ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

素人農夫のお節介

2013年01月25日 | 通信-環境・自然

 12日から14日の連休を利用して埼玉在の友人Kが沖縄に遊びに来た。その滞在中、彼は「大学の大先輩Aさんと過ごす」というので私は彼と会う予定は無かった。ところが14日、東京が大雪で飛行機が飛ばないかもしれないとのことで彼は帰京を断念し、その日も沖縄となり、で、会うこととなってその夜、一緒に飲みに行った。
 Kが今回、当初の予定であったホエールウォッチングを変更してまでAさんと過ごすことになったのには大きな理由があり、もう一つ、そのついでの小さな理由もあったとのこと。大きな理由は私もよく理解できることなのでここでは省略する。
 さて、私のよく理解できない小さな理由。彼は、Aさんの不興を買って私が長く(一年ちょい)Aさんと不通であることを知っており、で、私とAさんの仲を取り持とうとしたらしい。大きなお世話だ。「お節介め」と私は思ったが、その話を聞いた元美人妻Iさんも、心は美人妻E子も私と同意見であった。Kとしては善かれと思っての親切心なので、気持ちは有難い。が、事前に相談して欲しかった。「NO!」と答えただろうに。

 じつは最近、私もまた「善かれ」と思ってやって、余計なこととなってしまったことがある。ただ、それは人に対してでは無く、畑の我が野菜に対して。

 去年(2012年)、相次ぐ猛烈最強台風に襲われて、沖縄の農家は甚大な被害を蒙ったが、台風は、無農薬農家にとっては都合の良いこともしてくれた。
  「今季はキャベツやブロッコリーの植付けチャンスだ」と無農薬有機農家のTさんが言う。「何で?」と訊くと、「台風で産卵されたモンシロチョウの卵が吹き飛ばされ、今季はモンシロチョウの被害が少ないからだ」とのこと。そういえば確かに、いつもなら畑に多くが飛び交っているモンシロチョウの姿が見えなかった。
 ということで、昨年10月下旬、私も少しだがキャベツ、ブロッコリー、カリフラワーなどを、小さな方の宜野湾の畑に植えた。同じ一角にレタスやハクサイ、ピーマン、ナスなども植え、万が一のための虫除けネットを被せた。
 その虫除けネットが「お節介」であったのだ。モンシロチョウはほとんどいない(少しはいて、まれには飛んでくる)のにネットを被せた。よって、確かにモンシロチョウの幼虫による被害はまったく見えなかった。例年なら虫食いだらけになるキャベツ、ブロッコリー、カリフラワーの葉はみなきれいであった。ところが、
          

  12月21日、八百屋に出しても恥ずかしくない程大きく育ったレタスを収穫した。表面の見た目も虫食いは無くきれい。ところが根元に小さな虫が少しいた。外側の食用に向かない葉を数枚剥くと同じ小さな虫がうじゃうじゃと出てきた。
 うじゃうじゃは、レタスを持ち帰って葉を1枚1枚剥いて行く間もずっと続いた。どこまでもどこまでも虫はいた。大きなお節介であった防虫ネットの網目は、モンシロチョウが入りこめないほどではあったが、小さな虫なら出入り自由の大きさだった。
 これまで何度かレタスを育てたが、このように虫が付いたのは初。ネットをしていなければ他の虫や鳥が食べていたのであろう。全く、余計なことをしたものである。そういえば、「少しの虫は鳥が食べてくれるのでネットはしない」とTさんが言っていた。
          

