今日は二人の父親の納骨に行ってきました。
行ったのは、あらゆる宗派のお骨を
納めさせてくれるという「一心寺」。
今春の3月に歩いた天王寺七坂のひとつ
「逢坂」のところにあったお寺です。
桜の花が咲き誇る季節だったあの頃は
まさか今秋にここへ納骨に来るとは、
しかも二人分のお骨を持ってくるとは
夢にも思っていなかったなあと思いながら、
紅葉がちらほらと見られるお寺の門をくぐりました。
大勢の参詣者でにぎわう中、
納骨は滞ることなく進み、
無事二人のお骨は仲良く供養のお堂に納められました。
無常に流れゆくときの流れの中で、
少しずつ心が安らいでいく想いです。
義父も実父も嵐の中で四十九日を迎えたことは忘れられないし、
特に実父の時には4日連続で夢に現れたことや
四十九日に西方に虹がかかったことも神秘的でした。
それらは、すべてdoironの心に起因するものなんでしょうが、
実は本日もそんなことがありました。
納骨を終え、お寺を出て
ふと空を見上げた時に、
空にまるで天女が舞うような雲が浮かんでいたのです。
これも普通なら見過ごす雲だけど、
きっとそんな状況がdoironに見せた
霊景なんだと思わせる現象でした。
思わず、空に向かって合掌しながら、
あらためてお二人の冥福を祈らずにはおれませんでした。
義父さん、親父、これでいいかな。
どうか安らかに眠ってくださいと。
銀行の壁面につけられた大きなパネルには
「シルクロードが終わるところ」
と副題をつけて
「暗越奈良街道」の説明が書かれてありました。
古くは天平時代大仏開眼のために
西方から訪れた僧もこの道を通りました。
また西暦745年に東大寺に戒壇を築き、
日本で初めての授戒を行った鑑真も、
この道を通って奈良へ向かったはずです。
正倉院の宝物もこの道の上を運ばれた
ということも書かれてありました。
民間信仰中心の聖地熊野に比べて、
こちらは華やかな仏教文化が行き来をした道なんですね。
ここからはずっと、
これでもかというほど
「しるべ石」が埋められています。
そして先ほどの街道石からまだ100mしか進んでいないのに
またこの石が建っていました。
建てて20年以上経つ割にはしっかりとしています。
その横には「熊野街道」に建てられていたのと
同じデザインの石碑もありました。
これはもうこのブログ読者ならよく見慣れた、
徳本名号碑ですね。
街道には欠かせない石ですねえ。
側面には「是の左へ3町 常善寺」と刻まれていました。
そうして小学生も全くいなくなった
静かな街道をしばし歩き、
この歩行の最初の頃に
何度か渡った平野川の「玉津橋」に出ます。
この橋の欄干には絵が描かれてあって、
この街道が越えていく
暗峠までの道のりが
イラストで描かれてありました。
その玉津橋を渡り、
八坂神社の方へと入っていきます。
境内には、このあと訪ねる二軒茶屋の
石橋に使われていたという石に
由緒が刻まれていました。
この神社が、ある時頑張って
暗越奈良街道まで伸ばした参道の
途中にあるこのおふろやさんは
東成区でもっと古い銭湯だそうです。
その街道との接点がここ。
ここに「距高麗橋元標壱里」の道標が立っています。
これ。
明治35年に珍しく「大阪府」が建てた道標です。
さあ、この歩行もそろそろ終わりに近づいてきました。
駅に近くなるほど、街が賑やかになってきます。
玉津1の交差点から、
玉造駅東商店街に入っていくと、
中ほどに「矢田地蔵尊」があります。
この街道の道標も兼ねた地蔵が置かれており、
「是ヨリ二里松原(東大阪)一里余くらがり峠・・」
と刻まれているそうですが、
前掛けをしていたので確認できませんでした。
代わりに地蔵堂の前に建てられていた
道標を紹介しておきましょう。
地蔵堂の中に収納してあった
パネルを引き出して読んでみると、
この街道の起点は、
明治時代には内安堂寺町からさらに北上した
高麗橋であると書かれてありました。
手持ちの資料とは少し異なりますが、
