ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

病状経過その1

2019年10月21日 | ガジ丸のお話

 去年(2018年)夏頃、左下奥歯の1本がグラグラしていたので歯医者へ行く。グラグラしている歯は、放っておけば抜けるというので放っておくことにして、歯槽膿漏と診断され、歯の掃除をすることになり、その後数回通う。
 その時「舌の裏が歯に当って炎症を起こした痕がある」と指摘された。
 同年秋頃、炎症を起こした痕から少し離れた個所に径1センチほどの円形の膨らみがあることに気付く。「何か怪しい」と思うが、放って置く。
     

 今年春、円形の膨らみの周りがただれていることに気付く。気付いて、またも「何か怪しい」と思ったが、2019年6月中旬までは、ただれもそう広がることは無く、痛みも無かったので放って置く。2019年6月下旬からは痛みが出てくる。
 7月に入ると、ただれている個所が広がり始め、舌の左側が膨らんで、舌が動かしにくくなり、唾液が止まらないと感じるほどに多く出るようになった。舌の左側の膨らんだ個所の下部から出血もあり、痛みも強くなる。ここまでくると知らんぷりはできない。
 7月下旬になると食事(食べ物を口内に入れ咀嚼すること)するのもきつくなる。
 「何の病気だ?」とネットで調べ、「舌癌かも」とあり、
 「病院は何科?」と調べると口腔外科とあった。
 家の近くの口腔外科を調べると琉球大学付属病院がある。しかし、琉球大学病院で診療を受けるには「紹介状」が必要とのこと。そんなこんなで手間暇かかって、診察をうけることができたのは、やっと8月8日になってから。その日、即日入院となった。

 琉大病院の診断は「舌癌でしょう、それも末期です」とのことだった。
 さすが大学病院で、検査は口の中だけでなく体全体に渡った。2泊3日の入院生活となる。医者は「手術した方が良い」との意見であったが、西洋医学に疑問を持っていた私は即答はせず、「考えさせてください」と、一旦退院することになった。
 その後、何度か通院して、今後どうするかを医者と相談する。
 8月28日、主治医とこれからの話をした。
 「なるべくなら、抗癌剤治療も放射線治療もやりたくない。死ぬ時が来たら死んでいいという想いです。」と希望を述べると、主治医は正直に答えた。
 「抗癌剤にしろ放射線にしろ、あるいは手術による摘出をしたにしろ、あなたのその後の人生は病院暮らしとなります。抗癌剤投与となると副作用も大きいので、苦痛も伴います。治療を何もしなければ副作用の苦痛はありません。しかし、治療をしなければ癌の進行は進みます。命にかかわることですが、これはもう生き方の問題です。あなたがそのような生き方をしたいのであれば、医者として反対もできません」とのこと。
 「そのような生き方」とは、「苦しみながら3年生きるか、楽しく1年生きるか、を選ぶのなら、楽しく1年の方がいい」ということ。

 入院するなら「国立沖縄病院」が適しているかもしれないとの医者の勧めで、9月12日そこで面接となり、合格となって、入院することとなる。
 国立沖縄病院はホスピスであり、主たる目的は治療ではなく今の痛みを緩和して生きることをより楽にすることを目的にしているらしい。「病気を積極的に治すことはしないけど、生きている間はより楽に生きることができるようにしますよ」ということらしい。私が望むこととピッタシカンカンであった。
 ところが、琉大病院の医者もそれを進めていたが、沖縄病院の主治医も「いかがでしょうか」と勧める癌治療があった。「そんなに言うのなら」と承諾した。
 それは放射線治療。9月19日午後4時頃から放射線照射の初治療を行った。放射線治療は10月4日までの間に10回行った。初治療以降、酷い副作用があったが、治療したお陰で、私の舌癌は今治りつつある。というか、主治医が言うには「癌はほぼ治っています」とのこと。ということで私は、元気になりつつ現在に至る。・・・続く。
     

 記:2019.10.21 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


疎開しなかった学童

2019年08月30日 | ガジ丸のお話

 先週「学童疎開」の話を書いたが、「戦世の終わる頃」と銘打って、お年寄り方からその頃の話を聞き集めていたが、体調不良のため、断念せざるを得なくなった。今までに集めた話はもう1つあり、せっかくなので発表したい。お概ねは口述のとおりであるが、私の勝手な脚色も少し混ざっている。疎開しなかった学童の話。

