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『今夜、すべてのバーで』中島らも

2009-09-27 | books

「今夜、すべてのバーで」中島らも 講談社 1991年(初出小説現代1990年10~12月号)

壮絶な人生を生き逝きた中島らも。彼のアル中体験を元にした私小説的なこの作品。なんの因果か再読してみた。

アル中で緊急入院をするフリーライターのおれ。検査と医者と同室の患者たちとの日々。γGTPが1300というとてつもない数値をどうして叩き出すようになったのか過去を振り返りつつ、日本という社会、アル中という病を多方面から分析しながら、決して笑えない物語が炸裂してゆく。

いやいやいや。これはすごい。読んだ記憶がほとんどない。この本が出た当時は訳の分からない人生を送っていたからだろうか。今も訳分からないが。後に読んだ「ガダラの豚」ならよく覚えているのだがね。よく読んでみると、<おれ>とその友人天童寺は中島らもが体験したことを二人に分割しているのが分かる。だからこその壮絶なリアリティなのだ。

アル中であるということ、アル中になるということ、アル中を身内に抱えるということをこれほどシニカルにかつ説得力を持った物語は読んだことがない。アル中を、もっと広げてaddict(中毒者)全般を描いた物語の中でも最高峰にある。

addictで死んだ多くの有名人の中でエルビス・プレスリーを例にあげ、彼が「みじめな状態でいるよりは意識を失っていたほうがマシ」と言っていたのを<おれ>は、それは泣き言だと言う。それよりも同じジャンキーならウィリアム・バロウズについて



 おれは自分が中毒者であるだけに、プレスリーに同情はしない。もちろん、自分に対しても同情やあわれみを持たない。さやかがおれに言ったように、”勝手に死ねばいい”のである。
 同じジャンキーでも、湿けた甘えを自分から叩き出した人間には、さらさらした砂のような、あるいは白く輝く骨のような美しさがある。地上の肉を脱ぎ捨てた美しさ。たとえばウィリアム・バロウズがそうだ。
 バロウズは四十代までの十五年間、麻薬に浸りきった生活を送っていた。その期間に書いた名作『裸のランチ』などは、書いたことさえ覚えていないと告白している。
 彼は、ジャンキー時代に自分の妻を誤って射殺している。夫妻でラリっていて、ドラッグがもたらす万能感の中で「ウィリアム・テルごっこ」をやったのだ。妻の頭の上にリンゴをのせ、それをバロウズはライフルで射った。弾丸は妻の胸に命中した。
 バロウズは、アメリカでも屈指の名家の出身だが、そうしてドラッグに関わる中で、失うべきものは全て失った人間だといっていい。それでも彼はプレスリーのような泣き言は一度として述べていない。どうして麻薬を常用するのか、という問いに対してバロウズは「それは、麻薬以外のことに強い動機を持たないようにするためだ」
あるいは、
「朝起きて、ひげを剃り、朝食を摂るためにそれが必要だから」
あるいは、
「麻薬はひとつの生き方だからだ」
と答えている。(115頁より引用)


この後も続くバロウズの話を何とも言えない、背筋を針でギリギリと引っ掻かれるような気分で読んだ。

おれはその後政府にあり方について考えた上で、アメリカの生活保護について語り、



 アル中の要因は、あり余る「時間」だ。国の保障が行き届いてことがかえって皮肉な結果をもたらしていることになる。日本でもコンピュータの導入などによって労働時間は大きく短縮されてくる。平均寿命の延びと停年の落差も膨大な「空白の時間」を生む。
「教養」のない人間には酒を飲むことくらいしか残されていない。「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間をつぶせる技術」のことである(122頁より引用)



うーむ。ラストに父がアル中である家族に対する医者、ケースワーカーたちの治療、援助のケースタディが出てくる。これが実に読ませる。しかもこれが実際にあった話だと巻末に書いてあるのを読んで、叫びだしたい衝動が襲ってきた。

本当に凄い作品だった。アル中になりそうな人に、なる前に読んだ方がいいなどと、説教臭いことを言うつもりはない。ある一人の人間の半生を描く壮絶な物語として広く薦めておきたい。
 






今夜、すべてのバーで (講談社文庫)
中島 らも
講談社

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