色々と変遷したのでしょう。
時代と共に、人々の旅の形態も
変わっていったことが伺えます。
その商店街を抜けたところには
三つ目の街道石が建っていました。
高麗橋まであと三.六キロと刻まれています。
つる屋とます屋という茶屋があった
二軒茶屋の跡にも石碑が建てられています。
ここが市中から旅立つ人々を見送る場所だったそうです。
この歩行のゴールとなる玉造駅にも
押さえておかなければならないものがあります。
それは環状線高架下の鉄骨にある
戦争時の機銃照射の跡です。
梅田のお初天神の鳥居にも
あったものと同じですね。
それは道路の真ん中中央分離帯の上にあり、
付近にパトカーが止まっていたので近寄れず、
遠くからパチリ。
何とか痕跡らしいものを撮影することができました。
それにしてもいつもながらに思うのですが
賑やかな町の中にもじっくり見て歩くと
たくさんの時間の痕跡が
残っているもんですねえ。
これで、今回の歩行は終わりなのですが、
まだ少し物足りなかったので、
電車で本町まで行き、
次の目的の焼肉屋さんまで歩いていくことにしました。
距離にして約3キロ。
大体これで本日の歩行は10キロとなりました。
お店ではこれまで食べたことのないような
高級お肉を出していただき、
尿酸値を募らせつつも楽しい時間を過ごしました。
そして飲み会終了後は
さらに難波まで歩いて帰り、
とっても満足の一日でした。終り
新橋通商店街は古くは映画館もあったり
寄席もあったりして、
心斎橋より栄えた商店街だったそうです。
いまはそんな面影もありませんが、
こんな古い豆腐屋さんなら
昔の話も語ってくれそうですし、
こんな本屋の親父も
店の奥からはたきで埃を払いながら
古い写真集なんかを出してきそうな、
そんな感じでした。
今里筋に出てなおも住宅街に入っていくと
古い赤レンガ倉庫がありました。
以前、この地域にはセルロイド工場が並んでいたそうで、
その名残です。
昔はセルロイドの精製に失敗して
爆発することが多かったため、
この煉瓦の建物も
爆風で飛びやすいように簡易な屋根で
作られていたそうです。
そんな事故が頻繁に起こったせいか、
この地域の人達の防火意識は高く、
防火バケツがいたるところに転がっておりました。
そして、さあいよいよ目的だった
「暗越奈良街道」に合流です。
この道は大阪から奈良を越え
伊勢まで続く道として、
主に江戸時代以降多くの人の往来で賑わったそうです。
多い時には一日7,8万人が往来したとか。
先日開催された大阪マラソンが
3万人のランナーでしたので、
あれの倍以上の人で賑わったとなると、
恐ろしい数ですね。
マラソンは応援していただけでも
人の波に酔うほどでしたが、
狭い街道をそれだけの人が歩くというのは、
途切れなく人の波が
押し寄せていたんでしょうねえ。
都市計画に沿って作られた道ではなく、
昔からの街道となると
道が微妙にくねっています。
長堀通に出ると道の向こうに続いている街道が見え、
その脇にある地下鉄の空気抜きの施設の横に
建っている道標が見えました。
これが有名な火袋式の道標です。
「左 なら いせ道」
「右 きしのだう くわんぜおん しぎさん 八尾 久宝寺 道」とあります。
もともとこの道標はすぐ近くを通る
北八尾街道との交差点にあったそうです。
左は奈良街道であることをあらわし、
右の「きしのだう」は今の喜志のことでしょう。
信貴山や久宝寺への道も案内しています。
当時は燈明も灯されて
旅人の安全を見守っていたのでしょう。
このあたりから道には「導き石」
(大阪市内は「しるべ石」と呼んでいるそうです)
が埋められています。
それを伝っていくと熊野大神宮を通ります。
伊勢詣での道ですが、
信仰深い人々の往来の脇には
ちゃんと「熊野」も鎮座しているんですね。
その熊野大神宮横の
聖徳太子が建立したといわれる
妙法寺の前には、
立派な石が二本立っていました。
ひとつは「聖観世音菩薩」と刻まれた石で
