ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

疎開しなかった学童

2019年08月30日 | ガジ丸のお話

 先週「学童疎開」の話を書いたが、「戦世の終わる頃」と銘打って、お年寄り方からその頃の話を聞き集めていたが、体調不良のため、断念せざるを得なくなった。今までに集めた話はもう1つあり、せっかくなので発表したい。お概ねは口述のとおりであるが、私の勝手な脚色も少し混ざっている。疎開しなかった学童の話。

 喜瀬キヨ 昭和6年(1931年)6月15日、首里山川に生まれる。

 ○キヨの物語
 日本軍はキヨの記憶では1941年頃から周りにいた。その頃、キヨは第二国民学校5年生。学校に軍人がいて、槍を持たされ、槍をつく練習をした。
 キヨの家の近くにも日本軍が駐留していた。キヨの記憶では第32軍主力の武部隊であるが、おそらく実際は、その分隊の1つと思われる、押切曹長が隊長だったとのこと。
 押切曹長は優しくて、ウチナーンチュにも理解があって、キヨの家族とは、キヨの母がヤマトゥグチ(倭語)が上手だったこともあり、仲良くしてくれていた。
 その頃、キヨの家はまあまあ裕福だった。父親は山を買ってその山にある樹木を薪にして売って儲けていた。日本軍とはあれやこれや物々交換で交流していた。

 
 ※世の中の動き
 1944年7月19日
 沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令。沖縄の食糧・用地・施設を軍が確保する際、沖縄住民、民間人が足手まといになるからであった。


 ○キヨの物語
 戦後しばらくして(1945年末から明けて1946年初めあたり)、キヨは捕虜収容所で同級生のチヨコに会った。どうやら、その収容所はキヨの住んでいた近辺の人たちが収容されているようで、近所に住んでいたオジサンオバサンたちの姿もチラホラ見られた。ところが、キヨの同級生やその前後の子供たちはほとんどいない。
 「何でかねー」とキヨとチヨコは顔を合わせるたびに不思議がっていた。しばらくして、ある同級生のお母さんから、キヨたちの学校の生徒たちのほとんどは学童疎開で1944年8月に疎開船「対馬丸」に乗船したとのこと。九州へ向かっている途中、対馬丸は撃沈され、多くが犠牲になったとのこと。ということで、キヨの同級生やその前後の子供たちはほとんどいないとのことであった。
 キヨは女の子であったが、近所で評判になるほどのウーマクー(暴れん坊)であった。
「お前のようなウーマクーがみんなと一緒に船に乗ってヤマトゥへ行くなんて、船の中でどんな迷惑をかけるか、ヤマトゥへ行ってどんな迷惑をかけるかと思うと恐ろしい。お前は他所に出せない。ここにいろ。」ということで、キヨは疎開船に乗れなかった。そのお陰で、キヨは対馬丸の悲劇に会わずに済み、生き延びることができた。
     

 1944年10月10日 キヨ14才小学校5年生
 ある日の夕方、キヨが空を見上げていると、夕日の沈む方向から飛行機がたくさんやってきた、やってきて、キヨのいる、山川近辺でUターンして、那覇方面へ戻る。たくさんの飛行機は那覇へ戻ると爆弾を落とした。たちまちのうちに那覇一帯は火と煙に包まれた。これが後に十・十空襲と呼ばれるもの。その時、首里に爆弾は落ちなかったが、戦争を始めて意識したのはこの十・十空襲の時であった。


 ※十・十空襲について
 1944年10月10日、
 第1次攻撃隊は日本軍の北飛行場に到達し、攻撃を開始した。小禄飛行場なども次々と攻撃を受けた。アメリカ艦隊は、その後も第4次攻撃隊までを午前中に発進させ、午後にも第5次攻撃隊を繰り出した。宮古島など他の島への攻撃を合わせると、10日の出撃機数は延べ1396機に達した。これらは全て空母からの空襲による。
 まず、アメリカ軍機は制空権奪取のため飛行場を攻撃目標とした。第2次以降は、那覇港や運天港などに停泊中の艦船も攻撃目標となり、第4次と第5次の空襲は主に市街地を狙って行われ、市内各所に火災が発生した。第4次空襲の段階で民間消火活動では手の施しようがなくなり、住民は全面退避を開始した。
 それまで沖縄を含む南西諸島は本格的な空襲を受けたことが無かった。最も被害の大きかったのは那覇市で、翌11日まで続いた火災により当時の市内市街地のうち9割が焼失し、死者は255名にのぼった。本島全体では330人が死亡。
 離島では、宮古島で民家13軒が半焼している。本土への空襲は同年6月の八幡空襲を皮切りに既に始まっていた。被害は概ね焼夷弾によるもの。
     

