ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

1億2千万体の人型ロボット

2005年10月30日 | 通信-科学・空想

 天才科学者天馬博士の息子もまた天才科学者であった。天馬ジュニアは父親の亡くなった後、父の研究を引き継ぎ、密かに人型ロボットを作り続けた。それらのロボットは全て天馬ジュニアに従順であるようプログラムされていた。
 ロボットの数体は、博士と同じ科学者としての能力を与えられ、彼らがまた博士の代わりに別のロボットを作り上げた。そうやって作り上げられたロボットにはさまざまな種類があった。単純労働をするもの、知能労働をするもの、肉体労働をするものなど、およそ、ロボットだけで社会が形成できるほどとなっている。じっさいに、博士の研究所は地下にあり、そこはおそろしく広大であり、まさに地底国と呼べるものであった。そこには、いしいひさいちの地底人こそいなかったが、膨大な数のロボットで溢れていた。
 地底国で生産されたロボットのうち、もっとも数が多いのはアトム並みの知能を持ち、アトムの10分の1程度の身体能力を持った戦闘型ロボットであった。そして、それらのロボットもまた全て博士の僕(しもべ)となるようプログラムされていた。
 天馬ジュニアの野望は世界制服である。戦闘型ロボットが100万体になれば地上に出て、世界の国々を滅ぼしていくつもりであった。
 野望を持ってから60年が経った。天馬ジュニアも90歳となった。30歳で大学教授の職も辞したため、以来収入も無く、この60年で父の残した遺産も全て使い果たした。そして、その資金不足のせいもあって、肝心の戦闘型ロボットの数は、目標の半分にもまだ達していなかった。資金不足によって、自家発電用の燃料も調達できず、燃料はもうあと2、3日分も残っていない状況であった。燃料が切れればマスターコンピューターの電源も切れる。全てのロボットたちもその動きを止める。
 資金不足のせいでまた、博士は数日前から食物を口にしていなかった。デスクにうつぶせになったまま博士は動かなくなり、そして、マスターコンピューターの電源が切れる頃に、彼もまた命の電源を静かに切った。野望成就に人生の全てをかけ、心身ともに力を尽くしたため、彼は結婚もせず、したがって跡継ぎもいなかったため、博士の地底国を知るものは誰もいなかった。地底国は地底に埋もれたままになったのである。
 というわけで、世界は博士の野望から救われたのであった。・・・なんて、いしいひさいちの地底人と同じオチになってしまったが、けして盗作では無い。たまたまです。
 世の、私の同士である平和主義者たちには申し訳ないことであるが、私は、自衛隊が軍隊と位置づけられることに関しては、自民党の憲法改正草案に賛成である。軍を保持しないという憲法があるのにも関わらず軍があるという現状は、やはり不自然だと思う。この件に関しては、私は民主党の小沢さんと同じ考えでいる。自衛隊が軍として、災害時に国民を救い、他国へも災害復旧のために出向くのは良いことであると思っている。侵略戦争を行わない、国民に対し、その暴力と権力を行使しないということだけを守っていただければ、世界の平和と、人々の命を救うために大いに活躍していただきたい。
 危惧するのは、中曽根爺の言う愛国心やら何やらを憲法に入れるといったことである。愛国心は心の問題、心までも法律で縛られたんでは、我々は国の支配するロボットになってしまう。1億2千万体の人型ロボットを国の、時の権力者が操れることになる。これこそが、じつに恐ろしいこと。軍隊を持つことがフツーの国などと私は思わぬが、むしろ、他国へズカズカと土足で踏み込むアメリカのような国は異常な国と思っているが、まあ、自衛隊のことは譲歩しよう。その代わり、心の問題は強制しないでいただきたい。
 国を愛せよなどと強要せずとも、国民から自然に愛されるような国であって欲しいと願う。国民を国に従順なロボットにしてはいけない。国民自らが自らの意思で「あー、日本人で良かった」と思うような国造りを政府、政治家、官僚は目指していただきたい。

