ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

返還交渉人

2018年08月10日 | 通信-音楽・映画

 もう2週間も前から観たいと思っていた映画があった。今、歯科医通いをしていて、歯科医は1日から3日にかけてと6日から8日にかけて通い、その間、映画へ行けなかったが、ところが、9日木曜日は予約一杯とのことで通わなくても済むようになる。桜坂劇場のスケジュール表を見ると、観たい映画、来週からは夜の上映となっている。夜に車を運転するのは嫌なので、「映画観るのは木曜日(9日)しかないか」となる。
 観たい映画は私の大好きな映画館桜坂劇場でやっている。桜坂劇場は那覇市のメインストリート国際通りの近くにある。国際通り近辺はいつも観光客で賑やかだが、車も多いので道も混む。夕方は通勤等でさらに混む。なので、夕方の国際通りは避けていたが、映画は午後2時半の開始、帰りが夕方となる時間になる、でも決行。じつは、都合の良いことにその日その時間、夏の高校野球で県代表興南高校の試合があった。ウチナーンチュは野球大好きで試合があると外に出ない。よって、道は混まない。ラッキー。

 観た映画は『返還交渉人』、沖縄の本土復帰に関わる日本とアメリカの交渉で、沖縄のために有利な(というか、人間として当然の)条件を得ようと奔走する外交官の話。
 沖縄が返還されるための条件交渉の中で、日本国は日本国の有利を考え、アメリカはアメリカの有利を考え、双方が落とし所を模索する。その落とし所というのが「沖縄に犠牲になってもらう」というもの。そんな中、主人公は己が正しいと信じる道を真っ直ぐ突き進む。彼が信じる道は、ウチナーンチュ(沖縄人)の多くが望んでいた道。
 その道はしかし、竹槍で戦車に挑むがごときの道であった。それでも立ち向かおうとする主人公、しかし、相手はあまりにも強大で、結果として無力感、挫折感を味わうことになる。でも、その精一杯の努力に私は感動してしまった。老いて涙脆くなった、加えて、腰痛で気弱になっている私には毒に(涙が出るという意で)なる物語だった。
     

 物語は沖縄の本土復帰(1972年)以前の数年間が舞台。ベトナム戦争の頃、アメリカ兵がピリピリしていた頃、基地被害の多かった頃。その頃から比べると沖縄も落ち着いているが、復帰から46年経た今もまだ、主人公の望んでいた沖縄にはなっていないと思われる。少なくとも、日本国によって米軍基地は沖縄に押しつけられている。
 映画を観た前日8月8日の夜、翁長沖縄県知事が亡くなった。映画の主人公と翁長知事の生き様が重なった。「辺野古に基地は造らせない」は、私も正しい道だと思う。
 「辺野古移設が唯一の解決策」と国は言うけど、「何で辺野古が唯一なの?他の方法は考えたの?考えたのならどんな方法を模索したのか明示して欲しいんだけど」と私は思っていた。それもこの映画を観て、何故そうなったか想像できるようになった。日本国は日本国の都合を、アメリカはアメリカの都合を考え、その落とし所を探った結果、沖縄を犠牲にすることが唯一の解決策となったのであろう。もちろんその落とし所は、沖縄にとっては何の解決にもなっておらず、この先、新たな問題を抱えるだけのこと。
     
 『返還交渉人』、本土復帰前の沖縄を思い出し、「今はどうなんだ?」と現在の沖縄までも想い、あれこれ考えさせられる良い映画でした。ただ、もう少し感情を抑えて、淡々と控え目の表現でも良かったのではないかと、涙脆くなったオッサンは思った。

 記:2018.8.10 島乃ガジ丸


憧れの爺さん『モリのいる場所』

2018年07月20日 | 通信-音楽・映画

 熊谷守一を題材とした映画があると聞いたのは3ヶ月ほども前だったか、それが桜坂劇場で上映されると聞いて喜んだのは2ヶ月ほども前だったか、6月30日から上映されると聞いて、7月の第一週には早速観に行こう決めた。土日は混む、映画館がではなく道が混むので土日祝祭日は避け、傘を差すのが面倒なので雨の日も避ける。
 7月第一週の平日はずっと雨、第二週の9日~11日は台風接近のためその台風対策や台風後の後片付けなどあって、12日~13日は台風対策で動いたせいか腰痛が酷くて映画は断念。第三週の18日になってやっと映画を観に行く機会を得た。

