ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

二十日正月

2010年12月17日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 今日(2月28日)は、旧暦の1月20日、ハチカソーグヮチ(二十日正月)である。別名、終わり正月とも言い、旧暦1月1日から始まった正月が、この日でもって終わるとされている。主に本島中南部で行われている行事で、スーチキー(豚の塩漬け)を食べ、正月飾りを下ろし、ターウムニー(田芋煮)などのご馳走を仏前、ヒヌカン(火の神:台所にある)に供えて、正月祝いを締めくくる。
 那覇市にある私の実家で、この行事が行われていたかどうかを私は覚えていない。前回紹介した十六日(ジュウルクニチ、「あの世の正月」)は、その日になると祖母が「チューヤ(今日は)グソーヌショガチドー(後生の正月だよ)」と言いながら、仏壇にご馳走の入った重箱を並べたり、線香立てたりしていたのでよく覚えている。二十日正月はたぶん、やっていたにしろ、それほど大げさなことでは無かったのだろう。

 行事そのものは覚えていないが、ハチカソーグヮチ(二十日正月)という名前はよく知っている。その日はジュリ馬スネーの日でもあるからだ。
 ジュリとは漢字で尾類(いかにも蔑んだ文字だが、きっと庶民の心を知らない高級官吏か学者がつけたのだろう)と書き、遊女や娼妓のことを指す。スネーは行列のこと。辻遊郭(注1)の娼妓たちによる行列のことをジュリ馬スネーという。辻遊郭から選ばれた娼妓が舞妓となって、馬の形(春駒の芸の系統をひくと文献にある)の作り物を身につけンマメーサー(馬舞者)を中心に豊年を願い、歌いながら、踊りながら道を練り歩いた。
 娼妓たちが何故豊年を願うのかというと、おそらく、豊年になれば世間が豊かになり、遊郭に遊びに来る客も増え、「私たちも潤う」ということなんだろう。
 そのジュリ馬スネー、300年以上もの伝統があるといわれている行事だが、1988年を最後に一時途絶えた。2000年に復活したが、その時、婦人団体に開催を反対された。そりゃあそうだ。遊女の祭りなんて婦人団体が許すわけは無い。でも、祭りは復活した。批判を覚悟で敢えて言うが、独特の雰囲気を持った伝統ある祭りである。それはもう文化だと言っていい。つい最近女に捨てられた石田純一が、以前「浮気は文化だ」みたいなことを言っていたが、辻遊郭にははるか上質の恋愛文化があり、娼妓たちの始めた(注2)ジュリ馬スネーは、後世に残したい格式ある伝統文化なのである、と私は思う。
     

 注1、1672年、摂政、羽地朝秀によって現在の那覇市辻近辺に設置された遊郭。いわゆる公娼。辻遊郭についてはもっと語りたいが、いずれまた別項で述べる。
 注2、もちろん、現代は娼妓では無い。戦後、料亭の女性たちによって復興された。

 記:ガジ丸 2005.2.28 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


あの世の正月

2010年12月17日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 旧正月に今年の初三線(サンシン、三味線のこと)、初唄を予定していたのだが、酒が過ぎて、指を動かすのも、声を出すのも面倒になって、中止した。それから15日が経った昨日(24日)、旧暦で言うと1月16日、三線を弾き、民謡を2曲歌った。
  旧暦1月16日は、ジュールクニチと呼び、沖縄ではあの世の正月となっている。ジュールクニチはしたがって、グソーヌソウグァチ(後生の正月)と言う場合もある。地域によって違いがあるようだが、私の実家のある那覇では、旧正月とほぼ同じ(赤カマボコは無し、揚げ豆腐の切り方も違う。詳しくはいずれ別項で)ご馳走を仏前に供え、線香をたて、手を合わせ、今日は十六日だからご馳走食べてね、などとお祈りするだけ。宮古、八重山などの先島では墓参りもするらしいってことを以前聞いたことがある。
 で、調べてみた。ウシーミー(清明祭、注1)の盛んな首里や那覇では、私の実家のように例年は墓参りなどしない。ただ、この1年の間に死者の出た家では墓まで出向くとのこと。清明祭の盛んでない先島やその他の地域では重箱にご馳走を詰め、墓参りをするようである。その後、三線弾いて、歌って、賑やかに祝うらしい。

 私の父は元々那覇の人で、母の実家は那覇の隣の南風原にあり、南風原も清明祭は盛大にやる。したがって、私の実家では旧暦16日の“あの世の正月”は賑やかでは無い。ではあるが、まあ、普段、ご先祖様に不義理をしている私なので、昨夜の16日は一人でワイン飲みながら、チーズ食いながら、三線弾いて、歌ったのであった。