 記:2005.10.30 ガジ丸


小さな地図を広げて

2005年10月30日 | 通信-沖縄関連

 私は、私が子供の頃の日教組(日本教職員組合)や沖教組(沖縄教職員組合)には先見の明のある人がいなかったのであろうと想像する。あるいは、広い視野で持って、多角的に物事を見、判断できる人がいなかったのであろうと想像する。
 現状は現状、将来は将来とそれぞれ箱を別個にし、現状の箱の中では今、子供たちのためにもっとも役に立つ教育は何かを考え、将来の箱の中では、子供たちが将来、平和で心豊かな生活を送れるようにするにはどうしたらいいかを計画する。そんなことを冷静に、的確に判断できる人材が日教組にも沖教祖にもいなかったのではないかと想像する。
 せっかく隣にアメリカ人がたくさん住んでいるのだ。物心つく頃からそんなアメリカ人たちと交流を持ち、仲良くしていれば、今頃私は英語ペラペラだったはずなのである。そういうことを積極的に学校の先生たちがやっていれば、沖縄人の多くは英語がペラペラだったはずなのである。学校の先生たちが反基地だったお陰で、沖縄人たちの多くはせっかくの機会をフイにしたわけである。まことに残念なことなのである。
 虐げられている沖縄人が、虐げているアメリカ人と仲良くするというのは気分の悪いことであったかもしれないが、そこはぐっと堪えて、一歩足を前に出す。握手する。肩を抱く。話をする。互いに理解する。そうすればだ。アメリカ人もバカでは無い。沖縄人も自分たちも切れば血の出る同じ人間だと気付くであろう。そういうアメリカ人を徐々に増やしていけば、そのうちアメリカ人の過半数が、沖縄人は優しい人たちだ。バカにするようなこと、苛めるようなことをしてはいけない、となる。沖縄にあんまり基地が多いと、沖縄人が困ってしまう。基地はなるべく少なくしよう。などと思うかもしれないのだ。
 2005年10月28日夜、普天間飛行場の代替基地建設場所について日米が合意したとのニュースが流れた。「やっと決まったか」と私は思う。当初は県内移設に賛成していた沖縄県の現知事も、辺野古への基地移設に同意していた名護市長も、今では県内移設反対の立場にあるらしいが、普天間に基地があるという大きな危険が少しでも減少することは前進だと私は思っている。目標ははるか100歩先で、今回の移設はたった1歩の前進かもしれないが、毎年1歩進む。1年で1歩進めば、100年後には目標である「基地の無い平和な沖縄」を得ることができる。今回の合意も一歩の前進と、私は受け止めよう。
 ただし、平和主義者の私なので、もちろん基地の県内移設という今回の合意に諸手諸足を挙げて賛成というわけでは無い。条件が1つある。日米両政府の基地問題に関する担当者たちは今回の合意に際し、おそらく小さな地図を広げただけで、あれこれ協議したに違いない。その小さな地図には沖縄の島々しか載っていなかったに違いない。それでは不十分なのだ。その小さな地図は閉じて、もっと大きな、世界中の国々が表示されている地図を広げて、そして、その上で沖縄の基地問題を、普天間基地の移設先を協議して欲しいのである。それでもなお、やはり辺野古しか場所が無いというのであれば、それに多くの人が納得するような正当な理由があれば、その限りで私は、、少なくとも小さな前進として、その協議結果を受け入れても良いのである。