 喜瀬キヨ 昭和6年(1931年)6月15日、首里山川に生まれる。

 ○キヨの物語
 日本軍はキヨの記憶では1941年頃から周りにいた。その頃、キヨは第二国民学校5年生。学校に軍人がいて、槍を持たされ、槍をつく練習をした。
 キヨの家の近くにも日本軍が駐留していた。キヨの記憶では第32軍主力の武部隊であるが、おそらく実際は、その分隊の1つと思われる、押切曹長が隊長だったとのこと。
 押切曹長は優しくて、ウチナーンチュにも理解があって、キヨの家族とは、キヨの母がヤマトゥグチ(倭語)が上手だったこともあり、仲良くしてくれていた。
 その頃、キヨの家はまあまあ裕福だった。父親は山を買ってその山にある樹木を薪にして売って儲けていた。日本軍とはあれやこれや物々交換で交流していた。

 
 ※世の中の動き
 1944年7月19日
 沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令。沖縄の食糧・用地・施設を軍が確保する際、沖縄住民、民間人が足手まといになるからであった。


 ○キヨの物語
 戦後しばらくして(1945年末から明けて1946年初めあたり)、キヨは捕虜収容所で同級生のチヨコに会った。どうやら、その収容所はキヨの住んでいた近辺の人たちが収容されているようで、近所に住んでいたオジサンオバサンたちの姿もチラホラ見られた。ところが、キヨの同級生やその前後の子供たちはほとんどいない。
 「何でかねー」とキヨとチヨコは顔を合わせるたびに不思議がっていた。しばらくして、ある同級生のお母さんから、キヨたちの学校の生徒たちのほとんどは学童疎開で1944年8月に疎開船「対馬丸」に乗船したとのこと。九州へ向かっている途中、対馬丸は撃沈され、多くが犠牲になったとのこと。ということで、キヨの同級生やその前後の子供たちはほとんどいないとのことであった。
 キヨは女の子であったが、近所で評判になるほどのウーマクー(暴れん坊)であった。
「お前のようなウーマクーがみんなと一緒に船に乗ってヤマトゥへ行くなんて、船の中でどんな迷惑をかけるか、ヤマトゥへ行ってどんな迷惑をかけるかと思うと恐ろしい。お前は他所に出せない。ここにいろ。」ということで、キヨは疎開船に乗れなかった。そのお陰で、キヨは対馬丸の悲劇に会わずに済み、生き延びることができた。
     

 1944年10月10日 キヨ14才小学校5年生
 ある日の夕方、キヨが空を見上げていると、夕日の沈む方向から飛行機がたくさんやってきた、やってきて、キヨのいる、山川近辺でUターンして、那覇方面へ戻る。たくさんの飛行機は那覇へ戻ると爆弾を落とした。たちまちのうちに那覇一帯は火と煙に包まれた。これが後に十・十空襲と呼ばれるもの。その時、首里に爆弾は落ちなかったが、戦争を始めて意識したのはこの十・十空襲の時であった。


 ※十・十空襲について
 1944年10月10日、
 第1次攻撃隊は日本軍の北飛行場に到達し、攻撃を開始した。小禄飛行場なども次々と攻撃を受けた。アメリカ艦隊は、その後も第4次攻撃隊までを午前中に発進させ、午後にも第5次攻撃隊を繰り出した。宮古島など他の島への攻撃を合わせると、10日の出撃機数は延べ1396機に達した。これらは全て空母からの空襲による。
 まず、アメリカ軍機は制空権奪取のため飛行場を攻撃目標とした。第2次以降は、那覇港や運天港などに停泊中の艦船も攻撃目標となり、第4次と第5次の空襲は主に市街地を狙って行われ、市内各所に火災が発生した。第4次空襲の段階で民間消火活動では手の施しようがなくなり、住民は全面退避を開始した。
 それまで沖縄を含む南西諸島は本格的な空襲を受けたことが無かった。最も被害の大きかったのは那覇市で、翌11日まで続いた火災により当時の市内市街地のうち9割が焼失し、死者は255名にのぼった。本島全体では330人が死亡。
 離島では、宮古島で民家13軒が半焼している。本土への空襲は同年6月の八幡空襲を皮切りに既に始まっていた。被害は概ね焼夷弾によるもの。
     