 今年の初唄は、『正調琉球民謡工工四(くんくんしい、三線の楽譜)』第一巻から「西武門節(にしんじょうぶし)」と「国頭(くんじゃん)ジントーヨー節」の二曲。「西武門節」は辻遊郭の女と客の男との掛け合いの唄で、別れの悲しさを歌う。「国頭ジントーヨー節」は昔の恋人同士が久々に道端で出会ったときの掛け合いの唄で、こっちは明るい唄。どちらも正月に歌うような内容のものでは無いが、子供の頃からよく知っている私の好きな唄なので、今年の初唄に選んだ。
 じつは、正月などのめでたいときに歌う沖縄民謡は「御前風」、「祝い節」などいくつもある。それらは古典音楽で、歌詞の内容も真面目で、格調高い。が、歌っていてあまり楽しいものでは無いので、私はあまり歌わない。
 沖縄には二十日正月(ハチカソウグァチ)というのもある。旧暦の1月20日に行われる行事。終わり正月とも言われるが、これについてはまた、同日に行われる辻遊郭の「ジュリ馬祭り」とともに別項で来週にでも語りましょう。
     

 注1 シーミー(清明):二十四節季の清明の頃に行われる神事。これについてもその時期(4月頃)が来たら詳しく述べましょう。
 記:ガジ丸 2005.2.25 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


桜坂の灯

2010年12月17日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 観光都市那覇のメインストリートは、安里三叉路から県庁のある久茂地交差点までの南北約2kmを走る国際通り。その国際通りの真中辺りにデパート三越がある。三越の向かいに平和通りがあって、そこに入り、アーケードの下をずんずん進む。しばらく行くと、観光客にも人気のスポットである牧志公設市場が右手に見えてくる。そこを過ぎ、さらに2、30mも行くと道が三方向に分かれていて、真中の道、やや左斜め方向へ進むと壺屋焼の窯元がずらっと並ぶ壺屋通りとなるが、そうはせず、左へほぼ直角に曲がり、アーケードの無い道を行く。そこは、短いが、急な坂道となっている。通称を桜坂という。
 桜坂という名は、昔(1950年代)、坂道に100本の桜があったことからきているようだ。坂を登りきった辺りに園芸専門劇場ができ、劇場の周りにバー、キャバレー、クラブなどの飲食店が次々と出現し、大きな歓楽街となった。そして、桜坂は、桜の植わった坂道だけで無く、その歓楽街全体のことをも俗称として呼ぶようになった。
 だから、桜坂と聞くと大人の男の遊び場というイメージであった。が、女子供も桜坂へは多く出掛けた。園芸専門劇場は後に映画館となり、主に松竹系、日活系(ポルノ上映館も当然あった)などの映画をやっていて、石原裕次郎ファンや車寅次郎ファンなどは、淫靡な空気の漂う中を歩かなければならなかったのだ。
     

  昨夜(19日)、その映画館へ出掛けた。友人である美人良妻賢母人妻に誘われたということもあるが、「10ミニッツオールダー」というなかなか面白そうな映画が、その日一日限りで上映されていて興味を持ってのこと。で、映画は、まあ、普通に満足した。10分という短い時間に己が感性を表現するということの難しさ、楽しさを味わえた。
 映画はそうであったが、しかし、それよりも私が大いに気になっていることがあった。その映画館が、桜坂が那覇の有数の歓楽街として発展したその大元である映画館が、いわば“桜坂の灯”ともいうべき映画館が、来月、3月一杯で閉館するというのだ。年に数本しか観ない映画だが、観る映画の内8割方は邦画の私。桜坂の映画館が無くなってしまったら、観たい映画が激減してしまう。映画はオジサンの感性が衰えるのを防いでくれるもの。感性はできるだけ良い状態を保っていたいのに、私の愛する桜坂の映画館が無くなってしまったら、その先、オジサンはいったい、どうしましょうね。

 記:ガジ丸 2005.2.20 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


命どぅ宝

2010年12月17日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 15世紀の始め頃に統一され琉球王朝時代に入った沖縄は、15世紀の半ば過ぎには第二尚氏の治世となり、16世紀になると貿易もいっそう盛んとなって、王朝の黄金時代となる。その頃には、武器によって争いごとを治めるということも無くなり、サムレー(武士)は床の間に刀では無く、三線を飾り、剣の技よりも唄三線(ウタサンシンと言い、踊り等も含めた芸能一般を指す)に励んだ。剣の替わりとして空手が生まれた。これも、相手を完膚なきまで叩きのめすということをしないテーゲーの表れかもしれない。
 外国との付き合いにおいても、既にその頃、日本国憲法の前文を先取りしていた。当時の沖縄には武力でもって他国と対峙するという思想は無く、自らの平和はもっぱら外交に頼っていたのだ。で、何とか上手くやっていた。ちっぽけな王国だから、そうするしかなかったのだろうが、しかし、まあ、それで暫くは平和にやっていた。
 17世紀始め、薩摩が侵攻してきた時は、だから、王様も家来も驚いた。何でまた、武器も持たずに平和で、おとなしく、幸せに暮らしている島を薩摩は襲うんだい?今までアンタとも仲良くやっていたじゃないか。何故?と思ったのだ。武器が十分に無いから、戦っても勝てようはずは無い。できる限りの抵抗はしたが、やはり無理だった。