 記:2013.1.25 島乃ガジ丸


アカガシラサギ

2013年01月25日 | 動物:鳥

 自然と共にある暮らし

 先週紹介したアマサギ、粟国島の粟国小中学校のグランドで見たのだが、沖縄島の、私が時々散策する水辺のある公園や、海岸傍の公園ではお目にかかったことが無い。
 私が時々散策する場所は実家から近い漫湖公園とか家から近い吉の浦公園などで、いずれも周りに民家が立ち並び、人の生活臭の強いところである。粟国小中学校だって周りに民家が多くあり、人も多く住んでいる。同じ条件のように思えるのだが・・・。
 もしかしたら、住んでいる人々の放つオーラに違いがあるのかもしれない。アマサギはそのオーラを感じ取って粟国島では人々の生活する中にでもやって来るが、沖縄島では来ないのかもしれない。沖縄島に住む人々のオーラが嫌いなのかもしれない。
 どのようなオーラならアマサギは安心できるのかというと、むろん、アマサギに訊いたわけでは無いので当てずっぽうだが、粟国島の人々は「自然と共にある暮らし」をしているからではないか、と想像する。アマサギから見れば、人間も他の動物(危害を加えないと思われるもの)と同じような感覚で捉えているのではないかと想像する。

  じつは、粟国島ではもう一種、アカガシラサギにも出会った。民家近くの野原にいた。アカガシラサギも沖縄島では見たことが無い。彼もまたアマサギと同じく、「自然と共にある暮らし」をしている人々のオーラが好きなのかもしれない。
 もっとも、アマサギもアカガシラサギも沖縄島で見られると文献にある。私が出会っていないだけなのだ。私の放つオーラが彼らに対し嫌なオーラなので、私に出会わないようにしているだけかもしれない。粟国島では「まさかこんな所に」と彼らも油断していたのだろう。「自然と共にある暮らし」をこれから心掛けたいと思っている。

 
 アカガシラサギ(赤頭鷺)
 コウノトリ目サギ科の迷鳥または冬鳥 方言名:サージャー(サギの総称)
 名前の由来、サギについては先週のアマサギでも述べたように「サギはしばしば集団繁殖してやかましく騒ぎたてることによるのではないか、騒がしいことの古語がさやぎといい、それが略されたものではないかと『動物名の由来』にある。アカガシラについても資料は無いが、「夏羽は頭部から首にかけて赤褐色」ということからだと思われる。
 冬羽は頭部から首にかけて茶褐色、脚は黄緑色で、飛んでいる時の両翼は白色。
 水田、河川、沼地などに生息し、国内では観察される機会の少ない鳥。本土では主に旅鳥で、沖縄県にはまれに冬鳥として渡来する。県内の各地で見られるが、警戒心が強いとのこと。見られる時期は10月から6月。鳴き声はグァーグァー。

 記:2013.1.25 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の野鳥』沖縄野鳥研究会編、(株)新報出版発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『検索入門 野鳥の図鑑』中村登流著、株式会社保育社発行


関わりのある幸せ

2013年01月18日 | 通信-音楽・映画

 ここ数ヶ月、図書館からビデオやDVDを借りてよく観ている。最近は天気の悪い日が多く、そんな日は畑仕事を早く切り上げるので時間に余裕があり、ただいたい週に3、4本は観ている。観ている作品は大きく分けて2種類、沖縄芝居と日本の古い映画。
  沖縄芝居はウチナーグチ(沖縄口語)の勉強のため、勉強になっているかどうかについては、後日報告する。日本の古い映画は、図書館にその類のビデオが多くあるから、という理由もあるが、古き良き時代の日本を確認したかったから。
 「古い映画」と書いたが、観たビデオはだいたい1960年頃の作品、戦後15年を経ている。『下町の太陽』、『キューポラのある町』、『青い山脈』、『名も無く貧しく美しく』など。貧しかったけれど小さな幸せがそこここにあった頃のお話。
          

 私の今住んでいるアパートは琉球大学の近くにあり、住んでいる住人は大学生が多い。賃貸契約する時に「向こう三軒両隣に挨拶した方がいいですよね」と不動産屋に訊いた。前のアパートに越した時はそれが当然だと思って、アパートの他の住人に手土産を携えて挨拶したが、今の若者にそういう習慣があるかどうか不明だったからだが、
 「やらなくていいですよ、却って面倒臭がられるだけですよ」との助言を貰った。で、やらなかった。案の定というか、大学生たちは階段や廊下ですれ違っても挨拶しない、どころか、目を合わせようともしない。オッサンとは関わりたくないようであった。
 アパートには学生で無い住人もいる。服装から建設業関連と思われる若者が2人いて、彼らは会えば挨拶する。同じく元建設業関連肉体労働者の私としては、彼らと親しく声を交わしてもう少し関わっても良いと思っているが、彼らから見るとオッサンの私と関わっても楽しく無いかもしれないので、今のところ遠慮している。