 ※世の中の動き
 1945年3月23日
 米艦隊、艦砲射撃で沖縄本島攻撃(沖縄戦開始)。
 首里にも艦砲射撃による攻撃があったのはおそらく、この後間もなくと思われる。
 4月1日
 米軍が北谷、読谷に上陸。
 4月8日 
 嘉数高地で戦闘開始。
 4月24日
 嘉数高地、陥落。
 4月26日
 前田高地、
 5月6日
 前田高地で戦闘開始。
 5月12日
 シュガーローフで戦闘開始。
 5月18日
 シュガーローフ、陥落。
     

 ○キヨの物語
 首里に艦砲射撃があるようになったのは1945年3月の終わり頃、艦砲射撃の弾丸は音で近くに落ちるか、遠くへ行くかが判ることをキヨは学んだ。

 喜瀬家の傍には湧水があり、壕もあった。
 戦闘は激しく、アメリカ軍は大きな被害を受けつつも徐々に日本軍本部のある首里城へと迫っていった。前田高地は首里城の北西側、シュガーローフは首里城の南西側、上下から首里城に迫っていったのだと思われる。
 前田高地から首里城に向かう途中に経塚というがある。ある日(5月6日以降)押切曹長から「経塚からトラックの音が聞こえる、米軍がそこまで来ている、あなたたちも逃げなさい。上には上がれないから南に逃げなさい」と助言される。

 5月22日
 首里城、陥落。
 押切曹長の親切な助言があったが、喜瀬一家は首里城が陥落するまで首里にいった。首里城がなくなってから逃げた。押切曹長の助言に従い東風平へ逃げた。
 逃げる時期としてはもう遅かったので、周りに死体や負傷している人が、民間人も軍人も合わせ多くいた。「水ください」と願う負傷兵も多くいた。「水をください」というのは最後のお願いだと教わっていた。死ぬつもりの人たちがたくさんいたようだ。
 黍畑の中で「助けて」と叫ぶ妊婦もいた。可哀想だったが助ける者は誰もおらず、おそらく、その妊婦さんはお腹の子供共々間もなく死んだであろう。

 逃げる時は残っていた隣組で一緒に行動した。ところが、東風平の高台ではぐれる人が出た。仲間の1人、一高女卒の秀才チルちゃんが見えなくなった。4~5日後、チルちゃんは我々が隠れているガマに連れてこられた。チルちゃんは気が振れていた。4~5日の間に、精神が絶えられない恐ろしい目に合ったんだと想像できた。

 家で養っていたヤギは日本軍に全て(6匹)盗られたが、自分たちも逃げる途中、盗みはやった。日本軍のガマ(陣地)から米を盗んだこともある。食い物は他にカエルなども掴まえてエナ(汚い)洗いして煮て食った。きれいに洗う余裕は無かった。
 東風平では日本軍の食料庫の場所が分かったのでそこから米を盗んで食べた。
     
 
 ※世の中の動き
 6月23日
 第32軍司令官牛島中将、摩文仁で自決、日本本土で「義勇兵役法」発布。
 6月24日
 米軍、掃討戦を開始。
 7月2日
 米軍 沖縄戦終了を宣言。
 8月15日
 日本、無条件降伏。
 9月7日
 守備軍の残存部隊と米10軍の間で降伏調印式(沖縄戦の最終的な終結)
     
 以上、参考文献からの沖縄戦の経緯と、喜瀬キヨさんの語りの口述筆記。

 記:2019.8.25 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行 


大人しい旅立ち

2019年08月16日 | ガジ丸のお話

 梅雨が明けた6月下旬のある日、私はいつものように朝6時頃に目が覚めた。カーテンの隙間から見える窓の外は明るい。「今日も晴れだな」と思い、ラジオを点ける、いつものようにニュースをやっている。しばらくベッドの上でグダグダして6時過ぎ、
 ベッドから起き上がって台所に向かう。台所のラジオは音を出していない。「ん?何でだ?」と不思議に思う。この時間だと、いつもならヤスがとっくに起きていて、ラジオを点けていて、食卓の前に腰掛けてお茶かなんか飲んでいるはずだ。「そうか」と気付く。そのヤスがいない。ヤスがいないからラジオも点いていないんだ。