 ※世の中の動き
 1945年3月23日
 米艦隊、艦砲射撃で沖縄本島攻撃(沖縄戦開始)。
 首里にも艦砲射撃による攻撃があったのはおそらく、この後間もなくと思われる。
 4月1日
 米軍が北谷、読谷に上陸。
 4月8日 
 嘉数高地で戦闘開始。
 4月24日
 嘉数高地、陥落。
 4月26日
 前田高地、
 5月6日
 前田高地で戦闘開始。
 5月12日
 シュガーローフで戦闘開始。
 5月18日
 シュガーローフ、陥落。
     

 ○キヨの物語
 首里に艦砲射撃があるようになったのは1945年3月の終わり頃、艦砲射撃の弾丸は音で近くに落ちるか、遠くへ行くかが判ることをキヨは学んだ。

 喜瀬家の傍には湧水があり、壕もあった。
 戦闘は激しく、アメリカ軍は大きな被害を受けつつも徐々に日本軍本部のある首里城へと迫っていった。前田高地は首里城の北西側、シュガーローフは首里城の南西側、上下から首里城に迫っていったのだと思われる。
 前田高地から首里城に向かう途中に経塚というがある。ある日(5月6日以降)押切曹長から「経塚からトラックの音が聞こえる、米軍がそこまで来ている、あなたたちも逃げなさい。上には上がれないから南に逃げなさい」と助言される。

 5月22日
 首里城、陥落。
 押切曹長の親切な助言があったが、喜瀬一家は首里城が陥落するまで首里にいった。首里城がなくなってから逃げた。押切曹長の助言に従い東風平へ逃げた。
 逃げる時期としてはもう遅かったので、周りに死体や負傷している人が、民間人も軍人も合わせ多くいた。「水ください」と願う負傷兵も多くいた。「水をください」というのは最後のお願いだと教わっていた。死ぬつもりの人たちがたくさんいたようだ。
 黍畑の中で「助けて」と叫ぶ妊婦もいた。可哀想だったが助ける者は誰もおらず、おそらく、その妊婦さんはお腹の子供共々間もなく死んだであろう。

 逃げる時は残っていた隣組で一緒に行動した。ところが、東風平の高台ではぐれる人が出た。仲間の1人、一高女卒の秀才チルちゃんが見えなくなった。4~5日後、チルちゃんは我々が隠れているガマに連れてこられた。チルちゃんは気が振れていた。4~5日の間に、精神が絶えられない恐ろしい目に合ったんだと想像できた。

 家で養っていたヤギは日本軍に全て(6匹)盗られたが、自分たちも逃げる途中、盗みはやった。日本軍のガマ(陣地)から米を盗んだこともある。食い物は他にカエルなども掴まえてエナ(汚い)洗いして煮て食った。きれいに洗う余裕は無かった。
 東風平では日本軍の食料庫の場所が分かったのでそこから米を盗んで食べた。
     
 
 ※世の中の動き
 6月23日
 第32軍司令官牛島中将、摩文仁で自決、日本本土で「義勇兵役法」発布。
 6月24日
 米軍、掃討戦を開始。
 7月2日
 米軍 沖縄戦終了を宣言。
 8月15日
 日本、無条件降伏。
 9月7日
 守備軍の残存部隊と米10軍の間で降伏調印式(沖縄戦の最終的な終結)
     
 以上、参考文献からの沖縄戦の経緯と、喜瀬キヨさんの語りの口述筆記。

 記:2019.8.25 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の戦争遺跡』沖縄平和資料館編集、沖縄時事出版発行 


