ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

介護倒し

2010年04月30日 | 通信-社会・生活

 先週月曜日(4月19日)の午後、父が入院した。実家の近所にある父のかかりつけの小さな病院で紹介状を書いてもらって、やっとのことで大病院の内科の検査を受けることができた。検査後、父はそのまま入院となった。
 父は、その数日前から歩行器を使っても自力で立つことができなくなっていた。ベッドから起き上がることもできなくなっていた。その間、従姉MやHの助けを借りながら、父の面倒を見ていたのだが、その数日間で、「俺に在宅介護は無理」と強く認識できた。肉体的疲労もあったが、紙おむつの世話など、精神的ストレスが大きかった。なので、父が入院できたことは私にとって大きな救いとなった。

 父の具合が悪くなった週の木曜日から、私の食生活が乱れた。米のご飯と準主食の芋は全く食えなくて、朝はパン(これは普通)とかカップ麺、昼飯は抜きで、夜はスーパーの総菜か缶詰を肴に酒を飲むだけ、という日々が翌週の木曜日まで続いた。
 そんな食生活の乱れが原因なのか、介護のストレスが原因なのか知らないが、何か体がフラフラした感じがし、呂律(ろれつ)が回らないような感覚にも何度か襲われた。ひょっとしたらヤバイかもと思って、翌日金曜日の朝、久々に血圧を測る。血圧は自己最高記録を更新した。97と156。「ワオー、すげぇ!」と驚く。
 「いかん、ちゃんと食わなければ。」とその日、早めに家を出て、ガジ丸HPアップを急いで終わらせ、12時前には金曜日の職場を早退し、スーパーで買い物して、家に帰って久々に料理らしい料理をした。料理はフーチバー(ヨモギ)たっぷりのチムシンジ(肝煎じ)と鶏肉・大根・大豆の煮物の二種。その後、病院へ行き、父とおしゃべりし、いつもより早めの6時半にはサヨナラして、家に帰り、昼間作った料理を食べた。
 チムシンジにはニンニクもたっぷり(10片ほど)入れ、その夜は、野菜、肉、豆、ニンニクをたっぷり食べて、酒も飲んで、11時には寝た。翌朝、目が覚めたのは8時、睡眠もたっぷり取れた。さっそく血圧を測る。90と141になっていた。
 90と141でもまだ高いのだが、一日でこれだけ改善すれば先は明るい。食事のお陰で改善したのか、たっぷり睡眠のお陰で改善したのかも不明だが、ちゃんとした食事を摂り、たっぷり睡眠を取れば健康は維持できるわけだ。以後、気を付けるつもり。

 そんな中、不謹慎かもしれないが、「介護倒し」なんて言葉を思い付いた。
  老老介護なる現象があるらしい。年取った妻が年取った夫を介護、またはその逆のことらしい。まだ「老」では無い私でさえ、ぐったり疲れる介護だ、「老」となったら、介護している方も過労で倒れてしまうに違いないと思う。
 AをBが介護しているうちに、介護疲れでBが倒れ、今度はBをCが介護することになり、そのうちCも倒れなんて、ドミノ倒しのように介護悲劇が続くかもしれない。介護は家族の責任なんて言っていたら、たぶん、そうなる。他人の助けが必要だ。
 幸いにも、父は在宅介護しなければならない状況に陥ることはなさそうだ。あったとしても1日かそこらであろう。まったくもって、子供思いの親である。ありがたいことだ。父の内科的検査は二日目も続き、CTスキャンなるものも行われた。午後、担当医から説明を受けた。「末期ガン」とのこと。退院はあの世への旅立ちになりそうなのだ。
          

 記:2010.4.30 島乃ガジ丸


玄人に素人が物申すの?

2010年04月23日 | 通信-社会・生活

 先週月曜日(12日)、突然父の体調が悪くなり、以来ずっと実家へ通っていた。それまで父は、一人で杖をついて歩くことができ、手摺を頼りに階段を上ることもできていたのだが、足がむくんで歩き辛くなり、その状態は日増しに悪くなっていった。
 火曜日、杖では歩けなくなって、歩行器を使うようになり、歩行器やその他の器具が無ければ椅子から立ち上がれなくなり、ベッドからも起き上がれなくなってしまった。木曜日には階段を上れなくなった。金曜日には歩行器を使っても足元が覚束なくなった。
 足のむくみはそのうち治ると医者は言っていたが、いったん引いても、また元のようにむくんだりして、治る気配が無い。で、土曜日の午前中、病院へ連れて行く。