 私はヤスの寝室に向かい、そのドアを開けながら「ヤスー」と声をかけた。ヤスはまだベッドの中だった。「ヤスが寝坊なんて珍しいな」と私は呟きながら肩を揺する。何の反応も無い。「ヤスー!」と私は大声を出す。隣のベッドで寝ている寝坊助のモリがゴソゴソ動いて、「何だよー、煩ぇなぁ」と言いながら体を起こした。
 「ヤスが返事しないんだ」
 「体を触ってみろ」
 「あっ、・・・冷たい」
 「アッコは泊りだったよな、呼んで来いよ」
 アッコとは友人の介護士、週に2日はここへ泊っていく、今回は2日休みの後、昨夜遅くやってきた。彼女のための部屋もある。私はその部屋のドアをノックし、
 「アッコ、非常事態みたいだ、起きて、来てくれ」と声を掛ける。
 「はーーーい」と少し眠そうな声でアッコは答えたが、さすがプロ、3分も経たない内に部屋から出て来て、ヤスとモリの寝室へやってきた。事態をすぐに察知して、脈をみたり、瞳孔をみたりして、そして、我々の方を向いて首を横に振った。
     

 「昨夜はどんな状態だったの?何か変わったところは無かった?」とアッコが訊く。
 「あー、そういえば、少し違っていたか」とモリと私は顔を見合わせ合唱した。
 昨夜、ヤスとモリと私の3人で久しぶりに酒を少し飲んだ。私は飲兵衛だが、モリはたしなむ程度、ヤスもたしなむ程度だったが年老いてからはほとんど飲まなかった。盆正月クリスマスに少々、3人の誰かの誕生日に舐める程度だ。それが昨日は珍しく飲んだ。飲んだといっても私の三分の一もいかない。ビール1缶と泡盛1杯だけ。
 たったそれだけでヤスは酔ったのか、すごく上機嫌だった。
 「いやー、楽しいな、愉快だな。これも友がいるお陰だ、ありがとう。」と言う。
 「ありがとうはお互い様だよ。」とモリ。「そうだよ」と私。そんなこんなの楽しい愉快な時間を過ごして、ヤスは上機嫌のまま床に就いた。
     

 「そうなんだ、ヤスさん、自分の死期を悟っていたのかも、別れの酒だったんだ。」
 「そうか、そういうことか。ニコニコ笑いながらあの世へ旅立ったんだな。」(モリ)
 「笑って眠るように静かに逝ったんだ。大人しい旅立ちだ。」(私)
 「俺たちもそういう風に逝きたいな。」(モリ)
 「そうなると思うよ。あなたたち、いつも幸せそうだもん。私も仲間に入ろうかな。」

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 6月末日、友人KとTを我が家に招いて昼間(午前11時半)からグダグダ飲み食いしながらのユンタク(おしゃべり)会を催した。
 「最近、引き籠りじゃないかと感じている。」とT、Tは私と同じ独り暮らし。最近忘れ物が増えて来て認知症になる可能性も高いなぁという話も出て、独居老人になると死んだかどうかも分からなくなるぞ、そろそろ危ないとサインを出すこともできないぞ、ならば、いつか3人で一緒に暮らすかとなった。2人とも高校からの付き合いの同級生。青春時代の想い出話はたくさんある。ルミ子の話で1日、カツ子の話で1日、エイ子の話で1日、運動会の話で1日、遠足の話で1日、などなど話題にことかくことはない。
 もし、それが現実の話となったら、オジーたちは身の回りのことができないかも、3人が爺さんになったら、介護ができる女性をバイトで雇った方がいいんじゃないかと私は思った。ということで、上記の話を思い付いた。話の通りになったら幸せかも。
     

