃もクーラーは無く、実家を出てアパートで一人暮らしを始めてからも私の部屋にクーラーは無く、2011年9月から約5年間住んでいたアパートにはクーラーがあった。あったが、その頃にはもう既にクーラー嫌いとなっていた私は、クーラーを使わなかった。ところが、
 去年(2016年)12月に引っ越してきた今の住まい、クーラーは入っていなかったが、今年5月に入れた。暑さ対策のためでは無かった。新居は、壁に穴開けるな、床を傷付けるな、カビを生やすなという厳しい条件(最初に言えば良いのに不動産屋は契約の時になって言いやがった)だったので、梅雨時の湿気対策のためだった。ところが、
 今年の糞暑さには私も負けてしまい、7月は2、3回クーラーを使い、8月はほとんど毎日(日中の3~4時間だけだが)クーラーを点けていた。

 今年の沖縄は9月になっても暑かった。ラジオのニュースによると9月は観測史上二位の暑さだったらしい。9月中頃に沖縄島近くを通った台風18号の影響で1週間ばかり涼しかったが、それが無ければ9月は観測史上ダントツ一位になったであろう。
 台風18号が過ぎてから、また暑さが戻り、9月24日から27日までの4日間、午後の室温は32度を超えた。糞暑かったがクーラーは我慢。9月28日の夜になってやっと秋風を感じた。暑さ寒さも彼岸までの秋分が過ぎてから5日後だ。
 ところが、いや、確かに朝夕は少し涼しくなったのだが、昼間はまだ暑い。日が照っていると太陽の下の日中は糞暑い。毎日汗ダラダラが続いた。
 今年の沖縄は10月になっても暑い。昨日19日までの19日間、日の最高気温は19日間全てが30度超え、31度台9日、32度台2日、過去に例を見ない33度超えも1日あった。さすがにクーラーは使っていないが、扇風機は昼も夜も回りっ放し。夜寝る前(9~10時頃)の室温も、17日までは概ね30度を超えていた。
     
 
 17日間、昼間の気温はまだ夏のようだが、朝夕は概ね涼しい。ただ室内は違う。朝の最低気温は26~27度台が多いので、普通なら夜になると、せめて28~29度あたりであろう。なのに、ほとんどが30度超え、30度を切った日でも29.8とか29.9度であった。「なんでだ?何がどうしてこうなるんだ?」と考えて、思い当たった。
 コンクリートの輻射熱のせいであろう。去年11月まで住んでいたアパートは4階建てで、私の部屋はその2階にあり、屋上に降り注ぐ太陽の熱による輻射熱はそうきつくはなかった。ところが、今の住まいは平屋建て、私の部屋に屋上からの輻射熱が100%やってくる。両隣の家もコンクリート、後ろの家もコンクリート、前は駐車場でコンクリート敷、その前の道路はアスファルトとなっている。輻射熱だらけだ。
 周りがコンクリートだらけだからその輻射熱で暑いのだと判断。いつか終の住みかである自分の家を建てる時は茅葺にしようと思った。茅葺なら、この先温暖化が続いたとしてもクーラー無しでやっていけるはず。緑に囲まれた木造茅葺の方丈の家、私の理想。
     