クロオビハナバエ

2019年08月28日 | 動物:昆虫-双翅目(ハエ他)

 老いてもできる仕事

 今年(2019年)7月下旬の2週間ばかり体調を崩していた。その2週間、食い物を調達するため近所のスーパーへ出かける他はほとんど家から出ず、家にいる時も炊事、洗濯、掃除などの家事はほぼいつも通りにやっていたが、体調不良の要因は主に頭痛だったので、薬草研究、及び沖縄戦研究のような本読んだりパソコン作業したりの頭を使う作業はほぼ休んで、ベッドに横になっていることが多かった。

 それでも、1日家にいるのでパソコンは時々開く。1日に4~5時間は開いていた。開いて、頭を使う作業は休んで、パソコンに溜め込んでいる画像などのファイルの整理整頓をしていた。この作業はあまり頭を使わないので楽。
 などということをやっていたら、記事を途中まで書いているものが植物にも動物にもあることを発見した。今回紹介するクロオビハナバエもその1つ。写真のプロパティーを見ると、撮影時期は2006年1月31日。バリバリの現役で、現場仕事の肉体労働も元気にこなしていた頃。今の自分の惨状を思うと、若かりし頃がとても懐かしい。
 クロオビハナバエとは関係ない話となったが、ただ、体が思うように動かなくなってもパソコン作業が少しでもできる間は、私にもできる仕事があるんだと知って、少し嬉しくなった。老いても楽しみがあることを教えてくれたクロオビハナバエであった。
 
 クロオビハナバエ(黒帯花蠅):双翅目の昆虫
 ハナバエ科 本州~沖縄、台湾、インドなどに分布 方言名:フェー
 名前の由来は資料が無く正確には不明だが、『学研生物図鑑』の記述から推理すると、「胸背に幅広い黒色横帯がある」ことからクロオビ(黒帯)だと思われる。
 見た目の特徴は「胸背に幅広い黒色横帯がある」の他に、「腹部3~4節背面に三角形の黒斑がある」とのこと。
 体長5~6ミリ。雌の成虫はゴミ溜めや動物の死体に集まる。雄は樹木の幹に多数止まっている。成虫の出現、本州中部では6~9月とのことだが、沖縄では冬も見られる。
 
 横から

 記:2019.8.18 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄昆虫野外観察図鑑』東清二編著、(有)沖縄出版発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『名前といわれ昆虫図鑑』偕成社発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『学研生物図鑑』本間三郎編、株式会社学習研究社発行
 『昆虫の図鑑 採集と標本の作り方』福田春夫、他著、株式会社南方新社社発行
 『琉球列島の鳴く虫たち』大城安弘著、鳴く虫会発行
 『沖縄の生きものたち』沖縄生物教育研究会編著、発行


セージあれこれ1

2019年08月26日 | 草木:草本

 このところ体調不良で休止しているが、薬草の勉強を去年6月頃から初め、約1年間は薬草の本を読み、野山を歩いて薬草の写真を撮り、などしていた。その時、あれこれ本を読んでいる内、ハーブというものにも興味を持った。で、ハーブも調べ始める。
 であったが、ハーブは種類が多い、同科同属の植物の中に園芸品種がいくつもあり、見た目似たようなものも多く、とても覚えられそうもない。で、諦める。
 諦めるまでの数か月間で出会って、写真が撮れ、それらの中には見た目に判別しやすい特徴があって、何者か知ったハーブがいくつかあり、調べもついていた。それらを、このままパソコンに埋もれさせるのも可哀想なので、今回、次回と紹介したい。
 
