3月に入って東北のあの日のことが、何度も何度も報道されて、とうとう昨日で10年という時間が経った。
今まで、あまりの現実のすごさ、むごさ、悲しさで、語られなかったことが、いろいろな人の言葉として発せられ、残った映像で、忘れてはいけない、備えよ、と。
アタマをたたき割られるような圧倒的な自然の破壊力。
その記憶の中で、生きて来られたみなさん。
驚きと、涙なしには、耳に、目に、できない。
福祉亭のあの日。
2時46分。
その時に居合わせたみなさんが、前日も、昨日も、その時・・のご自分のことを語られる。
ただならない強い、揺れ。
目がつり上がってしまったボラさん、ご利用者さんの表情。
他のことは何も考えられない様子で、慌てふためき、厨房入り口を行ったり来たりされるかたも。
クッションをアタマに表に出るご利用者さんたちの姿。
壁に掛けられた額縁が、東西に激しく揺れ、吊られている室内灯も同じように動く。
ワタシがやれたことは、落ち着いて!の声かけと、フロントの背後のコップ類の棚を押さえただけ。
とても落ち着いて、対応できるような揺れではなかった。長かった。
そして、次の日からは、毎日毎日、開店前には、スーパーの前に並ぶ。
次の日の食材を買うため、定食のお米を買うため、日々の消耗品をそろえるため。
隣のスーパー前では、お米が売られたり、倒れたお花が売られ、明るい陽ざしのもと、スタッフのみなさんの白いキャップと、買い求める住民の長い列が、なんだか記憶の中で鮮明。
福祉亭の記憶などあの日とそれに続く日々を経験した東北に比べれば、語るようなものも、こともない。
でも、極度の緊張感と息苦しい日々が、その日からしばらく続いた。
ガスが自動的に遮断され、復旧できないご近所さんのところに手助けにも行った。
福祉亭に、ご自宅のお米を娘さんとお届け頂いたかたの姿も記憶の中に。
日々の時間は、そんなできごともいつの間にか、片隅に追いやる。
でも、10年を語るどのかたにとっても、忘れることのできかねる、忘れてはいけないあの日のあの時間。
防災、この字と共に。
今まで、あまりの現実のすごさ、むごさ、悲しさで、語られなかったことが、いろいろな人の言葉として発せられ、残った映像で、忘れてはいけない、備えよ、と。
アタマをたたき割られるような圧倒的な自然の破壊力。
その記憶の中で、生きて来られたみなさん。
驚きと、涙なしには、耳に、目に、できない。
福祉亭のあの日。
2時46分。
その時に居合わせたみなさんが、前日も、昨日も、その時・・のご自分のことを語られる。
ただならない強い、揺れ。
目がつり上がってしまったボラさん、ご利用者さんの表情。
他のことは何も考えられない様子で、慌てふためき、厨房入り口を行ったり来たりされるかたも。
クッションをアタマに表に出るご利用者さんたちの姿。
壁に掛けられた額縁が、東西に激しく揺れ、吊られている室内灯も同じように動く。
ワタシがやれたことは、落ち着いて!の声かけと、フロントの背後のコップ類の棚を押さえただけ。
とても落ち着いて、対応できるような揺れではなかった。長かった。
そして、次の日からは、毎日毎日、開店前には、スーパーの前に並ぶ。
次の日の食材を買うため、定食のお米を買うため、日々の消耗品をそろえるため。
隣のスーパー前では、お米が売られたり、倒れたお花が売られ、明るい陽ざしのもと、スタッフのみなさんの白いキャップと、買い求める住民の長い列が、なんだか記憶の中で鮮明。
福祉亭の記憶などあの日とそれに続く日々を経験した東北に比べれば、語るようなものも、こともない。
でも、極度の緊張感と息苦しい日々が、その日からしばらく続いた。
ガスが自動的に遮断され、復旧できないご近所さんのところに手助けにも行った。
福祉亭に、ご自宅のお米を娘さんとお届け頂いたかたの姿も記憶の中に。
日々の時間は、そんなできごともいつの間にか、片隅に追いやる。
でも、10年を語るどのかたにとっても、忘れることのできかねる、忘れてはいけないあの日のあの時間。
防災、この字と共に。