 300坪の畑なっぴばる。12月からホウレンソウが収穫できている。収穫はしているが売れてはいない。商品になるほどの大きさに達していない、市販のそれの三分の一の大きさしか無い。で、自家消費している。でも、売れてはいないが収穫は嬉しい。
 今月からはウズラマメも収穫できている。これは十分な大きさに達しており売れると思われるのだが、量が少なくこれも自家消費。でも、食べて美味しいので嬉しい。
  収穫も嬉しいのだが、畑では他にも幸せを感じることがある。近所の農家たちとのユンタク(おしゃべり)だ。私は孤独癖があり、他人と会ってユンタクすることが好きというわけでは無い。が、けして人嫌いというわけでも無い。ユンタクも苦手では無い。
 北隣のウージ(さとうきび)畑の主Sさん、前歯の無い口を堂々と開けてよくしゃべりよく笑う。その向かいの、ジャガイモ畑のYさんは、太った人によく見られる人懐っこい顔をしていて、会うといつも缶コーヒーをくれる。他にもNさん、Kさんなどが私に声を掛けてくれる。有難いことだと思う。上述したように私はユンタクが好きというわけではない。何が有難いか?・・・私に関わってくれることが有難く、幸せに思うのだ。

 話は映画に戻る。貧しかったけれど小さな幸せがそこここにあった頃の映画の、そこここにあった小さな幸せとは人と人との関わりの中から生まれたのではないだろうかと思ったのである。隣近所の人たちといつも関わっていた、それが昔は普通だったのだ。
          

 記:2013.1.18 島乃ガジ丸


クロサギ

2013年01月18日 | 動物:鳥

 白を黒と言張る詐欺

 「警部、奴が言っていることは嘘です。奴はシロですよ。」
 「いや、シロに見えるかもしれないが、俺はクロだと思う。」
 「しかし、どう見たってシロにしか私には見えません。」
 「シロをクロと言張るには何か意味があるのだろう、それを考えてみよう。」
 「でもしかし、クロをシロと言うなら解るけど、逆のことを言うなんて・・・。」

 などと警察を悩ましかねない鳥がいた。この鳥には私も少し悩んだ。クロサギ。

  クロサギはその名の通り全身が黒いからクロサギ(黒鷺)という名なのだが、全身が黒色型だけでなく、白色のタイプもいて、沖縄には両タイプがいるらしい。私が何を悩んだかというと、「海岸などで単独で見られるシラサギは本種の白色型であることが多い」と文献にあったからだ。すると、今まで見た「海岸などで単独で見られたシラサギ」の中にはクロサギがいたかもしれないということと、去年(2012年)12月、読谷村で見たシラサギはいったいクロサギなのかコサギなのかということ。
 しかしながら、その悩みはすぐに解決した。今まで見た「海岸などで単独で見られるシラサギ」の中にクロサギがいたかもしれないが、でも、少なくとも私がコサギとして紹介した写真のシラサギはコサギに間違いなかったし、去年12月、読谷村で見たシラサギはクロサギであると明確に判断できた。両者には嘴と脚の色に違いがあった。

 
 クロサギ(黒鷺) 
 コウノトリ目サギ科の留鳥 方言名:サージャー(サギの総称)
 名前の由来、サギについては先週のアマサギでも述べたように「サギはしばしば集団繁殖してやかましく騒ぎたてることによるのではないか、騒がしいことの古語がさやぎといい、それが略されたものではないかと『動物名の由来』にある。クロについても資料は無いが、見てすぐに想像がつく。全身が黒いからであろう。
 全身が黒いのは確かにその通りだが、しかし、これがまた面倒なことに全身が白いタイプのものもいて、琉球列島以南では両タイプ見られるとのこと。コサギと大きさも同じ位なので、素人に両者の判別ができるのか?と思ったが、嘴と脚の色で区別がついた。コサギは嘴と足が黒く、本種は嘴は黄緑色で脚は暗黄緑色であった。
 全長63センチほど。沖縄では周年生息し、海岸、河口付近、干潟などで見られるとのこと。鳴き声はグワァーとしわがれた太い声。
 