 映画館で映画を観るのは久しぶり。3月28日に見て以来だから約4ヶ月ぶり、その前は去年9月19日だった。月に1回は映画館に通っていた映画少年も今は年取って、体にも心にも元気が無くなってしまったようだ。お出かけが面倒となっている。
 しかも、腰痛を患って以来、映画を観ることが少々怖くなっている。同じ姿勢を長く続けると腰への負担が大きく、腰痛が悪化するということを経験で知っている。それでもなお、今回映画を観に行った。「ぜひ観たい」という気持ちが強かった。
 観た映画は『モリのいる場所』、題材となっている熊谷守一は私の大好きな画家。その存在を知ったのはせいぜい15~6年前だと記憶しているが、知って、その作品(実物ではない、画集か何か)を観て、すぐにファンになった。「こんな絵が描けたらいいなぁ」と思った。守一の「下手も絵の内」という言葉には元気付けられた。
     

 主演の老夫婦を演じている2人は名優で、妻役の樹木希林は元々好きな女優で、守一役の山崎努は渋い深みのある役者だと認識していたので、彼らについての感想はただ「感服しました」としか言いようがない。ただ、山崎努演じる熊谷守一は私の想像するものとは少し違っていた。山崎努の目には物事を洞察する力と知恵の光があるように感じた。私の想像する熊谷守一は、何でも許してくれそうな柔らかい目をしている人。
 「柔らかい目をしている人」を私の脳に残っている記憶から探してみる。笠智衆、加藤嘉、宇野重吉の、昭和を代表する名優の顔が浮かび出た。
 笠智衆は小津安二郎の映画や『男はつらいよ』で有名。加藤嘉は映画『砂の器』でよく覚えている。その映画では悲運な父親役であったが、その後、テレビドラマなどで見る加藤嘉は笑顔に優しさが溢れる老人という印象が強い。宇野重吉は、出演している映画、あるいはテレビドラマは思い出せないが、テレビコマーシャルの和尚さん役が私の脳に記憶として強く残っている。「カンラ、カンラ」と明るく笑う和尚さん。そのテレビコマーシャルが日本酒の松竹梅で、石原裕次郎が共演だったことも覚えている。

 映画を観終わって、車を運転している間ずっと、熊谷守一、笠智衆、加藤嘉、宇野重吉の顔が頭の中をぐるぐる回っていた。終いには「あー」と溜息が出た。
 「あんな爺さんになれたらいいなぁ」と思い、「これまであんな爺さんになれるような修業をしてこなかったから無理だろうなぁ」と思い、「早く死んでしまえば良いのにと周りから思われるような淋しい爺さんなるだろうなぁ」とまで想像して、「あっ」と気付いた、「俺は父に対しそんな態度ではなかったか」と。そう気付いて溜息。
     

 記:2018.7.19 島乃ガジ丸


弱き人々を救う映画『あん』

2018年05月24日 | 通信-音楽・映画

 約30年前、それまで籐家具を製作していたが、廃業して空き家になっていた建物があり、そこを「管理する」ことを条件に只で借りて、趣味の木工をやっていた。籐家具製作所だったので、木工機械がいくつもあり、木工をやるには好都合であった。
 建物の持ち主は、正式名称は忘れたが、沖縄県の公益財団法人でハンセン病に関わる施設を運営している団体。籐家具工房もたぶん、そこの管理経営だったと思う。
 その団体の職員の1人が高校の同級生で友人のK、私が木工が好きということを彼は知っていて、建物は「いつか整理処分するけどしばらくは空いている、使わないか?」と勧められて、「渡りに船」と応諾し、1990年前後の1~2年そこを使っていた。
     
 その間に、ハンセン病に関わる施設の関係者とも何度か顔を合わせ、話をしている。元患者であったという人達も多くいた。ハンセン病はライ病という名でも私は知っており、中学生だったか、高校生の頃だったか『ベンハー』というアメリカ映画を観て、ライ病は伝染性があり、患者は差別対象となる病気であったことを知っていた。しかし、
 「ハンセン病は危険な伝染病では無い」と、友人Kから教わっていたので、元患者の人達と会話したり、肌が触れ合ったりしても、さほど嫌だという感情は持たなかった。Kからは他にも、昔はライ病が差別対象の病気であり、、日本でもライ患者は差別され、沖縄には沖縄島の北部、屋我地島に患者の隔離施設があるということなどを教わる。だけど、もうその頃、1990年頃は、友人Kが言う通り「ハンセン病は危険な伝染病では無い」と認知されて・・・いたのか?・・・今、ネットで調べたら「らい予防法」が廃止されたのは1996年とのこと。まだ、20年少ししか経っていないのかとビックリ。