  「命どぅ宝」という言葉は、ナイチャー(内地人、倭国の人)でもご存知の方が多いかもしれない。数年前のテレビドラマ『ちゅらさん』で、平良トミ扮するオバーがよく口にしていた言葉だ。明石家さんまがたびたび口にする、また、今の朝ドラで南田洋子扮する婆さんの口癖でもある「人生、生きているだけで丸儲け」に似ている。「生きるということが最も大切なこと」となる。似てはいるが、「命どぅ宝」には深い歴史がある。
 薩摩の侵攻後、わずか10日で敗れ首里城を明け渡す。その際に尚泰王が詠んだとされる琉歌(和歌とは違い8、8、8、6という字数、リズムに柔らかさがある)がある。
 いくさゆ(戦世) ん(も) すまち(済ませ)
 みるくゆ(弥勒世) ん(も) やがてぃ(やがて)
 なぎくなよ(嘆くなよ) しんか(臣下)
 ぬち(命) どぅ(こそ) 宝
戦世も終わって、平和(弥勒菩薩が平和をもたらすという仏教思想に基づく)がやがて来る。(戦に負けて、城を明け渡したからといって)嘆くなよみんな(臣下は家来のこと)、生きているということが大事なのさ。といった意味。
 戦いがわずか10日だったのは、むろん武器の足りなさから抵抗にも限りがあったのだろうが、勝てぬ戦ならば早々と諦めた方が、その分、民や家来の命を無駄にせずに済む。王は人質として薩摩へ連れて行かれる身でありながら、皆の命を大切に思ったのだ。
     

 記:ガジ丸 2005.2.11 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


若水

2010年12月17日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 今日(2月9日)は旧正月なので昼間、テレビで東西民謡歌合戦(新正月と旧盆の日にもやる。別の民放でも民謡紅白歌合戦とか違う名で、その類の番組をいくつもやる)が放送された。勤務中だったので私はそれを観ることはできなかったが、その代わり沖縄の正月らしく、民謡のCDを聞きながら、泡盛を飲みながら、豚肉料理を食いながら、今これを書いている。この後、長い間触っていなかった三線(サンシン、沖縄の三味線のこと)を取り、久々に民謡でも歌おう。「僕んち」で知った「芋の時代」も練習しよう。

 新正月(太陽暦の正月)のことを沖縄ではヤマトゥソーガチ(大和正月)と言い、旧正月(太陰暦の正月)のことをウチナーソーガチ(沖縄正月)と言う。現在では糸満市などごく一部を除いては新正月に主な正月儀式を行う地域が多くなっているが、私が子供の頃は那覇でも旧正月の行事をやる家が多くあった。私の家もそうであった。
 親戚同士の正月の挨拶をし、お互いの仏前にお供え物(お歳暮にあたる)をした。子供たちは学校が冬休みである新暦の正月に親戚の家へ遊びに行き、そこでお年玉を貰い、旧正月に家にやってくる親戚の人達からもまたお年玉を貰っていた。大儲けではあったが、それらのお年玉の多くは貯金という名目で母親に取り上げられ、自分で使える分は僅かしか無かった。「母さん、あの、私のお年玉貯金はその後どうなったのでしょうね?」

 旧正月の朝、祖母が私に声をかける。
 「ガジー、水汲んできて、仏壇にうさげ(お供え)なさい。」
 元旦の朝には、その家の男の子が若水(新鮮な水、昔は泉とか井戸の水だが、その頃には水道水で良かった)を汲み、火の神(台所の神)や仏壇などへ捧げる。面倒臭がって私が渋っていると、祖母は唄を歌って私を諭し、急がせた。
 キュウショウガチ や 朝ウキトーティドゥ(朝起きて)
 ミジン(水を) ウサギヤビラ(供えましょう)
 この唄、うろ覚えだったので、民謡に詳しい同僚のOさんに訊いたが、そんな唄知らないと言う。もしかしたら、祖母の自作だったかもしれない。
 仏前、火の神には他に花米、木炭や昆布、お金などが供えられた。
 糸満市では、旧正月は公休日になる。学校も役所もお休み。古くから漁業の町として栄えたこの地域では、太陽暦よりも太陰暦の方が生活に密着している。それは時代がデジタルになろうが何だろうが、漁業に深く関わる潮の干満は、月の動きが大きく影響するからだ。太陰暦は月の動きに則った暦である。太陰暦に従って猟師は仕事を計画する。
 他の地域でも、神事だけは旧正月にも行う所が多いようだ。私の実家でも母親はずっと続けている。今日もクヮッチー(ご馳走)を作って、仏前、火の神に捧げたことだろう。親不孝者の私は、それを知りながら挨拶にも行きやしない。「お疲れさん」の電話さえもしない。親不孝、先祖不孝はきっと、ろくな死に方はしねぇだろうな。まったく。
     

 記:ガジ丸 2005.2.9 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行