 記:2018.8.11 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


悲しみを乗り越えて

2019年06月24日 | ガジ丸のお話

 キヨは走った。南風原の親戚の家に行って、食料となる芋を分けて貰っての帰り道、首里の家までの上り坂を上っている途中で突然、激しい爆弾の音が鳴り響いた。噂に聞いていた艦砲射撃の音だ。見上げると、我が家のある辺りも煙に包まれていた。首里に近付くに連れて砲弾の音は大きくなっていく。多くの人々が逃げまどっている、多くの人がキヨの居るところに向かって走ってくる。キヨは立ち尽くす。
 逃げる人々の大きな流れには逆らえず、キヨも彼らと同じ方向へ流される。その時声を掛けられた。隣人の宮城のタンメー(爺様)だった。「ナマー、ウカーサン。ヤーカイヤムドゥララン、(今は危ない、家には戻れない)」と言い、キヨの肩を抱いて皆と同じ方向へ走る。砲弾の激しさにキヨも、もはや宮城のタンメーに逆らうことはなかった。 首里から南風原方面へ下っていた人々は、道が下り坂になった辺りの野原、崖下に潜んだ。キヨも同じようにした。砲弾はここまでは届かなかった。「夫は、子供たちは?」という想いが心を占め、キヨは家族の無事を祈りつつ、眠れない一夜を過ごした。
 空が白み始めた頃、何人かの人が動き出した。艦砲射撃の音はもう聞こえない。動き出した人々にキヨも付いていった。首里の街に入ると家屋は倒れ、燃えている家もあった。道には死体らしきものが多く転がっていた。それを見ながらキヨの心は乱れていく。

 家に着くと、家は半壊していた。キヨは半狂乱になって夫の名を呼ぶ、子供たちの名を呼ぶ。返事は無い。瓦礫を押し除けその下を探し回る。そこには見たくないものが転がっていた。キヨは半狂乱になりながら夫と子供たちの全ての死体を確認した。

 一人生き残ったキヨ、未だ現実を信じることのできない茫然自失のキヨは、なお銃撃戦の続く戦火の中を周りの人に促されるままあるガマ(壕)に隠れた。しかし、時間が経つにつれて現実が事実としてキヨの心にのしかかってくる。もはや自分が生きている意味が無いと絶望し、弾に撃たれて死のうと思いガマから出た。
 そこへ、泣き叫びながらフラフラ歩いて来る女の子と出会う。抱きとめて話を聞けば、家族が全員死んだと言う。自分と同じ境遇を哀れに思い、さらに話を聞く。
 「名前は何て言うの?」の問いに、
 「ツル子」と女の子はポツリと答える。キヨはハッとする。自分の長女と同じ名前だ。
 「歳はいくつ?」と訊くと、これまた偶然にも長女と同い年であった。「あー、これは神が引き合わせたのだ。我が子の生まれ変わりなのだ」と神に感謝し、この子を守りながら自分も生きていこうと決意した。そして、その後、2人は絆深い親子となった。
     

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 キヨの家族、昭和20年(1945)4月の時点で、夫は1912年生まれなので33歳、本人は1913年10月生まれなので31歳であった。
 2人は1929年に結婚し、翌年1930年に長男を授かり、以降、長男を含め2男4女を儲ける。1945年4月の時点で、長男は14才、長女は13才、次男は11才、次女は9才、三女は7才、、四女は5才となっていた。
 その家族、夫と子供たち7人が全員、戦禍に合う。絶望したキヨは自らも命を絶とうとし、死に場所を求めて壕の1つへ入る。そこで偶然出会った少女、「家族はみんな死んでしまった」と言う少女は偶然にもキヨの長女と同じ年齢、同じ名前だった。
 運命を感じたキヨは少女を抱きしめる。そして、2人は親子の絆を結び、その後も長く仲良く幸せに暮らしたそうである。その後、再婚して、子や孫にも恵まれたキヨは1992年に天国へ旅立ち、キヨを最後までみとった養女のツル子は今も健在。
     

 沖縄戦が終わって74年、74回目の慰霊の日が昨日だった。糸満市摩文仁の丘には沖縄戦で亡くなった人、沖縄の民間人、だけでなく日本兵も、アメリカ兵も、朝鮮人も中国人も、その他の国の人々も戦争で亡くなった人の名前が刻まれている。ここは「お国のために」と死んでいった人たちを慰霊するだけでなく、戦争の犠牲になった全ての御霊を慰める所となっている。昨日6月23日は、皆で御霊を慰め、平和を祈る日であった。
 そんなところに安倍総理がやってきた。ありがたいこと、であるが、相変わらずとぼけたもの言いをしたようだ。総理の挨拶がネットのニュースに載っていた。

 安倍首相は来賓あいさつで「沖縄の方々には、米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいております。基地負担軽減に向けて、確実に結果を出していく決意であります。」と話したが、辺野古移設については直接触れなかった。
 とのこと。辺野古に触れないということは。「これからも負担してね」ということのようだ。「国のためだ、沖縄は犠牲になれ」ということかもしれない。
     