もう一つは
「ほうたがえふどう」と「おやこあんざん観音」と
刻まれています。
ここんとこ石に目の肥えた
doironが見ても立派な石でした。
またこのお寺には万葉集を現代語訳した
僧「契沖」の供養塔もあります。
そして、おお~、ついに姿を見せました。
「暗越奈良街道」の道標です。
「高麗橋から四.七キロメートル」とあります。
高麗橋といえば、
そうあの里程元標があるところです。
もともとこの街道は高麗橋が始点ではなく、
内安堂寺町なんですが、
距離感がわかりやすいように、
当時の道路表示の起点である
里程元標からの距離を刻んでいるようです。
これが、この街道名の入った道標との初対面でした。
そしてそのすぐ先の今里筋との交差点のところにある銀行の周りに、
各種説明板が建てられています。
この街道を奈良に向かって行った先には
「高井田」や「菱江」といった地名があります。
いずれも産土神を祀る延喜式内社がある地です。
そして暗峠を過ぎ、矢田丘陵の追分で、
土をなめた鑑真和上が「甘い」
といったことからつけられた「尼ヶ辻」という地名もあります。
遠い国から海を越え奈良に向かったこの道は、
そうあの「シルクロード」の最後の部分であったのです。
そのことが書かれた大きなパネルもそこにありました。
続く
近頃、歩いてからの飲み会
というパターンが多くなってきました。
大阪市内はこれまで熊野街道、
天王寺七坂、生国魂神社界隈、
今宮戎界隈、御堂筋、天神橋筋商店街、
野田福島と歩いてきましたが、
市内にはまだまだ歩きたいコースがあります。
今回も、昔からのラン友である
仁Oさんの飲み会に呼ばれていたので、
それに先立ち市内ウォーキングをすることにしました。
当時大阪から奈良までの最短距離であった
「暗越奈良街道」の鶴橋から
玉造の東側部分を中心とした散策です。
あの西方より様々なものが渡来した
シルクロードの東端にあたります。
と書けば壮大なイメージですが
実態はちまちまと歩いたわけです。
飲み会時間をターゲットにして家を出ました。
いでたちは、飲み会の行われるのが
ラン友の旦那さんがやっておられる
焼肉のお店ということで、
帰りは夜の繁華街を歩くことを意識して、
ジーンズに長袖上着
というきわめて普通の装束で歩くことにしました。
運動した直後にビールで焼肉というのが、
もっとも血液内尿酸にとって
ウハウハの状況をもたらすのですが、
こんな時のために普段は粗食に努めていますので
まあよかちんでしょう。
鶴橋の駅に降り立ったのがちょうど14時。
焼肉を食べに行くのに先立って、
スタート地点に焼肉の聖地鶴橋を選んだというわけです。
こんなコースを歩きました。
街道歩きだけではなく、
いろんなところを訪ね歩いたので、
こんないびつなコースになっています。
さあ、歩行開始です。
駅を出て千日前通りを東に向かいました。
玉津3の交差点にあったのが、
胞衣(えな)塚です。
「胞衣」とは胎児を包んでいた幕や胎盤のことで、
その近くに祠のあった「大小橋命」の
胞衣がおさめられているそうです。
「えな」は「よな」に通じ、
夜泣き封じの御利益がある
ということで地元で親しまれていると
説明板にありました。
その胞衣塚を左折すると
すぐ左手に鳥居があります。
「比賣許曽(ひめこそ)神社」
ん?どこかで聞いた名前やなあ
と思って考えてみますと、
そう、doironがかつて働いていた
M市に「阿麻美許曽(あまみこそ)神社」がありましたっけ。
調べてみますと、
許曽という名前のつく神社は
全国で100を超えるそうです。
許曽というのは、朝鮮半島にあった新羅という国の言葉で
祭祀を行う聖地的な意味があるそうです。
鶴橋に関連の国の外国人が多いのと
何か関係があるのでしょうか。
また近くを流れる「平野川」も
別名「百済川」といわれるほどですから、
この街の起こりと深い関係があるのに違いありません。
神社の中を鳥居をくぐらないように
注意しながら通り抜け、