 メキシカンセージ(Mexican sage):花壇
 シソ科サルビア属の多年草 中央アメリカ原産 方言名:不詳
 名前の由来は資料が無く詳しくは不明。メキシコが原産であることからメキシカンであろう。セージは同じシソ科サルビア属のコモンセージ(和名:薬用サルビア)から拝借しているものと思われる。見た目はさほど似ていないので「似ているから」ではない。
 メキシカンセージはアメジストセージやメキシカンブッシュセージらと共に流通名のようで、ハーブの本の目次にはサルビアレウカンサとあった、これは学名から。
 花はコモンセージに比べると大きく派手で見応えがあり、高さは60~150センチで枝分かれが多くこんもりするので花壇植栽に向く。
 茎の上部または枝先に総状花序を出し唇形花を多数穂状に咲かす。花色は紫、白、ピンクなど。開花期は8~11月。沖縄ではもっと長い期間咲いている。何枚かある私の写真で確認すると、1月に満開、6月と9月は控えめに咲いていた。ちなみに学名、
 メキシカンセージ Salvia leucantha
 コモンセージ Salvia offinalis
 花壇で良く見るサルビア Salvia splendens
 
 花

 
 ラベンダーセージ(Lavender sage):花壇・庭
 シソ科サルビア属の常緑小低木 人工交雑種 方言名:不詳
 名前の由来は資料が無く不明。セージは同じシソ科サルビア属のコモンセージ(和名:薬用サルビア)から拝借しているものと思われる。葉の見た目はシソに似ている。 ラベンダーという名前は、花穂の形や花の色からついたものと想像する。
 サルビア属の2種を掛け合わせた人工交雑種とのこと。茎の先、葉の腋から花茎を出しその先に長い花穂をつけ、多くの花を咲かす。花色は青~濃紺、開花期は6~11月とあるが、沖縄では4月、5月にも咲いていた。
 茎は木質化するようで、他の○○セージとは違い常緑小低木に分類されている。高さは60~150センチになる。
 ちなみに学名は、Salvia farinacea 'Indigo Spires
 
 花

 記:島乃ガジ丸 2019.8.18 →沖縄の草木目次

 参考文献
 『新緑化樹木のしおり』(社)沖縄県造園建設業協会編著、同協会発行
 『沖縄の都市緑化植物図鑑』(財)海洋博覧会記念公園管理財団編集、同財団発行
 『沖縄園芸百科』株式会社新報出版企画・編集・発行
 『沖縄植物野外活用図鑑』池原直樹著、新星図書出版発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄園芸植物大図鑑』白井祥平著、沖縄教育出版(株)発行
 『親子で見る身近な植物図鑑』いじゅの会著、(株)沖縄出版発行
 『野外ハンドブック樹木』富成忠夫著、株式会社山と渓谷社発行
 『植物和名の語源』深津正著、(株)八坂書房発行
 『寺崎日本植物図譜』奥山春季編、(株)平凡社発行
 『琉球弧野山の花』片野田逸郎著、(株)南方新社発行
 『原色観葉植物写真集』(社)日本インドア・ガーデン協会編、誠文堂新光社発行
 『名前といわれ野の草花図鑑』杉村昇著、偕成社発行
 『亜熱帯沖縄の花』アクアコーラル企画編集部編集、屋比久壮実発行
 『沖縄四季の花木』沖縄生物教育研究会著、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の野山を楽しむ植物の本』屋比久壮実著、発行
 『海岸植物の本』アクアコーラル企画発行
 『花の園芸大百科』株式会社主婦と生活社発行
 『新しい植木事典』三上常夫・若林芳樹共著 成美堂出版発行
 『花合わせ実用図鑑』株式会社六耀社発行
 『日本の帰化植物』株式会社平凡社発行
 『花と木の名前1200がよくわかる図鑑』株式会社主婦と生活社発行
 『熱帯植物散策』小林英治著、東京書籍発行
 『花卉園芸大百科』社団法人農山漁村文化協会発行
 『ニッポンの野菜』丹野清志著、株式会社玄光社発行
 『藤田智の野菜づくり大全』藤田智監修、NHK出版編
 『やんばる樹木観察図鑑』與那原正勝著、ぱる3企画発行
 『熱帯の果実』小島裕著、新星図書出版発行
 『熱帯花木と観葉植物図鑑』(社)日本インドアグリーン協会編、株式会社誠久堂発行
 『ハーブを楽しむ本』川口昌栄編集、株式会社集英社発行
 『沖縄やんばるフィールド図鑑』 湊和雄著 実業之日本社発行
 『つる植物』沖縄都市環境研究会著 (有)沖縄出版発行
 『熱帯アジアの花』ウィリアム・ウォーレン著、チャールズ・イー・タトル出版発行
 『講談社園芸大百科事典』野間省一編集、講談社発行
 『沖縄の薬草百科』多和田真淳・大田文子著、那覇出版社発行
 『ネイチャーガイド琉球の樹木』大川智史、林将之著、株式会社文一総合出版 