 実は、月曜日(12日)に従姉Mが父を病院に連れて行き、診て貰っている。その時の診断は、「レントゲンを見る限り、骨には何の異常もありません。むくみは足を下げた状態が長く続いたせいです。」とのこと。整形外科の医者であった。
 「座る時も足を上げてください。湿布薬を処方するので貼ってください。」という医者の指示を守ったのだが、以降、父の症状は改善しない、どころか、上に述べたように体力がどんどん衰弱していく。「何で?」と医学的素人の私は思う。
 「内科的な病気かもしれないから血液検査をして貰ったら。」と従姉の夫から助言を貰う。で、土曜日、内科である父のかかりつけの病院へ行き、血液検査をして貰った。その結果は数日後と言うので、その日はそのまま帰る。
 そのまま帰って、父に食事をさせる。食後に父はコーヒーを飲む習慣がある。たいてい自分で入れて飲む。その時も、歩行器を使って、コーヒーメーカーのある場所まで歩いて行った。私は近くにいたが、父から目を離していた。突然、「あい、あい、あい、」という声がして、見ると、父がゆっくりと床の上に倒れいった。土曜日のお昼後の事、その時から、父は歩行器を使っても歩けなくなってしまった。
 日曜日(18日)の朝になると、父はベッドから全く動けずにいた。抱き上げて、両手に歩行器を握らせて、両足を床に付けてみる。手を離すと、父は崩れる。父はもう歩くどころか、つかまり立ちさえもできなかった。

  父はどんどん衰弱していく。日曜日の午後、従姉Hの助言で、父を救急に連れて行く。病院は前週の月曜日に行ったのと同じ病院。そこでは、前回と同じく整形外科医が父を診た。診断も前回と同じ。「父はもう立てない程衰弱しています、腿が痛いとも言っています。」と訴えると、「体を動かさないので筋力が衰えているのです。腿の痛みは腿の筋肉が衰えたせいです。」と答える。プロがそう言うならそうなのかと、病院とはほとんど縁のない私は、多少疑問を持ちながらも納得してしまった。
 玄人の医者に素人の私が、「先生、お言葉を返すようですが、父の不具合は外科では無く、内科の問題ではないですか?」とは物申せなかった。私としては、医者ならば、人間の体を見る玄人ならば、父の不具合が内科的問題であるとしたら、「これはもしかしたら内科の問題かもしれません。」と見抜くものと思っていたのだ。
 翌日、従姉Mの助言もあり、父のかかりつけの病院へ行き、紹介状を書いてくれるよう頼んで、やっと、内科の検査を父は受けることができた。即、入院となった。
          

 記:2010.4.23 島乃ガジ丸


男の力と女の気遣い

2010年04月23日 | 通信-社会・生活

 先週月曜日(12日)から父の体調が悪くなり、以降、父は急激に衰弱していった。杖を使っても歩けなくなり、寝た状態から起き上がることができなくなり、歩行器を使っても体を支えることができなくなり、寝返りすることもできなくなっていた。

  日曜日(18日)の朝、父はベッドの上にいた。ベッドは従姉Hの家から持ってきた介護用のベッド、ベッド全体が上下し、頭の部分が起き上がるもの。その頭の部分を60度くらいに上げた状態で、父を私の方を見て、「動けない」と言う。
 父を動かし、ベッドの端に腰かけさせ、歩行器を握らせ、自力で立たせてみる。まったくできない。抱き上げて、両手で歩行器を握ったまま、両足を床に付けてみる。手を離すと、父は崩れる。父はもうつかまり立ちもできなかった。
 父の急激な衰弱に、私はどう対処していいのか戸惑った。で、従姉Hを呼ぶ。父に紙おむつの使用を承諾させて、Hに紙おむつを買って来て貰い、彼女に父の介護を頼む。Hは父の濡れた服を脱がせ、風呂に入れて体を洗い、紙おむつを穿かせ、服を着させ、食事を摂らせ、歯を磨き、髭を剃ってあげ、ベッドに寝かせた。