狭い路地を歩くと、
ここもやはり昭和の匂いがしますねえ。
やがて広い道に出てなおもそれを横切って進んでいくと、
住宅の前にさり気なく「亀の橋」の痕跡があります。
鶴橋の語源となった「鶴の橋」
ネットから
に対して同じく縁起のいい名前として
名付けられた橋の痕跡だそうです。
そこを左折してぐるっと回っていくと、
今年の6月に亡くなった
義父さんの実家近くにさしかかります。
そこにあるのが、「松下幸之助企業の地」の石碑です。
あの有名な「改良ソケット」がこの地で誕生したんですね。
このあたりがモノづくりの町として
発展していく礎を築いた場所といわれています。
平野川の「剱橋」を左折し
うだつの上がる家並みも見られる
大成通の商店街を歩いていると、
小学生の姿が増えてきました。
こういう状況はやはり気を遣います。
南瓣天橋に詰めていた見守り隊の人に
胡散臭そうににらまれました。
こういう時はこそこそしていると
余計にあきませんね。
ちょっとすみませんと声をかけ移動してもらい、
橋柱の写真を撮らせていただきました。
あ、そうそうそしてこんな時には
手に地図を持って歩くのがいいようです。
あくまで旅人を演出しなくてはなりませんからね。
続く
先日地元の市役所から
2名の職員が我が家にやってきた。
税金の取たて?
それとも保険料の滞納?
いえいえ違います。
その一週間ほど前にも
仕事で市役所に行き、
市長に会って話をしてきたばかりなので、
何かあったのかと思ったがそうではなく、
街づくりのためのある協議会を立ち上げるので
市民委員になってほしいという依頼であった。
詳しくは書けないが、
安全に関する協議会である。
以前の職場でそんな事務局の仕事を見てきたことがあるし、
経験値はまんざらでもないということで
二つ返事で引き受けさせていただくことにした。
どうせ受けるのなら気持ちよく引き受けてあげたいからね。
期限は約3年かな?
それまでに結果を出さないといけないらしい。
退職時にそれに関する主な資料は
すべて職場においてきたし、
勉強のために家で集めた資料も
ほとんど廃棄していたので、
しばらくはまたイチから資料を積み上げて
勉強していかないとと思っている。
まあ遅かれ早かれこんな役は巡ってくるかなあ
という気はしていたが、
思ったよりも早くお鉢が回ってきたもんだ。
協議会の中身はきっとブログネタ満載なんだろうが、
それはやはり一切書けないだろう。
きっとムズムズしながら進めていくことになるんだろうて。
ここんとこ少しずつ人生があわただしくなってきました。
ま、とにかくこんなふつつかものですが
お役にたてるよう頑張ってみます。
前回桜井に来たのは
歩き残した山の辺の道を歩くためでした。
特に酒席の予定もなかったので、
その時は車で行ったのですが、
今回は後のことを考えれば
必然的に電車ということになります。
ミナミで昼食を摂り、桜井に着いたのは午後2時を回っていました。
折しも天気は「土砂降り」。
この時点で多武峰歩行も、
磐余街道歩行もあきらめて、
時間の許す限り桜井駅近辺を歩くことにしました。
駅で雨具を装着して、
まず最初に向かったのが、
「桜井」の名前の元となる井戸のある
「若櫻神社」
前回入っていった本町通商店街を左に見ながら南下。
ちょうど高校の下校時間と鉢合わせて、
前から来る学生達をかき分けながらの歩行となりました。
何せ傘もさしているものだから\\\\
歩きにくいことこの上ない。
国道165号を超えてすぐのところにその神社がありました。
その入り口のところにあった井戸がこれ。
地元の有志が復元されたそうです。
若櫻の井戸から桜井の地名となった由来があります。
見上げると、厳かな石段が続いていたので
鳥居をくぐらずに登って行きました。
ああ~早く喪が明けないかなあ。
うっそうとした木立の中に、
その神社があり、
写真を撮ったらあまりの暗さに
ストロボが自動発光したので
雨粒が画面に写りこんでしまいました。