 最近、ハンセン病患者が不妊手術を強制されていたというニュースを聞いた。病気に対する偏見が酷かった頃の話なんだろうなと、さほど深くは考えなかったのだが、それとは全く関係無く、私は1枚のDVDを図書館から借りていた。DVDは映画『あん』。
 『あん』がハンセン病に対する偏見差別を題材にしていることは全く知らなかった。私がそのDVDを手に取ったのはその表紙に惹かれたから、表紙には樹木希林が大きく写っていて、彼女が主役らしかったから。彼女に私は魅力を感じていたから。
 映画にはキャッチコピーがあった。「やり残したことは、ありませんか?」と。それを見て、「老婆が人生の仕上げに挑む映画かな?黒澤明の『生きる』みたいなものかな?」と思いつつ観る。観終わって、私は心暖かくなり、とても満足。良い作品でした。

 映画『あん』はハンセン病が関わる物語で、今(映画の時代は現代、せいぜい10年ほど前か?)でもなお、ハンセン病に対する差別意識が残っているのかと感想を持つが、それは、私にとってはさほど強い思いではなく、「朝鮮人というだけで差別意識を持つ人もいるんだから、そういう人もいるんだろう」程度の思い。私がこの作品で強く心に残ったのは、樹木希林演じる吉井徳江のセリフ、映画の最後の方に出て来るセリフ。
 「私達はこの世を観るために聴くために生まれてきた。だとすれば何かになれなくても私達には生きる意味がある。」、これを聞いた時、不覚にも涙ウルウルした。
 「観るために聴くために」は「感じるために」に替えても良いと思う。「生まれてきたんだから生きる意味がある」となる。多くの弱き人々を救う言葉だと思う。
     

 記:2018.5.24 島乃ガジ丸


愛されなかった爆発『素敵な・・・』

2018年04月06日 | 通信-音楽・映画

 愛(?)車の12ヶ月点検の期日となって、前に車検をしてもらった自動車整備工場、今年2月まで私の住まいだった家から徒歩1分の場所にある工場へ「時間はどれくらい、代金はどれくらいかかるか?」を訊きにいった。すると、そこの社長は「12ヶ月点検は法律で定められたものでは無いのでやらなくてもいいですよ」と言う。その社長、見た目もイイ感じの人だが、商売っ気のない人である。その爽やかさに惚れて、また、「でも、オイル交換はした方がいいですね」との助言もあったので、オイル交換のついでに、やらなくてもいいという12ヶ月点検をも頼むことにした。しかし、
 「点検には3時間ほど要するが、3月は忙しい時期なので、代車は提供できないかもしれない」と社長は言う。ということで、その3時間をどうするか考えた。現住まいの宜野湾からより、その自動車整備工場から那覇へ行く方がずっと近いし、早いし、バスの便もいい。ということで、「那覇へ行って用事を済ませよう」と決める。
 那覇に「後で後で」と延期し続けていた用事がいくつかある。移転の為3月末には閉館するという沖縄県立図書館へ行くこと。桜坂劇場へファンクラブ会員の住所変更をすること。用事は他にもあったが、図書館と桜坂は徒歩圏内なので、先ずはその2件を済ませることにした。図書館での用事を済ませ桜坂劇場へ着くと、ちょうど1本の映画が始まろうとしている時間であった。特に観たいと思っていた映画ではないので少し悩んだが、せっかくここまで来たんだからと観ることにした。

 観た映画は『素敵なダイナマイトスキャンダル』(長いので以降は『素敵な・・・』と略する)。久々に心に深く響いた映画だった。
 映画は一見エロ映画。女性の裸が一杯出てくる。おっぱいがいっぱい、下半身の毛も出てくる、あの時のよがり声も多く聞こえてくる。「18禁の映画か?」と最初は思ったのだが、話が進んで行くうちにエロ映画というだけでは無いということに気付く。
 映画で描かれているのは欲望と理想の中で弾けたり悩んだりする青春。時代は学生運動が終焉に近付く1970年代から80年代にかけての頃。エロ映画に見えるのは主人公がそういった関係の仕事をしているから。その頃流行っていたピンクサロンとかノーパン喫茶とか、そして、その頃流行っていたエロ雑誌の編集という仕事。
     