 クロサギの白色型
 全身が黒色と白色の二つのタイプがあり、写真はその白色タイプ。

 記:2013.1.8 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄の野鳥』沖縄野鳥研究会編、(株)新報出版発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『検索入門 野鳥の図鑑』中村登流著、株式会社保育社発行


女の時代

2013年01月11日 | 通信-社会・生活

 大晦日から正月三日の夕方まで実家にいた。大晦日は小豆島から遊びに来ていた友人のOをあちこち案内し、夜は飲みに行って、飲み屋から帰るとすぐに寝た。明けて元旦は、Oが一人で首里城観光をしている間、私は実家の掃除。去年7月から義兄が一ヶ月余、その後は甥が一ヶ月余、その後9月の下旬からは友人のI氏が三ヶ月近く実家に寝泊まりした。いずれも「きれい好き」とは思えない男どもであった。ビシッとした掃除をしてくれてはいない。よって、翌二日、そして三日も掃除は続いた。
  沖縄では、正月に親戚回りをする。回る場所はトートーメー(位牌)のある家、回る人は位牌に書かれてある故人とごく近い親戚の人。私が回る個所は4家あり、私の実家に回ってくる親戚は6~7組ある。沖縄にお歳暮の伝統は無く、年始の際に仏壇へ供え物をする。生きている私にあげるのでは無く、ご先祖様への贈り物となる。
          

 年始客はほぼ午後にやってくる。午後はよって、その相手をするために仏間の傍にいなければならない。掃除はよって、午前中に少しずつ。で、三日もかかったわけ。
 午前中に掃除(男共が使った寝具などの洗濯もした)を済ませ、午後は概ねのんびり客を待ちつつ、音楽を聴きながらパソコン作業をしていた。一日だったか、二日だったか、三日だったかもう忘れてしまったが、そのいずれかの日の夕刻、音楽に飽きて、パソコン作業に疲れて、音楽を消し、パソコンを閉じ、久々にテレビを観た。
 画面には明石家さんまと木村拓哉が写っており、その対面には何人かの女性タレントがいた。私はその女性タレントの誰一人名前を知らないし、そのほとんどは見たこともなかった。テレビを観なくなって一年半、テレビの世界は流れが早いようだ。

 その番組は、女性タレントたちが「男に物申す」みたいな内容で、それぞれが「何で男は・・・なの?」と問い、さんまとキムタクがそれに対し意見を言ったり、茶々を入れたりしつつ、笑いを誘うもので、何ら結論を求めるものでは無い。
 「髪を切ったことに気付いてくれない」、「ファッションを褒めてくれない」などと女性たちは言う。「髪を切ったとか、ファッションがどうとか男は興味が無いんだからしょうがねぇじゃないか」と私は思う。どうも彼女たちの話を聞いていると「自分の望む通りに男はやってくれないから不満」のようであった。やるかやらないかは男の勝手だ。褒められることが好きなら女同士で褒め合ったらいいじゃないかとも思う。
 でもしかし、彼女たちの望むようにあれこれやってくれる男はたくさんいて、彼らはモテるのだろう。そうじゃない私のような男はモテないのであろう。

  なんて、ひがみつつ、諦めつつ、もう少し考えてみる。モテるためには女の感性に合わせなければならない。そんな男が増えて、世の中は女の感性で動いていく。男もまた女性化していき、テレビ番組も雑誌も、食べ物もファッションも女性の好みに合わせる。
 「そうか、今は女の時代なんだ」とさんまとキムタクの番組を観ていて私は感じた。しかしだ、私のように女の感性に合わせることを面倒臭がる男は世の中に多くいるはず。男には男の感性があるのにそれを押し殺して女に合わせることが「ホントに幸せか?」と考える男も多くいるはず。だからさ、結婚しない男はこれからも増えていくはず。
          

 記:2013.1.11 島乃ガジ丸