今回の歩きには、仕事でも使っている
NIKONやCANONは持たずに、
古いデジカメを持って行ってたのです。
雨に打たれて大事なカメラがいかれてしまっても困るのでね。
そしたら久しぶりに使うものだから、
勝手を忘れていて、
雨の中ということもあって
細かい操作をできずこうなってしまいました。
雨というより雪のように写ってしまいましたねえ。
神社を出て、なおも高校生と
傘をぶつけ合いながら歩いているうちに、
次の目的地である土舞台へと続く道に折れたので、
やっと平穏に歩けます。
とはいえまだ雨はかなり降っておりましたが・・・。
住宅街のこれでもかという急坂を登って行くと、
土舞台への山道に到着しました。
実は最初はこの山道への入り口を見落としていたのです。
雨降りともなると、ロードから山道へと入っていくのは嫌なものです。
そんな心理が作用して見逃してしまったのかもしれません。
どうもおかしいぞと気付き、
買物荷物を持って歩いている
高齢者の女性に道をきいたら、
確かに見逃しておりました。
「ここはとっても急な道ですねえ」
とその女性に話しかけると、
「そうでしょ。でもいい運動になるんですよ」と笑っていました。
運動と思えるうちはいいけど
介護になったら大変ですよ、
とは言えず、「確かに!」と返しておいたdoironです。
山道を200mくらい登って行くと、そこが
「安倍山城跡」
南北朝時代に重要な役割を担った城の跡です。
そして、そのすぐ南側の広くなったところが
「土舞台」
飛鳥にある「石舞台」は有名ですが
「土舞台」とはちょっと珍しいでしょ。
桜井駅前の広場のモニュメントに書かれてある
「芸能発祥の地」というのがここです。
聖徳太子が少年を集め、
伎楽を伝習させた場なんだそうです。
そこでひと踊りして山を下り、
次に向かったのが「安倍の文殊院」。
愛嬌のある文字が刻まれてあるなあと思ったら
榊獏山の揮毫でした。
このあたりには他に「安倍寺」など
「安倍」のついた旧跡が数多く残ります。
安倍氏に深い縁のあるところ地なんですね。
文殊院の中には、
立派な道標が立っていました。
伊勢や当麻寺への道案内の道標で、
「仁王堂」というところの辻に建っていたそうです。
伊勢街道や磐余街道のランドマークです。
帰り道、その仁王道という地名のついたバス停があったので
撮影しておきましたよ。
ようやく雨が小降りになってきたようですが、
今度は酒席の時間が迫ってきました。
これだけ雨具の中で汗をかいたからには、
風呂に入って酒席に参加すべきだろうと、
旧跡を巡る歩行はそこで打ち切って、
前に行った「あすかの湯」まで
一駅分だけ歩いて到着しました。
これで雨具の性能試験も終わりです。
写真を自撮りしたのですが、
どうもうまくいきません。
タイマーを使ってとったらほらこの通り。
結局、ファイントラックのおかげで
肌着はさらさら、その上のTシャツが
雨具の透湿性に追いつかず
ぼとぼとという結果となってました。
予想通りではありまする。
てことで、雨具には問題なかったのですが、
やはり雨中歩行はごめんですね。
また天気のいい日を選んで、
多武峰に歩きに行こうと思っています。
そして入浴後はおいしそうなビールに目もくれず、
約束時間にちょうど合流。
ヘルシーな料理に舌鼓を打ちながら、
大和八木の夜は更けて行ったのでありました。
2014雨中の旅、終り
基本的には一人で自由に歩いているので、
降水確率が50%を超えるような時には、
インドア作業にいそしむことにしているものの、
あちこちを歩いていると、
思わぬ雨に降られたりする。
それに人と約束していて
それが忙しくてあまり一緒に歩けない人だったりすると、
少々天候的に無理をしてでも出かけることになる。
できるだけ人のお誘いは断らないようにしたい
とかねがね思っているので、
この際実行機会を増やすためにも、
雨具を新調することにした。
今使っている山用の雨具は、