 記:2019.6.24 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


死なない人

2019年05月10日 | ガジ丸のお話

 「死なない体になってしまった。」
 「えーっ!お前がか、それで、相手は男か女か?」
 「何の話だ?」
 「バンパイアになったんだろ?噛まれた相手は女か?美人だったか?」
 「不死からバンパイアは解る、相手が女か男かっては何だ?」
 「相手が美女なら俺も噛まれたいと思ってさ。噛まれながら美女の腰を抱き寄せ、俺は俺で彼女の唇を噛み返すのさ、そうして、女日照りのこの20年に終止符を打つのさ。」
 「あーそうかい、俺が死なない体になったってことはどうでもいい話ってか。」

 ・・・しばらく沈黙があって、男同士が見つめ合って、

 「不死身になったって!そりゃぁホントのことか!」と男Bがわざとらしい大声、
 「もしかしたらの話だ、もしかしたらホントに不死の体になるかもしれない。」
 「どういうことだ?」
 「いや、じつは、この間の検診で癌が見つかった、咽喉癌だとさ。」
 「マジか、癌ってステージ何とかってランクがあったよな、それはどうなんだ?」
 「ステージ4だとさ。」
 「4って、相当進んでいるってことだよな。」
 「うん、そういうことだ。」
 「で、手術ってことになるのか?」
 「いや、手術はしない。友人に、お前も知っているKのことだが、彼は、表向きはまともな学者だが、裏では変な研究をしている。ということをこのあいだ知った。」
 「あー、奴は高校の頃から少し変わっていたよなぁ。で、変な研究って何だ?」
 「病院行って癌と診断された後、Kに会った。奴が変な研究をしていることはその時に知った。癌細胞がもしかしたら不死の体の元になる、って研究を今やっているようだ。そして、俺が癌になっちまったと言うと、実験材料になれと頼まれたんだ。」
 「で、実験材料になって、実験が成功して不老不死になったというわけか。」
 「まあ、早く言えばそういうことになる・・・かもしれないってことだ。」
     

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 過日、友人から届いたメール、「年取ると体力は衰えると言う常識の打破を試みる」との出だしで、「重い物が持てないのは体力が年取るごとに進化したのではないか?」と続き、私が腰痛で重いものが持てなくなったことも進化の1つとして、「それも認識し生活に生かさねばならないと考える」と締めている。
 彼は、私が腰痛であると聞き、励ましてくれている。いつまでもくよくよするな、今の自分を肯定して、それなりの生き方をしたらいいさと言っているのだと思う。その心には感謝するが、私は「年取ると体力は衰える」は認めるが、衰える速さには抗ってみたいと思っている。であるが、彼の言う「体力の衰えは進化」についても少し考えてみた。

 生きるということを前提とすると、体力の衰えは生きる上で退化となる。産まれた赤子が、母の庇護から抜け一人立ちするには体力の進化が必要となる。彼が生きていくための進化とは野山を駆け巡り、果物を採取し、動物を射止め、生きていける食を得るだけの体力を持つこと。とすれば、逆に言えば、年老いて野山を駆け回る体力が無くなることは退化となる。自身で食を得ることができなくなったらそこで彼の命はお終いということ。
 ところが、「生きるということを前提としない」考え方をすると、例えて言えば、現世は仮の姿、死んだ後に別の本当の世界があるといった考え方をすれば、体力の衰えは死に近付くことであり、それは次の世界へ向かう進化となる。
 など考えている内に訳判らなくなって、「老化とは何だ?」と調べてみた。調べるとDNAの問題になった。根性無しの私はそこでストップ、「面倒」となる。

 ただ、そこまで調べて何となく頭に入ったことがある。
 「細胞はDNAで死ぬようにできている。新しい細胞がその代わりをする」
 「それが永遠に続けば人間の命も永遠となる」
 「であるが、細胞そのものが弱っていく、再生能力が衰えていく」
 「代わりとなる新しい細胞が造りにくくなって、その内再生不能となり、人は死ぬ」
 「細胞の再生能力の衰えというものが人間の肉体の衰えそのものである」
 などということ。再生能力の衰えが老化ということのようだ。
 ちなみに、「死なない細胞が時々現れる。死なない細胞、それは癌細胞」ということも知った。そういったことから上の話を思い付いた。今回の画像は受け継がれるDNA。
     
     
     

 記:2019.5.10 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次