 太ったオバサンのH、いつもはトロトロした動きなのに、この時はテキパキしていた。何とも頼もしい奴と、普段、そのノロマをバカにしていた私は大いに見直した。
 「頼りになるね、ありがとう。」と言うと、
 「私は十分経験しているからね。」と答える。
 彼女は既に彼女の父親と母親の介護を経験済みであったのだ。ただしかし、その経験は動作だけでなく、心遣いにもあった。彼女の言葉は優しかった。父の心を傷つけないように心を配っていた。幼い子を諭すような言い方であった。母性?と思った。
 しばらくして、「紙おむつ換えようか?」と、私が父に訊くと、息子に下の世話などと思ったのか、「まだいい。出ていない。」と父は答える。その日、私は実家に泊った。翌朝、父はベッドの上に寝たままであった。紙おむつを換えなければと思ったが、父は嫌がった。で、また従姉Hを呼ぶ。Hはテキパキと動き、おむつを換え、着換えさせた。

 Hが帰ってしばらく経った後、父がトイレに行きたいと言う。雲子のようであった。父が一人で便器に座り、一人で用を足すことができるとは思わなかったが、紙おむつに雲子をした後、どのように処理をすればいいのか私には見当がつかなかったので、父の言う通りにしようと、父を抱き上げて、便器に座らせた。体重50キロ弱の父であったが、その体を持ち上げるのは大きな労力であった。大汗をかいた。
 用を足した後の父の尻を、私はちゃんと拭くことができなかった。親父の糞を拭きとることに大きな抵抗があった。で、おざなりに拭いて、紙おむつを穿かせた。私には、Hのような気遣いも無かった。父の心を傷つけたかもしれないと、後で思った。
 その日の午後、Hの姉である従姉Mに来て貰い、父の面倒を見て貰う。Mもテキパキしていた。そして、優しかった。HもMも父への気遣いが十分あった、その気遣いが私には不足していた。しかし、父を抱き上げることは、私にはできても彼女たちにはできない。介護は、男の力と女の気遣いが必要なのだと思った。介護は大変な仕事である。
          

 記:2010.4.23 島乃ガジ丸


男の意地

2010年04月16日 | 通信-社会・生活

 月曜日(4月12日)、従姉Mが、一人暮らししている叔父(私の父)を訪ねると、叔父は、足のむくみで歩けない状態となっていた。病院へ連れて行き、検査をした結果、入院するには及ばないとなり、家に戻った。夜になって、私も実家へ行く。
 父は両足がむくんで歩き辛そうであったが、それでも、一人で階段を上り、ベッドに入った。「大丈夫そうだな」と従姉と確認しあって、その日は帰った。
 翌日の午後、仕事中に那覇市の職員(老人介護支援関係)から電話がある。「インターホンを鳴らすとハイと返事があったのですが、その後15分待っても出てきません。倒れているんじゃないか心配です。」とのこと。私は実家の近くに住む甥の嫁M(実家のカギを持っている)に電話し、とりあえず、彼女に行って貰った。しばらくして、彼女から電話があり、父が床の上に倒れていたこと、意識ははっきりしていることなどの報告を受ける。その後、私も実家へ行き、市の職員や父から話を聞く。
 父は、足のむくみが引かず、足に力が入らなくて、ソファーから立ちあがろうとした時に倒れて、そのまま起き上がれなくなったとのこと。

 五十代で脳梗塞を患い、以来、右半身に不具合の残っている父は、年齢を重ねるごとに不具合の具合が少しずつ悪くなって、七十代半ばとなった3、4年前に、散歩の途中で転んでしまった。転んだと聞いて私は、「歩くときは杖を使えよ。」と進言。が、「嫌だ、まだそれほど弱ってはいない。」と父は「何言ってやがる!」といった顔で拒否。説得を続けたが、父が杖を持つようになったのはそれから一年以上も経ってからだ。
 その日(火曜日)、市の職員も帰って、父と二人になってから、玄関に置いてあった父の杖を私は持ってきて、「家の中でも杖を使うようにしろよ。」と進言。が、「家の中では必要ない!そんなもん早く玄関に置いてこい。」と拒否。「あー、そうか。」と私は言う通りにし、「じゃあ、次は土曜日に来るから。」と言い残して、家を出た。
 1時間ほど、実家の近く、那覇新都心のスーパーなどで買い物をして、実家へ戻る。中へ入ると、父は床の上に倒れていた。椅子から立ち上がろうとして、足だけでは立つ力が十分無くて、それで倒れてしまったようだ。「ほら見ろ、言わんこっちゃない。」と私は心の中で思い(何と冷たい息子)、「杖を使うか?」と父に訊く。父は素直に頷く。