なんと20年前に買った雨具なのだ。
早速会員になったばかりのモンベルに行くと、
それはそれはカラフルな雨具が並んでいた。
doironが今回考えているのはオレンジ色の雨具だ。
雨の中の歩行はやはり目立つ方がいいだろう。
機能面で行くとゴアテックスものが理想なのだが、
いかんせん高い。
貧乏ウォーカーには、手が届かないお値段なので、
ベンチレーションが山盛りの、
できるだけ通気性のよさそうなのを選ぶことにした。
買ったのはそのモンベル製の中グレードの雨具。
色といい、値段といい、機能といい、
すべてに平均点のモデルである。
これ。
となると次はそうして購入した雨具を
試してみないといけない。
でもねえなかなか雨の中を出て行こう
という気にはなれないんだよね。
何もわざわざ雨の日に歩かなくても
日にちの選択はかなり自由なんだから、
どうせなら晴れた日に出かければいいんだもんね。
ところが、雨具を買ってひと月あまりのある日、
ついに出番がきたのである。
奈良にお住いのラン友の
酒席にお呼ばれしていただいたのだ。
そこで、以前も同じ酒席のときには
それにあわせて大和三山を歩いたように、
今回は桜井周辺を歩いてみようと計画してみた。
太子町、法隆寺と聖徳太子ゆかりの地を歩いた後、
古本屋で山岸凉子の「日出処の天子」全七巻を購入し
読み終えた後、ますます興味が湧いて
行ってみたくなったのが「桜井市」だったとこういうわけだ。
日程は酒席の予約日で決まっている。
あとはコースを考えるのみ
という段階になって、
どうやらその日にちあたりが
雨かもしれないという予報になってきた。
されば、酒席には何としても参加したいので、
もし雨が降るなら新調した雨具を試すのに
絶好の機会となることになる。
かくして当日は予報通り雨であった。
宇宙飛行・・・ではなく雨中歩行だ。
雨の程度によっては、
桜井駅から談山神社までバスで行き、
多武峰を歩いて桜井に戻るコースを予定していたのだが、
よくよく地図を見てみると
どうも部分的に山の中も歩くそのコースは無理っぽかった。
なので、ゆっくりと家を出て
ミナミで昼食をしたあとから出かけ、
桜井駅周辺を歩くにとどめようというコースを選択した。
雨の度合いによって、
選べる3コースを用意して、
桜井駅に降り立ったのが午後2時。
駅前に立つと、これがもう最悪の雨模様。
早速目的の雨具に着替え、
用意しておいた中でも最短のコースを歩いてみることにした。
訪ねたいところは三か所。
でも一番の目的が、新調雨具の性能試験である。
この日の服装は、
ファイントラックのシャツの上に
発汗性のあるTシャツを着て、
袖にはアームウォーマー、
その上に雨具を来た。
下半身は、タイツの上に
若干の防水性のある半パンをはき、
背中に荷物を背負い、
傘をさして歩くといういでたちである。
多武峰がだめなら「磐余街道」、
それもダメなら「磐余の里」を目指そう
と思っていたのに、
カメラを出すのも憚れるほど激しく降る雨に
完全に萎えてしまい今回のコースとなった。
それがこれ。
合計5キロと距離は短いのですが山道もあったりして
どしゃブル雨の中ではそれなりに歩きごたえがありました。
では紹介していきましょう。
続く
昨夜は祭りの打ち上げ、つまり落策でした。
本来であれば祭りの次の日に催すのですが、
会長であるdoiron家の四十九日法要と
バッティングしたのでわがままを言って日延べをしてもらってました。
開催場所は、少し前までは町内の居酒屋で行っていたのですが、
そこは廃業されたので隣村の寿司屋の二階で行いました。
料理は鍋料理です。
この料理屋さんはとにかく新鮮、豪勢で
フグだと食べきれないくらい出てきます。
昨年はたくさん残ったので、
今年は小さめの寄せ鍋にしていただきました。
何せ弱小世話人会ですので
会計事情もキツキツなんです。
それにおっさん連中も年々歳を取り
食が細くなりますしね。
でもお酒はもちろん飲み放題。