 時代の流れの中で「生きる」ために足掻いている人々がいる。主人公もその1人。主人公はしかし、その中でも成功者である。デザイナーとして成功し、雑誌の編集者として成功している。ただ、私には主人公が薄氷の上で動き回る人に見えた。
 主人公の母親は彼が子供の頃に「不倫相手とダイナマイトで心中」というスキャンダルを起こし、夫と子供に深い傷を負わせている。その傷は主人公のその後に大きなマイナスの影響を与えていると思われる。深い傷を負いながら時代の中でもがく。少し足を踏み外したら奈落の底へ落ちてしまうような不安感を、主人公の生き様を見て私は感じた。
 その不安感は何だろう?と考えてみた。「愛されていない」という不安か?主人公は父親とも折り合いが悪い。母からも父からも愛情を感じずに育ち、それが大人になってからの感性の爆発となり、観ている者に「危なっかしい」と感じさせるのではないか。『素敵な・・・』はエロが一杯だが、私にはそんな不安を感じさせる作品であった。
     

 記:2018.4.6 島乃ガジ丸


共感の喜び

2018年03月16日 | 通信-音楽・映画

 私は孤独癖がある、ってことを若い頃から自身で認識していた。「一人が好き」ということについてはつい最近、このガジ丸通信に書いた記憶がある。調べると、「つい最近」ではなかった。2015年7月だからもう2年と8ヶ月も前だ。あーなんて、時の流れの早いことよ。もう2018年になってしまい、2018年も早や3月、3月も半ばになってしまった。冥土の旅の一里塚が高速で次々と過ぎていく。
 なんて、オッサンの嘆きは置いといて、その2015年7月31日付の記事はタイトルが『孤独自然死』で、当時話題になっていた孤独遺伝子を取りあげ、「人間には孤独になりたがる遺伝子を持つ人と持たない人がいるとのことであった。「これだぜ俺は!」と思った。私はきっと、間違いなく孤独遺伝子を持っている」と私は書いている。
 孤独遺伝子を持っている私は独善的である。他人から褒められたいという気持ちはあるけど、「自分が良いと思えばいい」ということを優先している。また、他人から褒められる程の才能も無いので、例えば、私が表現するもの(絵とか作文とか)も他人の共感を呼ばないようである。何年か前に友人の、沖縄では名のあるミュージシャンであるTに私の作詞作曲作品を「こんなのいかが?」と聴いて貰った。彼は少し聴いた後、作品の評価をせず、首を横に振っただけであった。「やはりそうか」と私も納得した。

 私はたぶん、多くの人の共感を求めていない。「自分の好きなようにしたい、好きなように表現したい」という気分が強いのだと思う。「他人の評価など気にしない」という傲慢さと、「分かる人には分かるさ」という上から目線の成せる技だと思う。「分かる人には分かるさ」なんて自信を持つような根拠は何も無いのにさ。
 根拠のない自信から来る「分かる人には分かるさ」はもちろん、「我が道を行く」といった信念に基づくものでは全然無い。私の場合は、よーく考えると、他人の感性に気を使うのが面倒だからという理由が大きいと思う。ちっともカッコ良くない。

 前述した「沖縄では名のあるミュージシャンである」Tは、7年間も癌と闘い続け、去年(2017年)12月に他界した。彼の告別式に参列して、会場に飾られていた生前の彼の写真を見るに、たくさんの仲間に囲まれ今にも壊れそうな笑顔を見せている彼の姿を見るに、「あー、この人は共感の喜びを大切にしていた人なんだ」と感想を持った。
 その時頭に浮かんだ「共感の喜び」という言葉に、「あー、それだぜ、俺に足りないのはそれに違いない」と、自身を省みるきっかけとなり、そして、少し反省した結果、「私は孤独癖がある」について疑問を持つようになった。2017年の年末から年始にかけて友人知人と会う機会が多く、彼らに心癒されているということを感じて、私は孤独が好きなのではなくて、他人に気分を合わせるのが嫌いな我儘者なんだと気付いた。
 他人と共感することが嫌いというわけではない。共感する喜びを知らないというわけでもない。若い頃、フォークソングが好きで、中でも高田渡とか友部正人に感動し、同じく彼らを好んでいる人達に出会って、「同士だぜ」と思ったことを思い出す。
     
 しかし、面倒臭がり屋の我儘者は、その後、オジサンと呼ばれる年齢になってからは共感の喜びをあまり得ていない。オジサンとなってから、さらに我儘者になったのだと思われる。いや、現場仕事で工事を完成させた時は仲間と喜び合ったな。懐かしあの頃。
     

 記:2018.3.16 島乃ガジ丸