学童疎開

2019年08月23日 | 通信-沖縄関連

 8月に入って病院通いをしているものだから今は一休止となっているが、7月初め頃から、薬草調べもしながら「戦世の終わる頃」とタイトルをつけて、その頃の体験者の話を聞いて集めていた。体調不良もあって集まったのは2人だけ。
 昨日8月22日は学童疎開船対馬丸の悲劇があった日、ラジオからそれを聞いて、「あっ、俺が聞いた話をブログにしよう」と思い立つ。
 先ずは、これは既に本人が地域の歴史を記した冊子に寄せた手記から。

 五十五年余経った今(投稿は1999年)、記憶も乏しいが、思い出すままに記してみます。忘れもしない一九四四年八月二十二日恐怖の米軍の魚雷を受け、大きな音、火柱と共に対馬丸の沈没を目前にし、私たちの乗っている船も傾き、船上では今にも飛び込まんばかりの様相、泣き叫ぶ人たち身内を呼ぶ声、声、あの時の惨状は今でも鮮明に記憶している。そして、長崎入港・・・熊本県日奈久へ・・・。一日中お湯の出る温泉の街。南風原の学童が大勢で松之屋旅館と新湯旅館に分かれて宿を取る。
 好奇心旺盛な学童たちは、思いは半ばヤマトに憧れもあって行ったが、しばらくすると食糧不足に悩み、旅館の方々が食料調達のため毎日買い出しに出かけて行った。そのおかげで飢えを凌いだ。先生方も大変ご苦労なさったようである。
 はじめて見る雪、雪合戦もしたがひもじさと寒さは身にしみた。私と弟の荷物が届かず(別船に積まれて)地元の方のお情けで何とか寒さは凌げたが、誰もがくつ下もなく、素足でゾウリ履きで雪道を通学、手足は霜焼けで痛み、ホームシックで床に入るや啜り泣く声がした。そのような中で温泉が一番の救いであった。
 他の人達も山奥のお寺さんに再疎開、そして終戦。私は弟と宮崎に疎開していた叔母を頼って行き、お世話になった。一年経った頃から沖縄への引き揚げがはじまった。
     

 その弟に最近お会いしてインタビューした。以下はその内容。
 私と姉は和浦丸、暁空丸のいずれかに乗船する。対馬丸の撃沈については知っているが、夜で暗かったこともあり、船が小さく波に隠れていたので、沈没の状況は見ていない。
 鹿児島港へ入港の予定だったが、鹿児島には米軍の潜水艦がいるとのことで、上陸地は長崎へ変更となる。当初計画より7日遅れの上陸となった。
 長崎で2泊し、汽車で熊本へ行く、宿泊地は熊本県日奈久の旅館。熊本県日奈久は温泉街で、旅館のほとんどは温泉宿となっている。 自分と姉は別々の旅館だった。
 旅館から学校へ通っていた。地元の生徒とは時間差通学して、授業は別々だった、
 とにかく、食い物が足りなかった。地元の子供たちが食べて捨てたミカンの皮も拾って食べた。上級生たちは干し柿などを盗んで食べていた。自分たちも畑からカボチャなど盗んで食べていた。農家の人は優しい人が多く、そう厳しく怒られることはなかった。
 終戦になって、姉と2人、宮崎に疎開していた叔母を頼って、そこでお世話になった。1946年、終戦から一年経った頃から沖縄への引き揚げがはじまった。我々も父母、弟たちのいる実家へ帰る。住居はアメリカ軍が簡易なものを建ててくれていた。食べ物もアメリカ軍からの配給があり、まもなく、農作業もできるようになった。
     
 以上の話、姉は私の母で、弟は母の弟、つまり私の叔父にあたる人のお話でした。

 記:2012.8.23 島乃ガジ丸
 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行