ですが、参加者25人中
無茶飲みするのは3人くらいといたって健全です。
ただ、お祭り騒ぎの好きな人間が集まっているので、
大騒ぎかつバカ騒ぎは相変わらずなんだよね。
二次会も行って結局帰りは午前様でした。
宴会に先だって挨拶をしたのですが、
その場で会長の継続が決定。
まあ人の少ない町内のことですから仕方ありませんね~。
来年も賑やかなおっさん連中30人を
引き連れて、遊びますかね。
来年こそは今年と違って
祭りをメいっぱい楽しめる身であることを祈るばかりです。
巡礼橋を渡ると、
道の脇になにやら大きな石が転がっています。
これが、熊野御幸の際に
後白河法皇が腰かけたといわれる、
「腰掛け岩」の跡です。
跡というのは、実は
本来の石は戦後に畑の開墾に邪魔だ
ということで砕かれ(な、なんてことをするんじゃ)
今の石は2代目なんだそうです。
ちょっと腰掛けてみましたが、
ふむふむなかなかの座り心地です。
IKEAで販売してほしいです。
その先にあるのが「弘法井戸」。
弘法大師が杖で地面をトントンと突くと
そこから水が湧き出たといういわれは、
拝ノ峠や大和三山畝傍山の麓にあったものと
全く一緒ですね。
調べてみると「弘法井戸」は
全国各地に散らばっているようです。
その井戸から急な傾斜のベタ踏み坂を登って行くと、
「方津峠」です。
峠には祠があり、
いわくありげな石が三つ置かれていました。
女性と男性と子どもでしょうか。
ここから道は、案内に沿って進むと、
道のないひどい藪の中に入っていきますので、
古い方の車道を下ることにしました。
地図ではこのすぐ下で古道と合流するようです。
ありました。合流です。
それを右に折れると
古道は一気に街の中の道になっていきます。
「飛越橋」に合流してからしばらくは
逆川が合流してからの山田川沿いを進みます。
今はこの川も世界記録の8m95よりも広いように思います。
その記録保持者のマイクパウエルでさえ
飛び越えることは無理でしょう。
このあたりは、税務署や法務局、警察、
ハローワーク、スポーツ施設等の集まる官公庁街になっています。
そのスポーツ施設の一角にあったのが、
「湯浅の一里松跡」です。
糸我の一里松、宮原、蕪坂の一里松と並んで
旅のランドマークになっていた松ですが、
昭和34年の台風で倒れなくなってしまったそうです。
今は跡だけが残っています。
この旧跡を左に見て、
立派なスポーツセンターの裏側に回ると、
そこにデンと置かれていたのが、
河川の改修の際に
川底から現れたクスノキの一部です。
樹齢は推定800年で、
熊野に向かう旅人を長年見降ろしてきた木として
保存されているそうです。
それにしても、無造作な置き方ですね。
置き場所に困っているようにも見えます。
処分したくなったらいい方法を教えましょう。
「この川底から上がった木のかけらを拝めば
人生のどん底から這い上がれる」
という噂を流布すればいいのです。
みんなが削り取って行って
徐々になくなっていくことでしょう。
今もクスノキの香りが残る木だそうです。
さすがに香り高き区間に残っていた木ですね。
そこから川沿いの道に出て、
「一里松橋」や「宮後橋」を眺めながらいくと、
「おふろやさん」と大きく書かれた
「宝栄湯」が現れます。
doironは夏によく湯浅の海に行くのですが、
こんなところに風呂があるとは知らず、
国民宿舎や「ホタルの湯」などに立ち寄っていました。
今度は是非ここを訪ねてみましょう。
このあたりから湯浅の古い街並みに入っていきます。
街道沿いには熊野古道沿いであることを示す
行燈や
藤白あたりから頻繁に見られた提灯
燈明台を目にします。
そしてここ湯浅は醤油発祥の地ということで
醤油蔵の立つこのあたりに来ると
どことなく醤油の香りがするようです。
まったく今回は、いろんな香りに包まれた旅でした。
最後に、横綱級に立派な立石の道標を見て、
古い街並みをぶらぶら歩いて駅に出ました。