  その時、「ヘルパーを頼もうかな。」と呟くように父が言った。これまで、姉が勧めたり、市の職員が勧めたりしていたのを何度も断ったヘルパー。翌日、仕事を休んで、私は市役所へ行き、父担当の職員に相談した。ヘルパーは手配できるとのこと。
 「お父さん、何度も断ったんですよ。」
 「杖を使うのも嫌がったし、年寄りは強がるんですかね?」
 「いえ、そうでもないです。お父さんは特に強がりです。」とのことであった。
 市役所から即、実家へ行き、「ヘルパー頼んだよ。」と父に報告する。父はしかし、嬉しそうではない。他人の世話になることにまだ抵抗があるようだ。「足のむくみが取れるまでだ。」と言うと、「そうだな、一時のことだな。」と、やっと笑顔を見せた。
 父の「他人の世話にはならない」という思いは、男の意地かもしれない。その心意気はアッパレだ。が、「他人」の中に息子や姪も含めて欲しいと、冷たい息子は思った。
          

 記:2010.4.16 島乃ガジ丸


他人の活躍

2010年04月09日 | 通信-社会・生活

 先週土曜日のお昼後、近くのスーパーへ買い物に出かけた。そのスーパー、土曜日曜はたいてい混んでいて、駐車場も空きが少ないのだが、この日は入り口近くにも空きがあって、すぐに停められた。店内に入ると客も少ない。レジも並んでいない。もう一ついつもと違うことがあった。店内に流れる音楽が野球の中継放送になっていた。
 夏の高校野球、沖縄の興南高校が決勝に進出し、その決勝戦が行われていたのだ。決勝戦に進出したというのは前日のニュースで知っていたが、決勝戦のことはすっかり忘れていた。私に郷土愛が無いというわけでは無い。戦う本人達やその身内の人達にとっては大いに喜ばしいことであろうが、興南高校が優勝したからといって、私の幸せには何の影響も及ぼさないと思っているだけだ。実際、何の影響も無い。
 スーパーから図書館へ向かった。信じられない(信じられる人もいるかもしれないが)ことに、図書館でも、いつもの静かな音楽では無く、野球の実況を流していた。そこで閃いた。「今なら道路も空いているに違いない。今のうちにHの店に行こう。」と決め、そこへ向かう。Hの店のHPアップ作業を毎週やっている。その作業に。
 H夫妻は、私とは違って郷土の野球少年を我が身内のことのように思うタイプだ。それでもまさか、店を閉めて家で野球観戦なんてことはあるまい、きっと、店内でテレビを観ているか、ラジオを聴いているかしているだろう、と踏んだ。が、しかし、私の予想は外れた。店には貼り紙があり、出張中とある。「出張?夫婦揃って出張?何処へ?」と思いつつ電話する。「家で野球観てるさぁ、あんたもこっちへおいで。」とのこと。

 私はH夫妻の誘いをお断りして末吉公園へ向かった。土曜日の午後はゲートボールのお年寄り、散歩する人、家族連れで遊びに来ている人たちなどで、いつもなら少々煩い末吉公園だが、今日は空いているに違いない。のんびりと散策できるに違いない。
 Hの店から末吉公園へはルートがいくつかある。その日は、いつもは通らないルートを選んだ。そのルートは最も近道だが、混んでいる交差点を経由しなければならない。なので、混雑の嫌いな私が普段避けているルート。ただ、その、常に混んでいる交差点が、興南高校の決勝戦でどうなっているかに興味があった。
 「郷土の高校が甲子園で決勝戦をやっている」威力は、常に混んでいる交差点にも影響を及ぼしていた。すんなりと抜けられた。「郷土の高校が甲子園で決勝戦をやっている」威力は、予想通り、末吉公園にも影響を及ぼしていた。1時間ほど散策している間に私が見かけたのはたったの7人だけであった。家族連れはいなかった。

  私も若い頃はスポーツ観戦に熱中した。高校野球(沖縄の高校の試合に限る)、プロ野球(贔屓の選手、球団に限る)、大相撲(贔屓の関取に限る)、プロボクシング(沖縄の選手、または日本の選手のタイトルマッチに限る)などに熱中した。
 しかし、オジサンという歳になって、「応援するチームや選手が勝ったからといって、俺の幸せには何の影響も及ぼさない。」ということを知ってからは、少なくとも熱中はしなくなった。より身近なチームや選手に感情移入して「その選手は自分である」錯覚ができなくなったのだ。「他人の活躍だ」と思ってしまう。しかしそれでも、宮里藍やイチローが活躍することは望んでいる。他人の幸せを妬むほど捻くれてはいない。
          

 記:2010.4.9 島乃ガジ丸