 記:2005.10.29 ガジ丸


役者の力

2005年10月30日 | 通信-音楽・映画

 小栗康平監督の『埋もれ木』を観て、理解できずにいたモヤモヤを引きずったまま、その5日後の木曜日(10月27日)に、またも映画を観に行った。映画は久茂地のパレット市民劇場で1日限りの上映であり、時間も最終が6時半ということで、その前日に、明日は残業が無いということを確認してから近くのプレイスポットで前売り券を買った。当日、家に帰って着替える時間的余裕は無い。昼後、作業着からジーパン姿になって、午後の作業をこなし、職場から直接、パレットへ向かった。
 映画は『父と暮らせば』という題。監督は黒木和雄という名で、有名な監督らしいが、私はまったく知らない人。これもまた、だいぶ前に映画のチラシを見た。私は映画を観る前にはたいていその映画を紹介しているチラシを見ているが、チラシの内容をほとんど読んではいない。特に、あらすじやら評論家による映画の評価などはまったく読まない。映画の題、キャッチコピー、出演者、そして監督名などを主に見ている。
 チラシの上半分に主役の宮沢りえの写真と、キャッチコピーとして使われている彼女のセリフが書かれている。セリフは「おとったん、ありがとありました。」
 この舌足らずと思われるようなセリフから私は、この映画は知能障害を持つ年頃の娘と、それを優しく見守り、深く愛し続けた父親の話かと想像した。知能障害に加え、何か不治の病にも冒された娘がいよいよ死ぬ間際になって、深く愛し続けてくれた父親に対し最後に言った言葉が、「おとったん、ありがとありました。」なのかと想像した。数日前に、たまたま会った友人から「広島の原爆被害の話みたいだよ」と聞いて、原爆で言語障害になったか、白血病で死ぬのかと、さらに我が想像を確信した。
 映画が始まってからすぐに、宮沢りえと原田芳雄のセリフから「おとったん、ありがとありました。」が舌足らずなのでは無く、広島弁だということが判った。もちろん、宮沢りえが知能障害ではないこともすぐに判った。しばらくして、宮沢りえが不治の病に冒された年頃の娘では無く、恋が始まったばかりの、その恋に戸惑う年頃の娘であることが判った。そして、存在感のある原田芳雄が幽霊であることも判った。
 映画は、私の心を鷲掴みにし、ぐいぐいと引き込んだ。宮沢りえも原田芳雄も、元より私の好きな役者なのではあるが、その演技は、「見事!」という外無い。井上ひさしの原作の力もあろうが、黒木和雄監督の力もあろうが、この映画、二人の主役の言葉、表情、所作だけで十分に悲しみと愛情を含んだ空気を表現していた。良い映画であった。私が今年観た映画ではダントツの一位と評価したい。
 じつは、この映画は、反戦反基地運動の一環として沖縄の女性団体が主催したものであった。上映の前に、その女性団体と同様の主張を持っているという人がミニコンサートをやった。彼はリズムのはっきりした曲を大音響で5、6曲歌った。映画の前に、戦争の悲惨を深く感じ、深く考えようと心の準備をしていた私は驚いた。驚いて、そして腹立って「歌っている歌詞は、そりゃ平和を望むような内容かもしれないが、あんまり煩くて歌詞が聞こえないじゃないか。何より、大音響で、ドラムの激しいリズムを聞かされたら、これから戦いに行くぞーって気分になるじゃないか。平和は戦って勝ち取るものという主張なのか。」ということを私はアンケート用紙に書いた。が、映画を観終わって、無上の満足感を味わった私は優しくなっていた。アンケートは出さずに、破り捨てたのであった。
 なお念のため、ミニコンサートをやった彼の音楽を私は好まなかったが、地道に平和運動をやっている尊敬すべき人らしい。私の隣の隣の席のオバサンが、私との間の席に大きなバッグを置いていて、そこからケンタッキーフライドチキンの匂いがプンプンするのも気になって、大音響への腹立ちが倍になったのかもしれない。

 記:2005.10.29 ガジ丸


見るんじゃない、感じるんだ

2005年10月30日 | 通信-音楽・映画

 金曜日にしかアップしないガジ丸通信、今日は号外。来週、ガジ丸は休みなので、最近観た映画のことを2題、その感想を忘れないうちにと思っての号外。映画の他に、沖縄にとって大事なこと、日本と日本国民にとって大事なことなど、私も前から気にかけていることが続けてあったので、それらも加え4題アップ。

 「見るんじゃない、感じるんだ」というセリフは映画のワンシーンで、ブルース・リーが修行する少年に言った言葉の日本語字幕スーパーだったと記憶している。相手の動きを見て体を動かすのでは遅い、動きを感じて対処せよということだろう。
 「観るんじゃない、感じるんだ」あるいは「考えるんじゃない、感じるんだ」ということは、芸術を鑑賞する際にもいえることではないだろうか。先々週の土曜日(10月22日)に桜坂劇場へ出かけ、小栗康平監督の作品『埋もれ木』を観た。“観たり”、“考えたり”した私には、まるで難解な現代詩を読んでいるみたいに、『埋もれ木』がいったい何を表現しているのかさっぱり理解できなかった。
 その2週間ほど前に『埋もれ木』のチラシを見た。その中にある「自分の夢と仲良くしよう」というコピーを見て、また、芸達者が並ぶキャストを見て、それより何より、監督が小栗康平であることを見て、これはぜひ観に行かなくちゃあと思ったのであった。が、観終わった後はモヤモヤの残る消化不良の気分となった。
 画面にときおり綺麗な映像が現れる。「おー、きれいだ」と感じる間もなく、そう感じたシーンには決まってオーケストラの深く重苦しい音楽が流れる。「何だ、何だ、このきれいなシーンに何か深い意味でもあるのか」と考える。登場人物たちのゆったりとした台詞回しにも何か意味があるのかと考えたりして、しまいには疲れてしまったのである。
 思えば、20年以上も前に『泥の河』を観た時も、私は映画の表現するところをきちんと理解することはできなかった。その後しばらくして観に行ったマルセ太郎のパフォーマンスによって、『泥の河』が何を表現しているかをいくらか感じられたのであった。
 山田洋次や安藤忠雄といった一流の感性を持った人たちが手放しで褒めていることから、『埋もれ木』が素晴らしい作品であることは想像できるが、残念ながら私にはその良さが理解できなかったのである。「へへんだ。こんな映画理解できなくても、世の中には解りやすくて面白い映画はいっぱいあるぞ!」なんて、私は拗ねたりはしない。良い感性、深い感性は理解できるようになりたいと願っている。頭も心も硬くなっているオジサンではあるが、「見るんじゃない、感じるんだ」修行を始めようかと思うのである。

