ラムの大通り

愛猫フォーンを相手に映画のお話。
主に劇場公開前の新作映画についておしゃべりしています。

『島田洋七の「佐賀のがばいばあちゃん」』

2009-04-01 22:26:25 | 新作映画
----あれっ。これって何年か前に話してくれた
『佐賀のがばいばあちゃん』とは違うの?
「タイトルをよく見てごらん。
“島田洋七の”と付いているでしょ。
これは原作者である島田洋七自身が自らメガホンを取ったものなんだ」

----へぇ~っ。
ニャんでそんなことをしたんだろう?
それに第一、彼、これまで監督してないよね。
ちゃんと映画になっているの?
「まあ、映画作品としてどうかというよりも、
今日は、なぜこのような
セルフリメイク(?)をしたのか
ちょっとそっちを想像してみたいと思うんだ。
というのも、これもある意味、
映画というメディアの
特殊性を言っているようにも見えるから」

----どういうこと?
「前作は、がばいばあちゃんの生き方にスポットを当て、
その別れのシーンも含めて
かなり“泣ける”映画になっていた。
ところが、今回の“島田洋七”バージョンは、
全然ウェットでなく、むしろカラッとしている。
思うに、これは島田洋七のあのひょうひょうとしたイメージ、
それが今回の一連の『がばいばあちゃん』ブームで
少し揺らいだことに彼は危機感……と言ったら言いすぎかもしれないけど、
自ら軌道修正を行おうとしたのではないか?
ぼくはこの映画を観て、そう感じたんだ。
というのも、
映画の中には、あえて感動に水を差すような
漫才的コントをいくつも入れているし、
しかもそれを
少年時代の洋七が演じている。
また、この洋七役の子役・瀬上祐輝が
本物そっくりの八時二十分眉)。(笑)
そのキャスティングからして、
これは“泣かせ”を狙っていないことは明らか」

----ふうん。でもそれだけでまた作ろうなんて思うのかニャあ。
「もう一つは、
彼なりに『真説・がばいばあちゃん』を描こうと思ったんじゃないかな。
映画化やテレビドラマ化を横目で観ているうちに、
『あそこは違う』とか『あのエピソードが抜けている』とか、
自分なりのプライオリティが出てきたのではないか?
“島田洋七の”と、あえて銘打っているのは
そこに理由があるような気がする。
たとえば、ぼくは前回の映画の紹介のときに
彼が佐賀に預けられた理由も喋っているけど、
今回、洋七はそのナレーションで、
『理由がよく分からない』と言っている」

----でもさあ。映画と原作は別物。
原作の通りに映像化してしまったら、
それは映画じゃないのでは?
監督の自由裁量の部分があってこその
映画だと思うんだけどニャあ。
「普通はそうだね。
でも、これはいわば島田洋七の半生記。
つまりは実話なわけだ。
それがほかの人によって
本人には納得のいかない“定説”が作られようとしている。
これは“芸人・島田洋七”としてはマズイ。
そう思ったのではないかなあ」



           (byえいwithフォーン)

フォーンの一言「洋七の目はこんな感じニャ」もう寝る


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