 記:2017.10.20 島乃ガジ丸


セッカの願い

2017年10月20日 | ガジ丸のお話

 「あっ、あの人間、もしかしたら・・・」と思って、慌てて巣の近くへ戻った。その人間はいつもこの畑で何やら作業しているヨーガリ(痩せ)たオッサン。何やら作業はしているが、畑作業のようにも見えるが、作物はあまり出来ていない。
 オッサンはダラダラと作業しているので、畑の多くはたいてい雑草で覆われている。長いことチガヤで覆われていた一角をこのオッサン、今日になって草刈している。
 「バカッ、何するつもりよ!」と私は思わず怒鳴った。オッサンは辺りを見回して、そして、私に気付いた。私には気付いたが、自分の目の前、50センチ先にある私の大事な子供達には気付いていない。気付かないまま草刈を続けた。
 「あー、お願い、これ以上草を刈らないで」と私は願った。巣の中にはまだ孵らない私の大事な卵が、やがて子供となる卵が5個、私の温もりを待っている。その巣が、周りの草を刈られて、周囲から丸見えになったら落ち着いて卵を温めることができない。無防備となった私自身が敵に襲われる。「あー、お願い、これ以上は」と、さらに願う。
 しかし、私の願いは叶わなかった。ヨーガリーオッサンは巣のすぐ傍のチガヤまで刈り取ってしまった。そうしてやっと、巣の存在に気付いた。そしてやっと、作業を止めた。オッサンは、私の巣を傍のチガヤの中に押し込んで後、その場を去った。
 オッサンが去って、その姿が見えなくなってから私は巣を確認しに行った。5個の卵は無事であったが、周囲から丸見えの状況に私は絶望し、そして諦めた。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 今年(2017年)6月3日、畑で草刈作業をしていると1羽のセッカが私の周りを飛び回って、時折近くに止まって鳴き声をあげる。「煩せぇなぁ、俺は鳥を恋人にする気なんかこれっぽっちも無ぇぞ、そんなに言い寄っても無駄だぞ」と言ってやったのだが、言葉が通じないみたいで、セッカはまだ周りを飛び回っていた。
     
 それから30分も経ったか、セッカが騒いでいる理由が解った。私が草刈している箇所にセッカの巣があったのだ。気付くのが遅くて、巣のあるチガヤを刈り取る寸前となってしまい、巣は剥き出しとなった。巣の中には5個の卵があった。温めている最中だったと思われる。まだ刈り取っていない側のチガヤの中に巣を埋めるようにして隠した。
     
 チガヤの中へ巣を隠して、私はその場から10m以上は離れた別の場所に移動し、そこの草刈作業をしつつ、「卵は大丈夫かな、まだ温められるかな?」と気になって、しばしば巣のあった箇所に目をやる。親セッカが時折近くを飛んでいるのが見えたが、巣の埋もれた箇所のチガヤにまでは近付かない。翌日からも気になって、巣のある箇所を遠くから観察したが、親セッカは、もはや、辺りを飛び回ることもなかった。

 6月11日、セッカの巣を覗くと、5個の卵はそのままだった。
     
 6月18日、卵に異変があった。親の温もりではなく太陽の熱で育ったのかもしれないが、5個の内2個が割れていて、その中の1個からは雛らしきものが見えていた。それは成長途中で止まったようで命の光は見えなかった。
     
 7月11日、卵は全て消えていた。他の動物の餌食になったのであろうと思われる。
     
 7月20日、そことは15mほど離れた場所で2~3羽のセッカが辺りを飛び回っているのに気付いた。親セッカに比べると小さいように見えた。子供のセッカのようだ。私のせいで卵が孵らなかったのではと、申し訳ない思いでいたのだが、「あー、もしかしたらあの卵、残っていた3個は無事に孵化したのかなぁ」と思って、少しホッとする。
     
 8月20日、2~3羽のセッカが辺りを飛び回っていた場所の草刈をしていたら、チガヤの中に鳥の巣を見つけた。大きさ形からセッカの巣と思われた。「あー、そうか、前にこの辺りを飛び回っていた子供セッカはこの巣のものだ」と判明。
     

 6月のセッカの願いは、やはり叶わなかったようである。でも、同じ親セッカかどうかは知らないが、別の巣から子供たちが巣立ったのだ。それで私の罪悪感は薄まった。
 ちなみに、 
 セッカ(雪加・雪下) 
 スズメ目ヒタキ科の留鳥 熱帯、温帯に広く分布 方言名:チンチナー、ガイチン
 方言名のチンチナーは鳴き声から。鳴き声は独特で、姿は見えなくともすぐにそれと判る。初めチャチャッ、チャチャッと鳴き、しばらくするとチン、チン、チンと変る。

 ちなみに、9月8日、クワの木にぶら下がっている鳥の巣を発見、セッカの巣とは材料が少し違う。大きさも少々小さい。メジロの巣だと思われる。
     

 記:2017.9.28 ガジ丸 →ガジ丸の生活目次