 記:2005.10.29 ガジ丸


抜け目の無い人、抜けた人

2005年10月28日 | 通信-その他・雑感

 月曜日から水曜日の夜は、ガジ丸の島の記事を書いている。飯食ったり、風呂入ったりの日常生活に費やす時間以外の約3時間は、記事を書いている。書いている時、自分の脳内には知識が無いもの、あやふやなものなどがあった場合は、それらを調べながら書いている。不明な点の解明は、手元にある参考文献だけで事足りる場合もあるが、そうでない場合も多い。そういったときはメモしておいて、翌日、職場にある文献で調べている。
 火曜日はベッドのシーツを取り替える日、物臭なオジサンは1週間に1回しかシーツを替えない。「何だ!悪いか!これは俺の心と体の問題だ。他人がとやかく言う筋合いのものでは無い」などと濃い墨総理が言うのと同じようなことを、私は思っている。話は本題から大きく逸れるが、もしも、私のベッドに添い寝してくれる女性がいて、その人が「シーツは毎日替えて、私はその方が心落ち着くの」と言えば、私は少なくとも「毎日は大変だから週に2回ということにしてくれ。」と、ある程度は譲歩する用意がある。
 シーツを取り替える作業をしながら、その直前まで書いていた記事の中で、ふと、あの件(くだり)はもしかしたら自分の思い違いかもしれないぞ。明日、職場にある参考書で確認した方がいいぞということに気がついた。メモしなくちゃと思いつつ、シーツの取替えが先だろうと思いつつ、あっち行ったりこっち来たりを繰り返す。頭の中もあっち行ったりこっち来たりして、何だかボーっとしたままシーツが新しいものに替わった。
 その間、メモを書いたような覚えもあるが、「はて、メモは書いたっけか?」と記憶が確かでは無い。「まあ、いいや、先にシーツの洗濯だ」と、使っていた方のシーツを洗濯機に入れようとしたが、そのシーツが無い。「ボーっとしている間に洗濯機に入れたか?」と、洗濯機を覗いたが、そこにも無い。しばらく「???????」のまま数分。ひょっとしたらと確かめたら、ひょっとしていた。古いシーツはそのままにして、その上から新しいシーツをかけていた。こんなことは生まれて初めてのこと。老年にはまだだいぶ遠い私だが、酒の飲み過ぎかなんかで脳の老化は早いかもしれない。いよいよ来たか、と思う。
 改めて、シーツを取り替えた後、「そうそう、メモをしなくちゃ」と思い出し、「メモすること、メモの内容まで覚えているんだ。脳はまだ大丈夫だ。シーツのことはたまたま魔が指したのだ。」と少し安心しながらメモを書き、一服しようとタバコの箱を取る。タバコの箱の下に同じことを書いたメモがあった。書いたメモを忘れないようにとタバコの下に自分で置いたことを思い出した。おー、こわっ!大丈夫か?俺の脳味噌。
 このような抜けたことを、私はたびたびやる。これから年取るにつれてその頻度は高くなるであろう。そのうち私は、「あの抜けた人」と言われるに違いない。
 世の中には私とは大きく違って、「抜け目の無い人」もたくさんいるようである。前に、沖縄の宝である泡盛の、その「泡盛」という言葉そのものを商標登録した倭人がいた。沖縄に数多くある泡盛の醸造会社が、泡盛という名を使うたんびにその倭人へ名前の使用量を支払わなければならないということになる。が、まあ、それはさすがに伝統の泡盛、その倭人の目論見は外れ、泡盛という言葉は自由に使っていいということになった。
 シーツ事件の二日前の日曜日、「そろそろシマラッキョウを植えなくちゃ」と農協へ種株を買いに行く。ところが、シマラッキョウは10月の初めには品切れとなったらしい。最近人気の出たシマラッキョウ、抜け目の無い本土の業者が買い占めたとのことであった。お陰で私は、私の毎年の春の楽しみを失った。抜け目無いにも、困ったものである。

 記:2005.10.28 ガジ丸