doironのトレイル号を駐車してある「湯浅駅」です。
遅い昼食を駅前の食堂に入り、
シラス丼をいただき、
帰路に着いたのであります。
秋の香り、みかんの香り、潮の香り、
松の香り、楠の香り、醤油の香り、
そして何よりいにしえの香りに包まれ、
熊野古道未踏区間の香り高き道を歩いた今回の旅、
これにて終了です。
急な上り坂を終え、
坂道の頂上に見えていた青い空に
手が届きそうなところに突然ポンと出たところが「糸我峠」です。
藤原定家はこの登りを
「険阻を凌ぎて、イトカ山を登る」と書いています。
doironもひと汗かきました。
わらじでここを登ったのなら大変だったでしょうねえ。
ましてや雨降りだったら、一筋縄では登れなかったでしょう。
有田の渡しといい、ここの急な登りといい、
昔の旅は天候に大きく左右されたことでしょう。
現在は石積みの跡と石碑があるだけですが
この峠にはかつて2軒の茶屋がありました。
そこではみかんを蓄えておいておき、
盛夏の頃にこれを出すと旅人は一様に喜び、
そのおいしさに驚愕したらしいです。
そりゃ、汗をしたたらせて登ってきたら
さぞやおいしかったことでしょう。
この峠から道の向こうに湯浅の町が姿を現します。
そしてその向こうには連なる紀州の山々も見渡せ、
人々は熊野への思いをいっそう募らせたことでしょう。
この景色が今回の歩行のベストシーンです。
ここから下り道が始まります。
なかなか味のある下り道やなあ
と思って歩いていたのですが、
ここが地獄から天上界への
「六道」をもじってつけられた
「道六路」と呼ばれていたそうです。
途中にはこんな看板が立っていました。
このあたりの松を削って燻した香り高き煙を
赤ちゃんに嗅がしたら
夜泣きがぴたりとやんだことから、
このあたりの松を
「夜泣松」
と呼んだそうです。
残念ながらもう松は残ってません。
削られすぎたのでしょうかね。
でもどことなく松の香りがするような気がしました。
さらにいわくありげな石の地蔵を見ながら
道六路を下っていくと、
老人憩いの家の前にあったのが
「行者石」です。
具をいっぱい包み込んだようなその形から
「餃子石」ともいわれています。
ないない。
行者がこの石の上で水垢離をして
身を清めたのだそうです。
この下の村を流れる
「逆川(さかがわ)」の川底から出てきたそうです。
それがなぜ行者石とわかったのか、
その辺の経過はわかりません。
下りきったところを少し右にそれていくと、
そこに「逆川王子」があります。
ここはスタンプポイントです。
忘れずに押しておきましょう。
おっ、ここで初めて気がついたのですが、
このスタンプを収納している箱が
「紀州材」を用いているそうです。
「紀州材」は主にヒノキなのですが、
この木の国紀州で育ったヒノキは
耐久性にも優れるとともに、
香りもあって防虫効果も高いそうです。
まさに「香り高き木」なわけですね。
野ざらしになっていることの多い
熊野古道のスタンプ収納箱の材料としては
うってつけともいえる木です。
何よりその地で育った木を
その地で用いるというのが、
木の特性にもあっているんだろうしね。
さらに、この王子名となっている
「逆川」の名前の由来も面白いのです。
この川はこのあたりでは海の方に向かって流れるのではなく、
山の方に向かって流れていくことから
その名がつけられています。
といっても、川は高い方から低い方へ向かって
流れていくという自然の摂理に反しているわけではありません。
地形の関係上、一旦山側へ流れ、
きのくに線が通る渓をぐるっと迂回して、
海にそそぐ湯浅の山田川に合流しているのです。
それを知らなければ確かに、
右が海方向なのに左に流れていくというのは
違和感を覚える景色になっています。
そしてさらに、「逆」の文字がついているのは
ゲンが悪いということで、
熊野古道を下りてきたこのあたりの地名は
後に改名されて、「吉川」と呼ばれています。
道に戻ってその逆川を「巡礼橋」で越えます。
続く。